第2章 恋愛の後遺症(004)

 プロポーズの翌々日の月曜日の午前中。春山社長との打ち合わせのために、うちの事務所に訪れた世良さんは私を見つけると、さわやかな顔をして軽く右手をあげた。私も会釈をして、さっそく給湯室に向かうと世良さんたちに出すお茶の準備をした。
「どうぞ」
「ありがとう」
 応接室にいる世良さんにお茶を出すと目が合った。途端に甘い眼差しになって、私のほっぺたがポッと熱くなる。
 やめてよ、世良さん。そんなふうに見られると……
「亜矢、どうかしたのか? 顔が赤いんだけど?」
 ほら、やっぱりだ。春山社長に突っ込まれた私は咄嗟にお盆で顔を隠した。
「熱があるんなら無理するなよ」
「……だいじょーぶです。健康ですから」
 お盆から顔を覗かせると、世良さんが笑いを堪えているのが目に入った。
 ひどい。世良さんのせいなのに。世良さん、わざとなんだもん。春山社長までニヤニヤしちゃって気分が悪い。
「今日は俺も紅茶なんだ?」
 春山社長がテーブルの上のカップを見て言った。
「はい。春山社長は朝からコーヒーを何杯も召し上がっていたので紅茶にしてみました」
「気が利くな。亜矢は、いいお嫁さんになるよ」
「え」
 思わず世良さんの顔を見てしまった。ハッとして目を逸らしたけど、時すでに遅し。春山社長が何かを察知したらしく「なるほどねえ」と言うと、紅茶のカップに口を付ける。
「し、失礼しますっ!」
 私は慌てて、その場を離れた。ドアを閉めて給湯室に直行し、お盆を胸に抱えたまま、まずは深呼吸。
 プロポーズを断った立場なのに何をドキドキしているのよ。これから世良さんに会うたびに顔を真っ赤にしちゃっていいの? 世良さんに気を持たせるようなことをしちゃいけないのに。

 世良さんが私に渡そうと準備してくれていた婚約指輪も受け取らなかった。『ファッションリングだと思って』と言われたけど、受け取れるはずがない。
 とても高価な指輪なのだからプロポーズが成功する確信を持ってから指輪を用意した方がいいのに。だけど、そこが世良さんらしいと言えばらしいのかも。自分の損得を考えて行動するような人じゃないものね。
 それにしても、あの目で見つめられると弱いなあ。
 世良さん。隠れ肉食系なんてズルイです。その手口、かなり卑怯です。

 お盆を置いて胸に手を当ててみる。さっきよりもだいぶ落ち着いてきた。最後にもう一度、深呼吸して…….
「ふぅー……。どれ、仕事に戻ろう」
 うちは従業員が十人ほどの小さな事務所だけど、やることがいっぱい。
 電話応対や受付業務はもちろん、今週は請求書作成と入金管理の仕事がある。それから会計ソフト入力。そうそう、銀行にも行かなくちゃ。来週は給料計算が待っているし、毎月、月初めには会計事務所の人に経理データを提出しなくてはならない。仕事をやり残していたら大変なことになるのだ。

 自分のデスクに戻るとさっそくパソコンの画面に向かった。前の会社では経理の仕事をやったことがなかったから最初は戸惑ったけど、最近はようやく仕事もひとりで難なくこなせるようになった。
 もともとこの仕事は、デザイナーの萌さんとパートの女性が二人で手分けして担当していた。けれど、萌さんが春山社長と離婚をして事務所を辞めてしまい、パートさんも出産を機に家庭に入ってしまった。パートさんには無理言って臨月まで働いてもらって、なんとか仕事を引き継いだけど。それでもわからないことが多くて、よく萌さんを頼っていたっけ。

「亜矢」
 そのとき、春山社長が応接室から顔を出した。「はい」と言って席を立つと、春山社長から一冊の紙の束が渡された。
「忙しいところ悪いけど、この資料をカラーコピーしておいて。一部でいいから」
「わかりました」
 仕事は大変だけど、やりがいを感じる。デザイン設計の知識はないけど、その代わりに時間があるときには自宅で図面を書くためのCADソフトの操作の勉強もしている。
 春山社長への感謝は言葉では言い尽くせない。事務職の経験がない私を快く引き受けてくれただけでなく、たまに仕事の現場にも連れて行って勉強もさせてくれる。だから少しでもこの会社の役に立ちたいと思うのだ。

「コピーしました」
 原稿とコピーの資料を手渡すとテーブルの上のカップがふたつとも空になっているのが目に入った。
 紅茶、気に入ってくれたのかな。打ち合わせのとき、コーヒーを飲み残すことが多い春山社長だから珍しいなと思った。
「また何かあったら呼んで下さい」と言うと「ありがとう」と春山社長が返してくれた。
 だけど、そのまま応接室を出ようとしたとき……
 あっ。また世良さんと目が合った。世良さんの瞳はいつも私を見ている。もしかして、今までもそうだったのかな。こうして、いつも?
 世良さんはすぐに春山社長との打ち合わせに集中していた。テーブルには高嶋建設の名前の入った工程表や図面が散らばっている。想像だけど、これらの資料は何日もかけて世良さんが準備したものに違いない。他にも担当している大きな仕事がいくつもあるのに。
 すごいな。世良さんが背負っているものが偉大すぎて眩しいよ。

 現在、進めている仕事は都内の公園整備の仕事。遊歩道整備を含め、敷地内のプラネタリウム建設を高嶋建設が一年ほど前に落札し、すでに着工している。その後、公園全体のライティングデザインをうちの事務所がコンペで勝ち取った。
 とは言っても、大規模なライティング工事のため、要件を満たしていないうちの事務所では工事ができない。加えて官公庁工事ということもあり、工事業者については指名競争入札の結果、都内の電気工事会社が行うことになっている。
 その工事を進めるにあたり、施工前にうちと高嶋建設でデザインの事前確認をする必要があったので、そのための打ち合わせだった。その窓口が世良さんというわけだ。
 高嶋建設が落札した工事は建築課の人が担当している。ライティング工事はそれとは別口のものだが、本工事と工程が被る部分があるので、それを含めて、いろいろと調整が大変なようだった。

 応接室に紅茶のおかわりを出して、自分の仕事を再開した。
 二度目のお茶出しのときも、やっぱり世良さんと目が合って、今度は春山社長に何か言われる前にと思い、そそくさと部屋を飛び出してきちゃったけど。『なんだよ、あれ。子供かよ』と、ドアの向こうから春山社長の笑い声が漏れ聞こえてきて、悔しくて仕方がなかった。
 世良さんの振りまく色気は強烈だ。これから、どうやって、それをかわしていけばいいのだろう。
「うーん……困った」
 春先になると桜舞い散る幽玄な景色が堪能できる事務所の大きな窓からは、五月の明るい光が降り注いでいる。世界はこんなにも、まばゆいのに。心を憂鬱にしてしまうものはなんなのか。
「……」
 わかんないや。つまり、どれだけ考えても今は答えは出ない。
 ということで。あー、やめやめ! 世良さんのことを考えるのは、今はやめよう。やらなきゃいけないことがたくさんあるんだ。私の中を占めていく世良さんを追い出すように、私はブラインドを下ろした。


 ***


「それでは、今日中に工程表のデータをメールしますので、入力して返信をお願いします」
「わかったよ。明日までに送っておくから」
 世良さんと春山社長が話しながら応接室から出て来た。どうやら打ち合わせが終わったみたい。世良さんが春山社長と別れて、こちらに向かって来るのが見えた。
 いつもだったら『ごちそうさま』と言って横を通り過ぎる世良さんを会釈して見送るのだが、この日はいつもと違った。
「亜矢ちゃん」
 なぜか世良さんが私の名前を呼んだのだ。
「はい?」
 私は席を立つ。受付のカウンター越しに世良さんと向かい合い、なんの話だろうと見上げた。
「今日の紅茶もおいしかったよ」
「ありがとうございます」
「僕のため、なんだよね?」
「え?」
「前はコーヒーだったのに、何度かここに通ううちに、いつの間にか紅茶になってたから」
「ええ。普段は紅茶を飲むと前にレストランでおっしゃっていたので」
 以前、一緒に食事をしたときに、世良さんが食後にコーヒーでなく紅茶を頼んでいた。
『コーヒーだと胃がもたれるんだよ』と言っていたけど。ふいに無邪気な顔になって『本当はね』と続けた。『毎回、打ち合わせでコーヒーを出されるから飽きちゃうんだ。だから普段は紅茶にしてるんだよ』
 そのときに可愛いなと思って印象に残っていた。

「覚えていてくれたんだ」
「もっともだと思いました」
 春山社長なんて、打ち合わせが続くと、飲んだ振りをして口をつけるだけ。せっかく淹れたコーヒーを全部残すくらいだもん。もちろん、相手の会社に赴いての打ち合わせのときは無理にお腹に入れるらしいけど。
「やっぱりそうだったんだ。ありがとう」
「いいえ。たいしたことではありませんから」
「今日は春山社長との打ち合わせが楽しみだった。ここに来れば亜矢ちゃんに会えるからね」
「……世良さん」
「顔を真っ赤にしている亜矢ちゃんの顔も見ることができたしね」
 世良さんが意味深に目を細めて、口の端を上げる。
「やめて下さい! あれは──」
「可愛かったよ」
「からかわないで下さい。恥ずかしいです」
 嫌なことを思い出させるんだから。肉食度がアップしただけでなくイジワル度までもアップしちゃって、こっちはアップアップなんですけど。
 世良さんは「ごめんね」と言いながら遠慮なく笑っている。それから腕時計に視線を落として時間を確認すると「そろそろ次に行かなきゃ」と微笑んだ。
「お忙しいんですね」
「仕事が入ってくることはありがたいことだよ。僕たちの部署が暇だったら、会社が大変なことになる」
「そうですよね」

 それはうちも同じだ。特にうちの会社は特殊な分野。奇跡的に生き残れているけど、それだっていつまで続くか。
 だけど、ライティングには様々な可能性が秘められている。光による癒しだけでなく、町おこしや観光客の集客に役立っており、経済効果をもたらしてくれる。
 また地方では、維持費が財政を圧迫しているという理由で、多くの歴史的建造物が取り壊されてきた。しかし、それらのライトアップを試みることで、地域住民が歴史的価値を見直す機会となり、観光施設としても役立たせることができるのである。
 この業界は待っているだけでは衰退する。大企業はもちろん、観光産業や自治体などにも常に提案し続けなければならない。観光客の減少や過疎化に喘いでいる地方に光が当たるように。そんな使命感も少なからず持っている。

「それじゃあ、またね」
「はい。気をつけて」
「あ、もし気が変わったらすぐに教えてね。飛んで行くから」
「……」
「そういう困った顔も可愛いよ」
 もう、この人は、この人は。
「世良さん!」
 あははと笑うたくましい背中を見送った。それは楽しそうな後ろ姿。しばらくの間、目が離せなかった。

「ふたりは、なかなかいい雰囲気だな」
「うわっ!」
 気配なく近付いてきた春山社長がそっと耳打ちしてきたので、全身に鳥肌が立った。
「驚き過ぎだ」
「いきなり現れないで下さい。心臓が止まるかと思いましたよ」
「大袈裟だなあ」
「そんなことないです。見て下さい。このイボイボ」
 私はニットの袖をまくって見せた。だけど春山社長はそれにはまったく興味がないらしく、一瞥するだけで話を続ける。
「あの香り高きアールグレイは世良くんのためだったんだろう?」
「さっきの、聞いていたんですか?」
「聞こえたんだよ」
 まったく、四十半ばなのに、とぼけた顔して。この、地獄耳。
「別に紅茶の件は、変な意味じゃないですから」
 世良さんに紅茶を出すようになったのは、だいぶ前からだ。決してプロポーズされたからじゃないんだから。
「デートまでしておいて隠すなよ。俺はいいと思うよ、世良くん」
「だから、違うんですってば」
「まあまあ。落ち着けって。でもあれだな。今日気づいたけど、紅茶もなかなかうまいな。俺も今度から紅茶にするかな」
「本気ですか?」
「もちろん。種類もいろいろあるんだろ? せっかくだから、揃えられるだけ揃えておけよ。こうなったら飲み比べだ!」
 はあ……きっと、当分、世良さんのことで春山社長にからかわれることになるんだろうな。この人のイジワル度も結構、高いもんな。

「春山社長、仕事に戻りますよ」
「こんなときばっかり真面目になるなよ」
「私はいつだって真面目ですから」
「はいはい。世良くんのことはみんなには秘密にしておくよ」
「ですから──」
 違うのに。話噛み合っていないし。ついでに声も大きいよ。他のスタッフの人たちがこちらをチラリと見ていた。
 春山社長もそれに気づいたようで……
「仕事するんだろ? 私語はここまで」
 春山社長はそう言うと、さっさと自分のデスクに戻っていった。
 相変わらず、調子いいんだから。
 壁掛け時計を見ると時刻は十一時半。あと三十分でお昼か。
 あっという間に過ぎていく時間に溜息を吐き、私は残りの仕事に取りかかった。


 
 
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