[2012年09月17日]
髪はひとつにまとめ、スーツは地味目な色合い。ブラウスはホワイトかせいぜい薄いブルー。パンプスは黒と決めている。ファンデーションは薄めでチークは使わない。アイメイクはベージュ系の色を軽く乗せるだけでアイラインはひかない。あとはほどよくマスカラを塗る。
あくまでもナチュラルメイク。
だけど唇とネイルだけは、こだわりがある。肌になじむような落ち着いた色のピーチピンクのルージュ。それからネイルはシンプルにサクラ貝のような薄いシェルピンク一色。
男ばかりの中で働く私の、せめてものオシャレだった。
◇
「あっ、ダメ……人が来ちゃう」
「なら、人が来る前にすませちゃおうか」
ブラウスのボタンが四つ目まではずされ、太ももを這う大きくてごつごつした男の手。ストッキングの上からだから妙にくすぐったい。
「麻衣、これ破ってもいい?」
「ダメに決まっているでしょ」
だってここは、本来そういうことをする場所じゃないから。人気(ひとけ)はないけど、ここはオフィス。照明の落とされた会議室の窓からは微かに夜景の光が降り注ぎ、部屋を仄かに明るくしていた。
ムード満点。私の家の窓から見える景色とは真逆の都会的な街並みを見ていると、この会社に入ってよかったなと思う。この会社の内定をもらった時、友達にうらやましがられた。みんなに『すごーい』と言われた。言われた私も鼻高々だった。
だけど現実はそれほど甘くない。実際の私は、キャリアウーマンとは程遠い、しがないOLだった。
「じゃあ、脱いでよ」
「自分で?」
「脱がせて欲しい?」
僅かな光に照らされていた奥二重の瞳がギラリと光る──
目の前の男は仕事をしている時とは、まったく別な顔をしていた。
「……いじわる」
「言ってくれないと、分からないよ」
その言葉と同時に下りてきたいやらしい唇が私の首筋をなぞり始める。
「……んっ」
その舌の持ち主は同じ部署の私の上司。妻と三歳の子供の世帯主である瀬谷(せや)課長、三十三歳。
体の関係を持って半年。週に一度の割合でこうして密会を繰り返していた。
そう。
私、佐々木麻衣(ささきまい)と瀬谷課長は人に言えない不倫の関係。
瀬谷課長の声、性格、そしてこの体。思いっきりストライクゾーンだった。
仕事を覚えることと会社に慣れることで過ぎ去った一年目。二年目になり無我夢中だった自分からようやく解放された。
そこへふっと忍び込んできた誘惑──
甘い声、人当たりのいい性格、高すぎない身長、厚過ぎない胸板。すべて私好み。瀬谷課長に抱かれている間は自分が不倫をしている罪悪感なんてなくなる。
気持ち良さとその温もりを十分堪能できるから、それだけで私の心も体も満たされていた。
さらに今日はいつもと違うシチュエーション。いつもと違う環境は私をさらに興奮させる。
だけどその興奮が甘い刺激に変わろうとする頃、私の体が一瞬のうちに硬直した。それは人気がなかったはずの廊下から人の話し声が聞こえてきたから。
「どうしよう? ほんとに人が来たみたい」
「大丈夫だ。鍵を掛けてある」
「いつの間に鍵なんて掛けたの? 用意周到ね」
ドアには内側から鍵が掛けられる仕組みで、鍵は総務部で管理している。でもこんな時間だし総務部の人間はもうみんな帰宅しているはず。それにわざわざ会議室に来る用事なんてないから、きっと大丈夫。
「……ぁっ、んっ……」
人の声が消えた頃、急に唇を塞がれた。「ダメ」といいながら私は瀬谷課長の行為を抵抗することなく受け入れている。
ダメなんかじゃない。もっとして欲しい。もっとあなたが欲しい。
お互いの昂ってくる欲は、もうすでにキスや愛撫だけでは昇華しきれなくて……
瀬谷課長の手がスカートの中に侵入してきて、その先を求めて突き進んでいた。
……あっ。
なのに、またしても。そんな夢見心地の雰囲気をぶち壊す軽快なメロディーが瀬谷課長の胸ポケットで鳴り響いた。
有名テーマパークを連想させる和やかなメロディーはおそらく瀬谷課長の三歳になるお子さんの趣味。なんだかんだ言って子煩悩で有名な瀬谷課長。電話の待ち受け画面は家族三人の仲睦まじい写真だった。
だから私はその着メロを聞く度に奥さんとお子さんに心の中で激しい嫉妬をしていた。
嫌いだよ、こんな自分。だけど自分に嘘はつけない。嫉妬に狂う醜い私。悲しいくらいに、それを自覚していた。
だけどそれは決して顔には出してはいけない。だって顔に出したら私の負けだから。そうしないと嫌われちゃうから。私はいつも聞き分けのいい、素直ないい子を演じなくてはならない。
休みの日のデートも、朝まで過ごす夜も、求めちゃダメなの。それがルール。普段、会社でも仲のいい素振りを見せずに、やさしい上司とその部下を演じるのが鉄則だった。
「麻衣、悪い。取引先からだ。この間の打ち合わせの続きだと思うから」
「わかった。先に行ってるね」
私は笑顔で答える。
相手が取引先の人だったからうまく演じることができた。
「また今度。チャンスがあったらな」
「ふふっ。うん」
疼いた体は、今日はお預け。不満は残るけど仕事の邪魔をするわけにはいかない。
私は瀬谷課長が取引先の人と電話で話すのを聞きながら、テーブルに置いたままだったプラスチック製のコーヒーカップをお盆に乗せて会議室のドアを開けた。
給湯室は廊下をまっすぐ歩いた突き当たりにある。私はお盆を片手に音を立てないようにドアを閉めると振り向き直して歩き出そうとした──のだけれども……
「きゃぁっ!!」
目の前に立ちはだかった大きな物体にぶつかり、その弾みでお盆の上のコーヒーカップがカラカラと音を立てて床に転がった。
プラスチックの軽いそれは四方に転がり、ついでにカップにわずかに残っていたコーヒーが床に点々と汚れをつけていく。
ああ、もう! サイアク!
だけどふと目線を上げ……
げっ。
目の前の大きな物体……じゃなかった、男性の姿を見て焦ってしまう。
アイロンのかかったキリっとしたワイシャツ。その白い生地に茶色の染みが水玉模様に飛び散っていたからだ。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて謝るけど、相手はまったくの無反応。
もしかして怒ってる? そうだよね、こんな派手にワイシャツを汚しちゃったら、言葉も失くすよね……
私は恐る恐るもう一度見る。今度は少し角度を上げた。さっきはワイシャツに気を取られて相手の顔を見ていなかった。
すると……
「なんだあ」
その顔を見て、必死に謝ったのを後悔した。
「びっくりしたあ。遠野だったんだ」
遠野有志(とおのゆうし)。
彼は私と同期入社の二十四歳。
うちの会社は『株式会社アイテック製作所』という電気機器のメーカーで業界ではそこそこ知名度があり、全国に営業所がある。関東だけでも九箇所に事務所を構えているが私が勤めるのは東京営業所。そして東京営業所は本社と直結していて営業所自体、本社ビルの中にある。
遠野は私と同じ、東京営業所営業部所属。実は遠野は仕事の評判もよく若手イケメン俳優みたいなルックスも手伝って女子社員にわりと人気があった。
だけど性格はというと……
よく言えば、社交的で物怖じしない。悪く言うと自信家でおまけに上から目線で口の悪い男だった。
ただ、悪い部分はどうも私限定に発揮されているらしく、私たちは何かにつけて衝突していた。