[2012年09月17日]
私は遠野が苦手だ。
自信満々な態度が時々、癪(しゃく)に障る。というか私が勝手に妬んでいるだけなんだけど。
短大卒の私とは違うエリートコースの遠野。新人の頃から名刺を持たされ、たくさんの得意先をまわり、会社からも注目されるホープだった。
それに比べて私はお茶出しや資料の印刷、それからホッチキス止めの仕事ばかり。それ以外の仕事というと営業部の人たちのお手伝い。つまり下っ端の仕事。二年目の今も、小間使いの役割だった。
どんな仕事かというと例えば資料作成の手伝いとそれのホッチキス止め。
今や書類の厚さによってホッチキスを使い分けるその道のプロといっても過言ではない! そんな専門職、ないけどね。でも書類の厚みでホッチキスの針の種類を瞬時に判断できるんだから。これは6ミリ、これは8ミリのホッチキス針……こんな具合にね。
なんて、こんなこと自慢してる場合じゃなかった!
「ほんとごめん。クリーニング代はちゃんと弁償するから」
「いいよ、別に。俺、おまえよりも給料いいし」
「すごい嫌味。人がせっかく低姿勢で言ってあげているのに」
「クリーニン代はいらないって言ってんだよ。逆に太っ腹の俺に感謝してほしいくらいだね」
遠野とはいつもこんな調子。デスクが隣同士で毎日のように口をきくわけだけど、なにかと棘のある言い方ばかり。プリンターを紙詰まりさせれば「印刷、急いでるんだけど」と白い目で見られ、お客様のクレーム対応にあたふたしていると「チッ」と舌打ちされる。
この人、私のこと嫌いなのかな?
もちろん私も負けてはいない。出先から遠野が事務所に電話をかけてきた時は冷たくあしらう。遠野からの電話だけは、敢えて声のトーンを下げていた。仕事を手伝う時も他の人の時のように笑顔で引き受けず、事務的に応じていた。
とにかく、私たちの仲は熟年夫婦の離婚前みたいな、殺伐としたものだった。
「だいたい、こんなところに突然現れる方が悪いんだからね」
右側通行の交通法則を破っているのはそっちなんだからとチクリ仕返しをしてやった。
だけど遠野は平然として、ちっとも気にしていない様子。
それどころか……
「それよりさ。佐々木と瀬谷課長ってそういう関係だったんだな」
どうしてそのことを知ってるのよ?
私が恐れていたことを遠野は口にしたのだった。
「……な、何のこと?」
「客が帰ったあとの会議室にコーヒーカップ下げに行ったきり帰って来ないと思ったら……まさかなあ、あんなエロいことしてるとは思わなかったよ」
はっ!?嘘でしょ!? あの禁断の会話を聞いていたなんて! しかもアノ声もだなんて!?
「か、勘違いしないでよ! そんなことするわけないでしょ!」
「話し声がばっちり漏れてたぜ。しかもあんな声を聞いたら、誰だって気づくに決まってんだろ」
遠野の口調が急に真剣になるので、私は言葉を失った。表情も強張ってしまい、どう返していいのかわからず頭が真っ白になる。
私をさげすむ瞳。軽蔑の眼差しに身体が凍りつきそうだった。
これ以上、誤魔化しはきかない。遠野は頭がいい。何を言っても無駄だと思った。
となると……取りあえず、遠野の口止めが必要。みんなに言いふらさないように手を打たなきゃ。
瀬谷課長にも知られてはいけない。遠野に私たちの関係がバレたと知ったら、困り果てた瀬谷課長はきっと私との別れを選ぶだろう。
「お願い。このことは秘密にしてほしいの」
私は両手を合わせた。そして得意の上目使いで必死に懇願。あくまでも深刻モードにならないように。軽いお遊びだから見逃して、みたいな雰囲気を醸し出す。この先、ねちねちと言われ続けられるのも困るから。
「……」
「ねえ? ダメ、かな?」
もう一度、今度は瞳を潤ませてみる。
本当は遠野にこんな真似はしたくなかったけど、この際、そんなことを言っていられない。
「瀬谷課長には確か、三歳くらいの子供がいたよなあ?」
「何が言いたいの?」
「よくないんじゃないか?」
「そんなの、知ってるわよ」
「だったらどうして不倫なんかしてんだよ?」
さっきと同じ。冷たい瞳が私を睨みつけた。
遠野の綺麗な顔が今の私のプライドを針で突き刺すように痛めつけていた。仕事もできてルックスもいい。会社に期待されていて、男性社員にも可愛がれ、女子社員にも人気がある。私にないものを遠野は持っている。
遠野はいいよね。そうやっていつも涼しい顔でいられるポジションから。だけど私は……何の取り柄もないんだよ。
いつも額に汗を滲ませてコピー用紙を運んだり、声が枯れるくらい電話応対をしたり。どんなに忙しくても、コピーやお茶出しを頼まれれば自分の仕事を二の次にしなくてはいけない。誰にでもできる仕事をひたすら毎日やっているだけの女。誰にも感謝されないし、やって当たり前の毎日なんだ。
そんな私を瀬谷課長だけは「よく頑張ってるね」と言って褒めてくれたんだよ。たったそれだけのことなのに、私の心は一瞬にして瀬谷課長に持って行かれた。
「遠野に言ってもどうせわかんないよ」
私は悲しくなって俯く。
責めたいなら責めればいい。だけどそれでやめられるなら、とっくに不倫なんてやめてるよ。
仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだもん。何度も諦めようとしたけど……どんどん好きの度合いが大きくなって、気づいたら後戻りできないところまできていたんだよ。
「とにかく、このことは誰にも言わないで」
「見返りは?」
「交換条件?」
「当たり前だろ。黙っておいてやるんだから。俺が口を割れば、佐々木だけじゃなくて瀬谷課長の将来もどうなるんだろなあ」
遠野は愉快そうに言う。
「サイテー。脅す気?」
「別にそんなつもりはないぜ。むしろ相手が俺でよかったと思えよ」
よくない! よりによって遠野なんかにバレるなんて。
だけどなんとかしなきゃ。秘密保持の代わりに、遠野のいう見返りという条件をのむしかない。
「わかった。でも先に言っておくけど、私、あんまり貯金とかないからね」
まだ入社二年目。お給料だってそんなにもらっていない。
それに社会人になると色々と出費がかさむんだよね。一人暮らしだから家賃や生活費で半分以上なくなっちゃう。
ほかにも洋服やバッグやメイク道具。飲み会や冠婚葬祭だって学生の時よりも増えた。通帳に残るお金なんて微々たるもの。
「金なんていらねえよ」
「ならいいけど」
それを聞いてほっとする。
「じゃあ、何をすればいい?」
「何でも言うこときくのかよ?」
「何でもします!」
遠野は少し考えていたようだけど。
「よし。契約成立だな。見返りの内容は考えておくよ」
こうして天敵遠野に弱みを握られる羽目となった。
今日はほんと、サイアクの日。こんなことなら普段から遠野に愛想くらい振りまいていればよかったよ。そうしていれば、こんなふうに脅されることもなかったのに。
しかも『見返りの内容は考えておくよ』だなんて。今すぐ言ってくれないものだから、あとからどんなことを言われるのだろうと不安で堪らない。
まさか身体を差し出せとか!?
いやいや、それはないな。遠野ほどの男が女に不自由しているはずないもん。それに私なんかにそんな気にならないって。
と、そこへ……
「おい、どうした?」
電話を終え会議室から出てきた瀬谷課長が私たち二人を見て驚いていた。私たち二人というより床に散乱したコーヒーカップや飛散している汚れを見てなんだけど。
瀬谷課長にもカッコ悪いところ、見られちゃったなあ。
「すみません。私がつまづいてカップを落としてしまったんです」
「そうか。だからか。すごい声だったよ」
やっぱり聞こえていたんだ。私の悲鳴。
「すみません」
「いや、いいよ。それより手伝うよ」
甘い声に乗って瀬谷課長が手を差し伸べてくれる。
やっぱり瀬谷課長はやさしいな。誰かさんとは大違いだ。そう思っていたらなぜかその“誰かさん”が邪魔をしてきた。
「いいですよ。瀬谷課長は忙しそうですから片づけは俺が手伝います」
「じゃあ頼む。俺は仕事が残っているから先に行くな」
そうして何も知らない瀬谷課長はそのままその場を去っていく。
もう行っちゃうんだ……
せっかく近くにいられるチャンスだったのにな。遠野の奴、余計なことを……
同じ会社の同じ部署でもふたりきりになることは滅多にない。
今日はたまたま夕方に来客があって、夜にお客様が帰ったあとコーヒーカップを下げに会議室に入ったら瀬谷課長がひとりでいたという偶然であんなことになった。
瀬谷課長がどこまでやろうとしていたのかは定かではないけど、会議室で誘われることは初めてだった。だからすごく興奮したしうれしかったし、瀬谷課長が望むならあのまま……とも思っていた。
普通に考えて、そんなことはしてはいけないことだけど、今の私は抑えがきかない。
頭の中はいつも瀬谷課長一色で、今もその後ろ姿を目で追いながら、さっきの光景が勝手に脳裏に浮かんできてしまう。激しい息使い、やわらかい唇、いやらしい手つき。
遠くなっていくその姿に切なく胸が鳴った。
「佐々木。何、余韻に浸ってんだよ。いやらしいな」
その言葉に我に返った私。
「別にそんなんじゃないもん。遠野って性格悪いよ」
「佐々木だって性格悪いだろ」
「私のどこが性格悪いのよ?」
「不倫なんかしやがって」
「でも誰にも迷惑なんてかけてないじゃない」
「それはバレていないからだ。もしバレたらおまえ、どうするつもりだよ」
「そんなヘマしないもん」
「ばーか。現に俺にバレてるだろ。少なくとも会社であんなことするなよな」
「……」
それから無残に床に飛び散ったコーヒーを拭きとり私はそのまま給湯室へ。遠野は営業部へ戻って行った。