第5章 魅力全開、最強王子様(009)

 ダークブラウンのタイル張りの外観。オートロック付きで築浅の建物は、ハイセンスで清潔感があって落ち着いた印象だった。
 三階建ての木造アパートの世良さんの部屋は二階にあり、間取りは10帖のリビングダイニングと8帖の寝室。ひとり暮らしには十分な広さの1LDKである。
 てっきり豪華なマンションに住んでいるのかと思っていた。タワーマンションとまではいかないけど、煌びやかな夜景と華やかなシャンデリアがあるのかなと勝手に想像していた。
 そのことを世良さんに言ったら大笑いされてしまったけど、よく考えたら、世良さんがセレブ生活をしている方がおかしいわけで、出会って七年目にして世良さんの実態を知ったような気がした。

「はい、どうぞ」
「いただきます」
「僕は今から夕飯を作るから、亜矢ちゃんは、くつろいでいて」
 あたたかい紅茶でおもてなしされ、その上、そんなセリフを聞かせられて、はいそうさせていただきますと誰が言える?
「私もお手伝いします」
 すっくと立ち上がり、スーツケースの中からエプロンを引っ張り出す。髪もシュシュでまとめて、やる気を見せた。
 いくらなんでも、お世話になる身分だし、お料理くらいはお手伝いしなきゃ。……お料理、得意じゃないけど。
「亜矢ちゃんは座ってて。疲れたでしょう?」
「大丈夫ですから」
「ううん、そんなことないよ。たぶん自分で思っている以上に疲れているはずだよ」
 ゆっくりと諭すように落とされる声は、父のようであり母のようでもある。甘い旋律のように奏でられる声は、その時々で色を変える不思議な音色。
 それと同時にあたたかく癒してくれる包容力は、シンくんにもハヤトにも感じたことがなかった。
「そういう計算なしの上目づかいは、いつ見ても強力だな」
「ごめんなさい。そんなつもりはないんですけど」
「身長差があるから自然とそうなるんだよ」
 クルンとしたまつ毛の瞳が一度瞬きする。そんな目で言われても、その言葉をそのままお返ししますとしか言えない。
 世良さんに見つめられると、知らず知らずのうちに虜になって見入ってしまうからなのに。あなたのその瞳は最強です。
「今日はごはんを食べたら早めに寝よう。亜矢ちゃんの手料理は明日、堪能することにするよ」
「はい。ありがとうございます。でも私、お料理があまり得意ではないので期待しないで下さいね」
「そう言われても期待しちゃうよ。楽しみだなあ」
 とびきりの笑顔が眩しい。こんなことなら、もっと真剣にお料理をやっておけばよかったよ。元彼に何度か手料理を振る舞うことはあったけど、自分からしゃしゃり出て奥さん気取りで作るわりには、さほどでもないんだよね。
 うちは母がなんでもやってくれていたから。お料理もお洗濯もお掃除も完璧な良妻賢母な母なのだ。

「世良さんは明日、お休みですか?」
 明日は土曜日。私はもちろん、世良さんの会社も完全週休二日制だけど、世良さんは休日出勤するのかな?
「夕方前には帰ってくるよ」
 やっぱり忙しいんだ。今日の分を取り返さないといけないもんね。
「私はアパートに行ってきますね。保険会社の鑑定人の方がいらっしゃるので」
「ひとりで大丈夫?」
 切なそうに揺れる瞳が麗しい。ときめきそうになる胸を必死に抑えて、私はなんとか笑って見せた。
「もう、世良さんったら過保護過ぎです」
「でも、あんな怖い場所にひとりで行かせたくないよ」
「平気ですよ。それにひとりじゃありません。保険会社の方がいますから」
 本当は実家の両親が来ることになっている。さっき電話をしたら、心配した母が上京すると言い出したのだ。
 両親にはホテルに泊まってもらうことになっているけど、私が世良さんのお家に泊めてもらっていることがバレやしないか内心ヒヤヒヤ。前の会社の同期のお友達の家にお世話になっていると言って誤魔化したけど、嘘をついたことが心苦しい。そして何より、母はそのあたりの勘が鋭くて心配。

「じゃあ、それは亜矢ちゃんを信用するとして。お腹空いたから、ごはんを作って来るね」
 世良さんは口元をきゅっと結ぶとキッチンへ。カウンター奥の世良さんが手を洗っている姿を見守っていると、萌さんから着信が入った。
『ごめんね、亜矢。今、ホテルに戻って来たところなの』
 少し前に萌さんに電話を入れていたので、それを見てかけてくれたのだろう。
『それで、亜矢は大丈夫?』
「平気だって。もう、みんな同じようなことを言うんだから」
 両親も春山社長も世良さんも、みんな私を心配してくれている。前の会社を退職した直後はひとりぼっちな気持ちでいたけど、今はぜんぜんそんなことがない。
 アパートが火事になって部屋が水浸しになってしまったショックはかなりのものだけど、人のあたたかさとやさしさに触れて、怖さや不安が自然とやわらいでいた。
『世良さんの家にいるのよね?』
「もう、知ってるの?」
『聖人(まさと)からメールがあったのよ』
「成り行きでそんなことに……あの、お父さんたちには……」
 萌さんはお父さんの妹だから、口止めしなきゃ。
『わかってるわよ。言えないわよ、そんなこと。それに、聖人が強引に仕向けたんでしょう。それも聞いたわ』
 聖人とは春山社長のこと。今でもメールをする仲なんだなと関係ないことに引っ掛かりながらも、話が早くて助かったと思った。
「あれよあれよという間に、こんな段取りになってた」
『でも、私も安心よ。知っている人が亜矢を預かってくれるんだもの。それに世良くんは無理やりなことをしない人だものね』
 萌さんも世良さんの人柄を知っているから100%の信頼を持っている。改めて思う。世良さんはすごい人だ。どれだけ人間ができているのだろう。
「うん。だから心配ないよ」
『そうね。逆に亜矢がそそうをすることの方が心配よ。私が帰るまで、そこだけは気をつけなさいよ』
「わかってる」
 萌さんとは、帰国する夜にマンションに行く約束をして電話を終えた。萌さんがいてくれてよかった。ほかに頼れる女友達がいない私にとって、萌さんは身内であると同時に親しい友人みたいな関係なのだ。

 ふと視線を感じて見上げると、包丁を手にしたまま世良さんがこちらを見ていた。
「萌さんからでした」
「そう」
「帰国したら電話をくれるそうです」
「わかった」
 世良さんはそれだけ言うと、野菜切りを再開する。電話の内容を尋ねることなく、手際良くお料理を続けた。
 王子様は包丁を握らせても格好いい。次々にカットされていくコロコロとしたニンジンを眺めながら、何を作るんだろうと興味がわいた。
「ここで見ていてもいいですか?」
 私は紅茶のカップを手にキッチンカウンターのスツールに腰かけた。
「見てもつまらないよ」
「いいえ、楽しいです」
「見られると照れるよ。失敗しちゃったらどうしよう」
 手を止めて、茶目っけたっぷりに言う。
「まずくても食べますから、どうぞ続けて下さい」
「亜矢ちゃんにまずいものは食べさせられないよ。僕のオリジナル特製カレーにしようと思ったけど、市販のカレールーを使おうかなあ」
 軽いイジワル。おどけて言いながらキッチンの上の棚をあさって、買い置きのカレールーを探すそぶりをする。それが可愛らしくて微笑ましくて、だから私も自然とはしゃぐことができた。
「うわぁ、ごめんなさい。ジロジロ見ませんからオリジナル特製カレーを作って下さい!」
 両手を合わせて眉を下げる。世良さんはじっと考える表情をしていたけど、堪え切れないとばかりにプッと小さく噴き出したので、ふたりで笑い合った。
「仕方ないなあ。なら、頑張って作るよ」

 世良さんのお部屋で、世良さんのお料理をしている姿を見ながら、世良さんが淹れてくれた紅茶を飲む。これってかなりの贅沢。世良さんファンの女の子が知ったらなんて思うだろう。
 今までの女の子もこうして、ここに座って、世良さんのお料理をする様子を眺めていたのかな。彼女だったら、そうしたいと思うだろうし、世良さんの鮮やかな手つきは見ているだけなのに飽きることがない。
「いつもこうしてお料理をするんですか?」
「週に一、二度くらいかな。あとは体が野菜を欲するとき」
「それ、わかります」
 私もひとり暮らしだから。自分ひとりだけだと思うと食事のバランスが偏ってしまう。ほんのひと手間をかけることすら面倒なときもあって、根菜類なんかは疎遠になるなあ。
「前は料理なんてやらなかったけど、年をとったせいかな」
「年齢は関係ないですよ。いまどきの男の子もお料理しますよ。うちの事務所にも弁当男子がいますから」
 見習わなきゃと思っていたところ。不器用なりにも手作りのお弁当はおいしそうなんだもん。
 お弁当かあ。世良さんに作ってあげたいけど、会社で女の子たちに何を言われるかわからないから、やめておいた方がいいのかな。
 そんなことを考えていると、玉ねぎを炒める音が聞こえてきて、ジロジロ見ませんと言いながらも、ついつい夢中になって見てしまう。
 やがて漂ってくるカレーの香り。ゴロゴロ野菜のお鍋にホールトマトとローリエが投入されると、ぐつぐつと湯気を立てて煮込まれていった。
 その間にハムとレタスのサラダを作り、洗い物まですませる段取りのよさ。サラダが盛りつけられる頃にはシーフードカレーもでき上がっていた。シーフードは冷凍物を使っていたけど、それでも本格的。野菜が大きいのは男の人らしくて、食べ応えがありそうだった。

「いい匂いですね」
「うん。でも味はどうかな?」
 ごはんも炊き上がり、世良さんがカレーを盛り付けている。その間に私はカトラリーをテーブルにセッティングして、サラダを並べた。
「さあ、食べようか」
 それから向かい合わせに座ると、ふたりで「いただきます」と言って、世良さんの特製のカレーを味わった。
「どう?」
 世良さんが心配そうに小さな声で尋ねる。
「とってもおいしいです。牛乳が入っているんですか?」「ヨーグルトドリンクだよ」
「なるほど。ドリンクだから酸味が少ないんですね。真似したいです」
「ははっ。どうぞ、どうぞ。前に亜矢ちゃんがヨーグルトが大好きだって言っていたから、試しに入れてみたんだ」
 ……前に? ああ、確か、そんな話をしたような。そんな些細なことを覚えていてくれたんだ。
「いつもは入れないんですか?」
「今日が初めてだよ。たまたま、今日あったから」
 世良さんは楽しそうに言うと、スプーンを口に運んだ。
「意外にいけるね」
 スパイシーな味がまろやかになったシーフードカレー。世良さんみたいなやさしい味。お腹が空いていなかっはずなのに自分でもびっくりするくらい食が進んだ。

 晩ごはんの時間は和やかに過ぎていった。「安物だけど飲みやすいよ」と白ワインまで開けてくれて、カレーとワインという不思議な組み合わせを楽しんだ。
 今まで何度も食事をともにしているせいか、初めての世良さんのお部屋なのにリラックスできる。だけど話題が今日の寝床のことになったとき、急に現実を思い出してカチカチに固まってしまった。これじゃあ、男性に免疫のない女の子みたい。
 だけど私だってひと通りの経験をしてきた大人。言いたくないけど立派な(?)アラサーなんだから。

「僕のベッドでよければ使ってほしいんだ」
「世良さんはどこで寝るんですか?」
「ソファを使うよ」
 ふたりでリビングのソファに視線を移した。三人掛けのソファの座り心地はとてもいい。だけど、そこで寝るとなると……
 背の高い世良さんは細身だけど体格はいい方。ソファだと窮屈過ぎて身体が休まらないと思う。
 ダメ、ダメ、とんでもない。私ばかり世良さんに癒されて、当の世良さんにストレスを与えるなんて自分が許せない。
「それなら私がソファで寝ます。世良さんはどうぞベッドを使って下さい」
 これだけは譲れない。晩ごはんを作ってもらったのだから、こんなのは当たり前。
「それだと──」
「いいんです。居候がベッドを占領するなんて、そんなことできませんからっ!」

 しかし──


 
 
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