9.彼を傷つける私の中の矛盾 (027)

 

【2月】Asuka[大学3年]


 私と壱也がつき合いはじめたという噂は、いろいろな人にあっという間に広まった。理由は私たちの間柄をいち早く感じ取ったあの要くんに壱也がしつこく追及されたから。
 別に隠すつもりもなかったけれど、今までつかず離れずの関係を長い間保っていた私たちにとって“今さら”という感があり自分たちから言い出せずにいた。
 要くんの話術というものは相当の影響力で、噂の広まり方から彼の行動範囲の広さと交友関係の充実ぶりがうかがえる。
 でもどちらにしても噂というのはピークを過ぎればまったく誰も興味を示さなくなるもの。最初はからかわれたり冷やかされたりしていたものが、だんだんとそれもなくなり一週間も過ぎれば平穏なものとなった。
 ただひとつのことを除いては……

 それはエリカちゃん。
 彼女の視線は日を増すごとに痛さを増している。壱也へのアプローチはなくなったけど彼女の無言の訴えは嫌というほど私に届く。
 彼女は本気なんだ。痛いと感じた視線は私の痛みではなく彼女自身の痛み。媚を売っていると思っていた彼女の行動は彼女なりの精一杯のアピール。
 僅かに潤んだ彼女の瞳には今も壱也だけが映し出されていた。


 今日はなぜか三人で学食でのランチ。三人とは私と壱也と要くん。
「明日香ちゃん。壱也と別れたら次、俺ね」
「それはないから。俺、絶対、明日香と別れないよ」
「いやいや、それは壱也のひとりよがりの考えだろ。お前がいくらそう思っても明日香ちゃんには明日香ちゃんの気持ちがあるんだぞ。壱也が振られる可能性は十分有り得る」
 話題の中心は私だけど、なんとなくふたりの会話に入り込めない。私はただ黙々とお昼ごはんを食べていた。
「そうだよねぇ? 明日香ちゃん」
「そ、そんなことは……」
 急に要くんに話を振られて曖昧な返事しかできないのはふたりを目の前にしているのがすごく恥ずかしいからで。むしろ振られるのが壱也のはずなんてあるわけない。
 壱也は私にはもったいないくらいの男の子。それは嫌というほど自覚している。
「明日香! もっとはっきり否定しろよ」
「うっ、ごめん……」
 友達から恋人関係になった私たち。だけどいまだに私が戸惑っていることを壱也が敏感に感じ取っている。だからたまにぎくしゃくしてしまう。
「まあまあ、ここではじゃれ合わないの」
 要くんが私たちをからった。勘のいい要くんだから、きっとこの微妙な空気を読んだに違いない。

 その日の帰りは壱也とふたり。
 大学からの道のりをこうしてマンションまで送ってくれることは、これで何度目だろう。陽が落ちたあとの2月の冷たい風が音をたてて舞い上がる。あまりの寒さにマフラーを巻いていた首をすくめた。
 一方、私の右手は壱也のポケットの中でぬくぬくと熱を保ち続け、その熱がさっき吹いた風の冷たさを相殺してくれていた。
「こうして手を繋いでいるとあったかいね」
「離すなよ……って言っても俺が離さないけど」
 ストレートな言葉が私の居場所を確保してくれて、それも壱也のやさしさなんだと込められた手の力に私も無言で返した。

 それからマンションの玄関先まで送ってもらい、そのまま壱也はバイトに出かけて行った。
 つき合って初めて知った。壱也は欲しい言葉をいつも私に与えてくれる。だからきっとこの先も私を不安にさせることなんてないと思っていた。
 だけどある日──

 2月の初め。
 それはメグからのメールがきっかけだった。
 メールの内容は、昨夜、駅前で壱也とエリカちゃんがふたりで一緒にいたというものだった。
 あのふたりが?
 昨日の夜は私はバイトだったし壱也とは会っていない。まさかとは思うけど私の心中は穏やかではない。
 だけど思い直す。偶然でないか。だって壱也は私を裏切るはずなんてない。私に内緒で彼女と会うなんて信じられなかった。例え偶然でなくても、理由があるに決まっている。

 だけど次の日、大学の授業の終わりにキャンパスで彼女に呼び止められた。
「明日香さん、お話があるんですけど」
 いつもの彼女お得意なほんわかとしたものとは違う改まった声に思わず緊張が走る。刺々しい物言いは私に対する挑戦に他ならない。
「話って何?」
 私も強い口調で返した。
「もちろん壱也さんのことです。分かっているくせに」
 彼女が私を呼び出す理由なんて最初から分かって言ったことだったけど、それを見事に返された。こちらが強気になったとしても怯む彼女ではなかった。覚悟を決めたような意気込みがじりじりと伝わってきた。
 場所を移動することになり、私はエリカちゃんに従うことにした。

 ここは人気のない校舎裏。
 こんなふうに呼び出されるなんて経験はないけど、なんだか高校生に戻った気分だな。エリカちゃんには悪いけど少しだけ可愛いと思ってしまう。うっかりして口元が緩みかけ、だけど、くるりと彼女が振り向いてこちらを見たので慌てて真顔に戻した。
「今さら壱也さんとつき合うなんてずるいです。今まで“私は興味ありません”みたいな素振りだったのに。あたしが壱也さんにアピールした途端に涼しい顔して盗らないで下さい」
 眉間に皺を寄せながら彼女は必死に訴える。
 だけど壱也には今までにもつき合ってきた女の子がいたわけだし、その言い方はちょっとおかしいんじゃないの?
「なんで、ずるいの? 私は、そんな理由で、つき合っているんじゃないよ」
「嘘……それなら、明日香さんは本当に壱也さんのことが好きなんですか?」

 ──好きなんですか?
 エリカちゃんの思いもよらなかった視点に自分の心がざわめくのを感じた。私は壱也を好きなのか……単純なことなのにすぐに返事ができないでいた。
 だけど、そんなの……好きに決まっている。気持ちはうまく切り替えられていないけど、それでも壱也を愛しいと思ったのは本当だから。それが好きということなんでしょ?

「好きだからつき合っているんだよ」
「じゃあ、どうして壱也さんはいつも明日香さんといるとあんな顔をするんですか?」
「あんな顔?」
「何度も大学でふたりが一緒のところを見かけましたけど。壱也さん、いつも不安そうな顔してます」
 壱也にそんな顔をさせていたなんて気づかなかった。
「わざわざそれを言うために私を呼んだの?」
「それもありますけど。あたし、壱也さんが好きです。それで昨日、告白しました」
 昨日、メグか見かけたというのは本当だったんだ。壱也はなんて返事をしたんだろう?
 寒さで鼻が赤らんだ彼女は純粋な一途な女の子。壱也を好きだときっぱりと言い切った彼女の表情には意志の強さが表れている。壱也が彼女の気持ちを受け入れるはずはないけれど、目の前の彼女の真剣さに私は負けてしまいそうだった。
「もちろん振られましたけど、でも……」
 そう言いかけて彼女は私を見た。
「あたしはまだ好きです。壱也さんはあたしのことを恋愛の対象として見てくれないのは分かっていますけど、だからといってすぐに諦められません。だって今までもずっと好きだったんです。壱也さんに恋人がいようとも、それでも好きでしたから」
 そう言った彼女は凛々しかった。そしてうらやましいと思った。
 私はそこまで壱也を想っているのだろうか。私の方が好きだよと胸を張って言えるかと問えば、自信はまだない。だけどそれでも失いたくない。エリカちゃんのために身を引くことは考えられなかった。
「分かった。壱也を想う気持ちは私には止める権利はないから」
 だけど、聡明な彼女を前にそれを言うのが精一杯だった。

 ひとりになり、酷い憂鬱さが私を襲っていた。彼女に言われたことが胸に引っ掛かっていた。
 私は、壱也にどんな顔をさせてしまっているのだろう。そして私自信はエリカちゃんの前でどんな表情をしていたのだろう。引きつっていなかっただろうかと思う私は我ながら情けない。
 私は落ち込んだまま、キャンパスを歩いていた。はーっと溜息とともに吐き出される白い息が嫌なくらいにまとわりついてくる。完全に私の負けだった。

 そんな時、名前を呼ばれて振り向くとそこにいたのは要くん。
「どうしたの?」
 コートのポケットに手を突っ込んで校舎の壁に寄りかかりながら要くんはじっと私を見ていた。いつからいたのだろう。すっかり落ち着いたようにそこに佇んでいた。
「ちょうど帰ろうとしてたとこ。今日は三限目までだから」
「私もそうなの。今、帰るとこなんだ」
「じゃあ途中まで一緒に行こうか」
 こうしてふたりきりになるのはあまりなかったので少し身構えてしまう。
 なにか言いたいことがあるのかな? それにあの場所にいたということは……
「さっきの女の子、壱也狙いの子でしょ? なかなか、大胆な子だねぇ」
 暗くなっていた私の気持ちを引っ張り上げるような明るさを含んだ声。要くんは普段チャラチャラした軽い雰囲気をまとい、なにも考えていないように振舞っているけど、実は空気を読むのが上手な人だ。
 さっきのシーンもしっかりと見られていたようで、おそらく会話の内容も聞いていたのだろうと気まづくなった。
            


 

 
 
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