第4章 守らせてほしい(007)

 世良さんとのデートから二週間がたとうとしていた。
 あれ以来、私の中で多少の心境の変化があったのは事実で、信頼できる世良さんのアドバイスだからこそ、それを参考に外国のライティング事例の勉強をするようになった。
 調べてみるとおもしろい。行政の力の入れ具合もさることながら、その国の地形や気候も影響を与えているのだと知る。川の水面に映り込む光、厳しい冬に暖かさを感じる色合い。ただ明るく照らすのではなく、緻密(ちみつ)に計算されているのだ。

「亜矢、最近何かいいことでもあったのか?」
 春山社長がニヤニタしている。カマをかけていることはわかっているので、落ち着いて言葉を探した。
「春山社長が期待しているようなことは何もありませんから」
 パソコンの画面から視線を逸らせないで答える。
「つまんねえなあ。世良くんも同じことを言っていたんだよな」
 それを聞いて、ハッとして顔を上げた。
 まったく、世良さんにまでズケズケと。人のプライベートに首を突っ込むのは、いくら社長と言えども許せません!
「気をつけて下さいね」
「何がだよ?」
「世良さんに嫌われると仕事に支障がでちゃいますよ」
「どうしてだよ?」
「今度のコンペに参加できるのは世良さんのおかけですよ」

 というのは、来年早々に東北で最大級のコンベンションセンターが着工予定なのだが、その建物のライティング計画があるのだ。
 地域のランドマークとしての役割も担うことになるであろうコンベンションセンター。しっかりとしたコンセプトをもとに建築デザインされている。それに合わせて、ライティングにもテーマが与えられていて、うちの事務所もコンペに参加させてもらえることになったのだ。
 そのことがどれだけラッキーな話かというと、このコンペは公募による公開コンペではない。設計会社からの指名によって参加資格が得られる指名コンペとなっていた。
 本来だったら、うちの事務所はコンペに参加できなかった。しかし、世良さんが知り合いの設計会社の方にうちの事務所を推薦してくれたおかげで指名がもらえた。
「俺の知名度と事務所の実力も理由だよ。相手はそれを認めたから指名してきたんだ」
「それはそうですけど。まずは推薦してもらわなければ、何も始まらなかったわけですから」
「運も実力のうちだ」
 この人、仕事のこととなるとかなり頑固。謙虚さが少しばかり不足しているけど、確かに言われてみれば春山社長の言う通り。実力がなければ、こんなチャンスは巡ってこない。この場合、実力が運を引っ張ってきたと言ってもいい。
「……はい。認めます」
「わかれば、よろしい」
 コンペの審査が通れば、うちの事務所の代表作のひとつになる。着工までそれほど時間がないので、選ばれたとしても施工のことを考えると、かなり厳しい条件。けれど、春山社長ならそれもクリアできるはず。
 それを確信している世良さんだからこそ、うちの事務所を推薦してくれたのだし、設計会社の方も評価して下さったのだ。
「でも、どちらにしても、余計な首は突っ込まないで下さいね」
「何が“どちらにしても”なんだよ?」
「言葉のあやです」
「言うようになったな」
「姪ですから」
「ああ、そうだったな。おまえは萌の姪だった」

 春山社長と萌さんが離婚したのは一年と少し前。離婚の原因はいろいろあるのだけれど、一番の理由はやはり子供ができなかったことだろうか。ふたりとも子供を望んでいた。なのに、なかなか子宝に恵まれずに萌さんは仕事に打ち込むようになった。
 その熱意に拍車がかかり、同じ職場だったふたりは、いつしか夫婦というより同士となった。仕事のパートナーとしての結束は強くなったが、その分、夫婦の愛情が薄れていった結果が離婚。その後、萌さんは春山社長が再婚しやすいようにと、この事務所を辞めて今の建築設計会社に移った。
 だけど春山社長は、萌さんがそこまで考えて事務所を去ったことを知らない。酔っ払った萌さんがぽろっと零していたことを、たまたま私が聞いてしまったのだ。

 と、まあ、これだけ聞くと切なくなる話だけど、実際のふたりはかなりあっけらかんとした関係だ。離婚直後、私を心配して萌さんが事務所に訪ねて来ることが何度かあったが、会えば普通に話をするし、仕事の情報のやり取りもしているようだった。
 逆にどうして離婚をしたのだろうと思うくらい。でも、夫婦のことは夫婦にしかわからない。別れてうまくいく関係もあるのだろう。


 ***


「よし、終わったあ」
 午後二時過ぎ。溜まっていた数日分の現金精算の領収書と出金伝票のデータ作成をして現金との照合が終わると、領収書と出金伝票をまとめてファイリング。
 このあと郵便局に行かなくては。印紙と切手を買って、ついでに銀行に行って振り込みをしてこよう。あとはドラッグストアで消耗品も買わないと。食器洗い用の洗剤が残り少ないんだった。
 出かける用意をし、現金をしまおうとバッグを開ける。しかし、そこで気づいた。
 あれ? 着信だ。スマホの履歴を確認するとアパートの不動産屋さん。いったい、なんの用だろう? 急用なのかな? なんとも言えない不安が襲う。
 うちのアパートは大家さんの代わりに不動産屋さんが管理を行っている。入居者への連絡事項は基本的に書面で行われ、案内は必ず玄関ポストに入れてくれるのだ。それなのに、わざわざ電話をくれるので何事かと思ってしまう。
 なんか、いやーな予感……
「どうした?」
 春山社長がスマホを握り締めている私に向かって言った。
「アパートの不動産屋さんから着信があったんです」
「電話してみろよ。重要なことかもしれないぞ」
「はい」
 不安な気持ちを押し込めて、折り返し電話をしてみた。きっと、他愛もないことだよね。口座振替で振り込んでいる家賃が何かの手違いで振り込まれてまれていないとか、電気やガスの定期点検なのを私が忘れていたとか。
 なんとかなるような用件に違いない。けれど、電話の向こうの「落ち着いて聞いて下さい」と言う不動産屋さんの男性の声はとても深刻そうで、緊張で唾をゴクリと飲み込んだ。

『実は大久保さんがお住まいのメゾン・ド・シンフォニーで──』
 不動産屋さんがゆっくりと話す。私の住むアパートの名前を告げて、そして、確かに彼は言った。
「はっ? かさい?」
 えーと、えーと。火災って言った? 火災って、イコール火事のことだよね。
「……ということは、燃えてしまったということですか?」
 嘘でしょう? 勘弁してよ! 火事って、ものすごく大変な事態じゃない!
『ええ。ただ、幸いにも大久保さんのお部屋への延焼はまぬがれました』
「あのっ! じゃあ、全焼ではなかったんですね!?」
『はい。ご近所の方の初期消火のおかげで焼けたのは一部のお部屋です。怪我をされた方もいらっしゃらなかったようです』
 取りあえず、よかったあ。日中だから、みんな外出していたのかな。お隣さんもOLさんだし、他の部屋にはサラリーマンの方も住んでいるみたいだったから。
「それで、火元は?」
 私の部屋だったらどうしよう。煙草は吸わないので、考えられるのはガスコンロの消し忘れと漏電なんだけど。
『今、現場検証中なのですが、放火の可能性もあるようです』
「放火!?」
『最近、近所で不審火が相次いでいたようなので、その線でも捜査するようです』
「はぁ……そうですか」
『それでですね、今、警察署と消防署の方がいらっしゃっていますので、お忙しいところ申し訳ないのですがアパートに来て頂くことはできますか?』

 入居者の事情聴取があるのだそうだ。もしかして、アリバイを証明しないといけないのかな? この場合、春山社長にお願いすればいいよね──なんて、呑気に考えている場合ではなかった。
 事情を知った春山社長が車を出してくれるというので大急ぎで支度をした。


 ***


「忙しいのにすみません」
 隣でハンドルを握る春山社長に頭を下げる。
 三時から打ち合わせが入っていた春山社長は、相手先の人に電話を入れて、日程を明日に変更してもらっていた。
 普通は、そんなことは許されない。私に付き添うために相手の方にまで迷惑をかけてしまった。
「スケジュールは大丈夫ですか? それに相手の方、お客様ですよね」
「気にするな。俺はおまえの親代わりみたいなものなんだ。こうするのが当たり前だよ」
「……ありがとうございます」
 萌さんは設計業界の視察旅行で上海に一週間の出張中だった。帰国は三日後。おそらく、そのこともあって仕事よりも優先してくれたのだと思う。
「たいしたことがないといいな」
 春山社長がポツリと呟く。
「私の部屋には火はこなかったみたいです」
「火災保険には入っていたんだろう?」
「はい。不動産屋さんに入るように言われたので」
「なら、よかった」
 春山社長はそう言ったきり、黙り込む。
 その雰囲気に圧倒されて、私も次第にアパートのことが心配になってきた。大丈夫だよね? ボヤ程度ですんだんだよね? 震えるほど緊張してくる。
 とにかく現場を見て安心したい。たいしたことがなくてよかったと思いたいよ。
 最近、この街で不審火が何件も発生していることは新聞の小さなローカル記事で知っていたけど、まさか自分が被害に遭うとは思わなかった。なんでも火元と思わる場所にガソリンがかけられた形跡があったらしい。
 怖いよ。怖すぎるでしょう。だけど怪我人が出なくて本当によかった。一歩間違えれば私だって……いやいや、そんなことを考えても仕方がない。無事だったのだ。もっと喜ばなきゃ。

 アパートに到着すると騒然としていた。辺り一面、焼け焦げた臭いが充満している。
 二階建てのアパートの角のお部屋はかなり焼けていて、壁も二階まで真っ黒。初期消火して頂いたといっても、木造ということもあり、被害は予想よりも遙かに大きいものだった。
 しかし、事態はそれだけで終わらなかった。一階の自分の部屋の中に入って唖然。
「これって……」
「とてもじゃないけど住めないな」
 部屋の中は消火活動の際の放水で水浸し。布団も床もびしょびしょだった。仕方ないとは言え、これはかなりへこむ。
「ひでーな」
 春山社長が溜息まじりに言った。
 私はショックのあまり、言葉が出ない。貴重品などは無事だと思うけど、テレビもパソコンもアウトだ。
 せっかく買ったのに。パソコンなんて、今年になって買い替えたばかりだった。まだ数カ月しか使っていない。
「どっちにしても今日はここで寝るのは無理だな。萌がいればな。さすがに俺のマンションというわけにはいかないからな」
「ホテルに泊まります」
 東京に友達がいない私。高校や短大の友達はみんな北海道。前の会社の同期の女の子とは今も連絡を取り合っているけど、ふたりとも結婚しているしなあ。
「萌が帰国するまではそうするしかないな。そのあとのことは、ゆっくり考えるとしような。萌のところに住むっていうのもアリだしな」
「それだと萌さんに迷惑がかかっちゃいますし、事務所までも遠いので、落ち着いたら家具と家電付きのマンションを探してみます」
「そういう賃貸物件は家賃が高めだぞ。どうせなら新しく住む部屋を探して、必要なものを買い替えろよ」
「でも……」
「金のことは心配するな。火災保険もあるし、会社の規定で見舞金も出せるから」
「……はい」
 なんとか返事はしてみたけど、うまく頭がまわらない。正直、先のことを考えられない。それでも今日、泊まるところを探さないといけないなんて……
 しかし、そのとき、ドアが開く音がして──


 
 
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