第7章 赤い口紅の女性(017)

 翌日の土曜日の朝、友達と会うために外出すると嘘をついた。
「それって女の子?」
「ええ。短大のときの友達が東京に遊びに来ているんです」
「で、どこに行くの?」
「銀座あたりでショッピングをしたいねって。あとショコラトリーにも行ってみたいそうなんです」
 そうくると思って前もって考えていたスケジュールを告げる私はぬかりない。
「ふーん。ショコラトリーかあ」
「世良さんはチョコレートが苦手なんですよね」
「話したことあったっけ?」
「有名ですよ。だからバレンタインデーには、世良さんにはチョコは厳禁だって、当時、みんなが言っていました」
 偶然ではなくて、きっとどこかで世良さんに対する怒りを示したいと思っていたに違いない。世良さんが嫌いなチョコレートのお店を選ぶ私は本当に意地が悪い。
「わかった。気をつけて行ってきなよ」
「遅くなるかもしれないので」
「うーん……久しぶりなんだもんね。ゆっくり楽しんでおいで」
 世良さんは夕べ帰って来なかった。女性とふたりきりでいるシーンを見たあとに追い打ちをかけるようにされた朝帰り。
 これってなんの仕打ちよ。
 明け方の四時くらいに帰って来て、リビングにお布団を敷いた世良さんは、寝室で一睡もできずに過ごしていた私のことを知らない。寝室が別でよかったと、このときばかりは思った。

「気をつけてね」
 玄関先で見送られた。
「行ってきます」
 それだけ言ってドアノブに手をかける。
「あっ、亜矢ちゃん!」
 急に焦ったような声がして、足を止めて振り向くと、気まずそうな世良さんと目が合った。
「なんですか?」
「いや……なんでもない。行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 二度目の“行ってきます”の挨拶をしながら、寂しそうな世良さんの笑顔が胸に突き刺さる。その顔が、玄関のドアを閉めても、電車に乗っても、ずっと頭から離れなかった。


 ***


 マックでお腹を満たしたあとはスタバとドトールをはしごして、なんとか夕方まで時間を潰した。そのあとはネカフェに行って、コンビニで買ったサンドイッチをひとりさみしく頬張った。
 なんでこんなことやっているんだろう。狭い空間の中でデザートのソフトクリームを食べ終えた私は、急に現実に戻り、不意に思いついてパソコンの検索画面を開いた。検索ワードは不動産絡みのもの。有名な情報サイトがすぐに見つかり、マウスでクリックする。新しく住む場所を探そうと思った。
 もう世良さんのアパートにはいられない。明日にでも不動産屋さんに行こうと決意した。

 それから夜の十一時頃に帰宅して、即効でシャワーを浴びて、ダイニングでパソコンをいじっている世良さんにおやすみなさいと言って通り過ぎる。
「亜矢ちゃん!」
 すると案の定、呼び止められて足を止めざるを得なくなる。

「少し話したいんだけど」
 そのとき、バサリと。世良さんが席を立った拍子にテーブルの端にあったA4サイズの書類が、横を通り過ぎようとしていた私の足元に落ちてきた。
 見るとそれは電気工事会社が作成した見積書のコピーで、件名は《北街角の家改修電気設備工事》。遊び心のある名前だなと思った。一般住宅かな。お客様の中には工事名に個人の名前を入れないでほしいと希望する方もいる。
「座って」
 私が見積書を拾い上げると、世良さんが向かいの席の椅子を引いてくれた。「ありがとう」と私の手から見積書を受け取って、それをテーブルに伏せて置く。
「お茶を淹れるね。今日はレモンティーなんてどう?」
 散々、コーヒーを飲んだ胃はだいぶもたれている。レモンティーと聞いて「はい」と頷いた。
 だけど今日はキッチンに入る世良さんを見ることができない。いつもだったら彼の姿を目で追って、しなやかに動く指先に見とれてしまうのに。
 それができないほどに私の心は石のように固くなってしまった。冷たくていびつに歪んだ石。そしてそれは尖ったもので突くと、あっという間に粉々になってしまいそうなほど、もろい。
 だからできれば話したくないのに。世良さんに罵声を浴びせたり、弱々しくすがったりしたくない。そんな姿を見せたくないの。

「はい、どうぞ。今日はアイスにしてみたんだ」
 テーブルには氷がたくさん浮いた紅茶のグラスがふたつ。それぞれにレモンの輪切りが浮いていた。涼しげな見た目で、とてもさわやか。おいしそう。
「さてと」と腰を下ろした世良さん。長い脚をさっと組んで腕組をする。私にはそれが臨戦態勢みたいに見えて、世良さんの機嫌の悪さを感じとった。そりゃそうだ。私は朝から無愛想極まりない態度を貫いているのだから。
「僕のお姫様は、いったい何が気に入らなくて駄々をこねているのかな?」
 その声はあくまでも穏やか。たぶん、相当我慢をさせているのだと思う。
「気のせいですよ」
「そうかな。朝は素っ気ないし、やっと帰って来たと思ったら“ただいま”だけ言って僕の顔を見ることなく通り過ぎてしまう。一緒に住んでいるのにこんなのってある?」
「ごめんなさい。ちょっと疲れていて……今度から気をつけます」
 もっともなことを言われて目を合わせられない。
「亜矢ちゃん、僕は謝ってほしいんじゃないよ」
 グラスを見つめる私にたたみかけるような声が下りてくる。そんなやさしい声で言わないで。本当のことを聞けなくて、お見合いをやめてと言えなくて、勝手に怒っているだけなの。
「僕が何かしたんだよね? だったら教えてほしい」
 なのに、さらにやさしくなるから、ますます言えなくなっちゃう。私ばかりが余裕を失くしているのが悔しくなるの。こんなときでもプライドが邪魔している。
「もしかして、夕べ遅かったからかな? っていうより朝帰りだったからね」
「いえ、そのことは別に……」
 あれだけ楽しそうだったんだもん。お酒がすすんで意気投合しちゃったら、そういう流れにだってなるよね。
 私とは未遂だったわけだし、今ならまだ引き返せるような気がする。できるなら、きれいにお別れしたい。恨んだり妬んだりはしたくない。

「夕べはお店で酔いつぶれちゃってさ。気づいたら、とんでもない時間で──」
「いいんです!」
「え?」
「世良さんがどこで何をしようと自由です。それに私は、それをとがめる立場でもないですし、言うつもりもありません」
「でも、それを怒っているんでしょう?」
「怒ってませんからっ!」
「亜矢ちゃん……」
「世良さんは私に気を使わずに、どうか自由にお酒を飲みに行って下さい。私のために、そういうお付き合いを断る必要もないですし、遠慮もいりません」
 私は見事に一方的に言いきると席を立った。レモンティーには口をつけることをせずに寝室に飛び込んで、急いでドアを閉めた。
 世良さんの悲しげな顔が浮かぶ。それは今朝見た顔とも違う。笑みのない世良さんの顔を見慣れていないから強く印象に残った。


 ***


「はぁ……」
 胸の奥に居座りづつける世良さんの顔。どうしても消えてくれなくて、今日も眠れない夜を過ごしていた。
 謝るべきなのかなあ。いくらなんでも、あんな言い方は大人げないよね。
「傷つけちゃった……」
 やっぱり一刻も早く出て行かなきゃ。じゃないと、また傷つけてしまう。好きになった人だもん。ありがとうって思いたい。そう決意して布団を頭から被った。
 すると、体がシーツに吸い込まれるように落ちていく。昨日からの睡眠不足と今日の疲れのせいで、さすがに体力の限界みたい。あれだけ眠れなかったのに、深夜を過ぎて、誘うような眠気が私の瞼を重くした。

 翌日は朝からお洗濯に励む。家事が終わったら不動産屋さんに行こうと思っていた。昨日、目星をつけていた物件の見学は予約済。不動産屋さんの所在地もちゃんと調べてある。

「おはよう」
「おはようございます」
 洗面所に顔を洗いに来た世良さんと顔を合わせ、私は洗濯機のスイッチを入れた。
「今日さ──」
「私、お洗濯とお掃除が終わったら、午後からちょっと外出したいんです」
 世良さんが何か言いかけているのを知りながら、わざと言葉をかぶせた。
「どこに行くの?」
 友達と会うという嘘は昨日、使ってしまった。今日はその手は使えない。どうしよう。どうやって切り抜けよう。
「……か、買い物です」
「僕も一緒に行くよ」
 思わぬ切り返しに目が点になる。
 一緒にスーパーに行くことが日常みたいになっていたから、世良さんの言っていることはおかしくないことなんだけど。この場合、わざとそう言って私を試しているように思えてならなかった。
「……えっと、下着とかそういうのを買いたいんです。なので、さすがに一緒には……」
 我ながらナイスアイデア。そうだよ。下着と言ってしまえば、いくら世良さんでも手も足も出るまい。不審がられないように念のため、不動産屋さんの帰りに下着を買いに行こう。
「そっか。僕はそういうの、平気だけど、亜矢ちゃんは嫌だよね」
「世良さんって今までも女性の下着の買い物に付き合ったことがあるんですか?」
「さすがにそれはないけど……」
 世良さんが言葉に詰まる。流暢な口ぶりが常の彼をそんなふうに追い込んでいるのは私。そんなつもりはなかったのに、今の私はそれだけ刺々しいのだろう。
「亜矢ちゃん、あのさ……」
「ごめんなさい。時間がないので」

 昨日の夜のことも含めて謝ろうと思っていたのに。結局、避けるように洗面所をあとにした。
 それからは自己嫌悪の嵐。世良さんの二股のことよりも自分の醜さばかりが目についてしまい、過去に振られた理由もなんとなくわかるような気がした。だからダメなんだ、私って。

 それから部屋中に掃除機をかけて、洗濯物を干し、お昼ごはんを作る。今日は冷凍ごはんの処分も兼ねてレタスチャーハンにした。ゴマ油をきかせたチンゲン菜とワカメのスープも作った。

「チャーハンもだけど、このスープもおいしいよ」
 世良さんがスプーンで上品にスープをすくう。チンゲン菜とワカメはみじん切りだから見た目は毒々しいくらいの緑色をしたスープだけど、味は自分で言うのもなんだけど、なかなかの美味。
 栄養もあるし、野菜不足の世良さんにはもってこいの簡単スープだなと思った。
「よかったです」
「男のひとり暮らしだとスープまで作らないもんな」
「冷蔵庫の残り物で作っただけですよ。チンゲン菜が何日も放置されていたので、すっきりしました」
「そういうところは、やっぱり女の子だね」
「鶏がらスープの元で簡単にできますから。世良さんにも作れますよ」
 なんとなく平和な、だけどどこか微妙な時間が過ぎていく。会話は普通に流れるけど、お互いの顔色をうかがいながらの食事はとても疲れた。世良さんも同じように感じているに違いない。
 ミネラルウォーターに氷とレモンの輪切りを浮かべたレモン水は世良さんが作ってくれたもの。かすかな酸味を味わいながら昨晩のことが思い浮かぶけど、今のこの雰囲気では言い出しにくかった。“ごめんさい”という、たったひとことが言えない。


 午後になり不動産屋さんを訪ねると、昨日予約していたおかげで、さっそく物件の詳細が印刷された資料をもらえた。私が提示した物件が三件。それ以外にもネットにまだ掲載されていないという不動産屋さんがピックアップしてくれた新着物件が一件ある。
「これから見に行く物件は即入居できますか?」
 車を走らせている不動産屋さんに尋ねた。空き部屋なのは確認済みだが念のため。
「ええ。書類の手続きさえ完了すればオッケイですよ」
「よかったあ」
「保証人の方はいらっしゃるんですか?」
「はい。それは大丈夫です」
 保証人については萌さんにお願いするしかないな。前もそうだった。上京したての私が唯一頼れる身内が萌さんだったのだ。いつも頼ってばかり。働いていても、ひとりで生活することは、実際にはなかなか難しい。

 それから予定通りに物件の見学をして、なんとか二件に絞ったけど。もっと他の物件を見た方がいいのかなと思ってしまい、結局、決めることはできなかった。
 気持ちがはやっていても計画通りにいかないものだなあ。帰りの電車の中でそんなことを思いながら溜息をつく。だからと言って、このままズルズルというのも。
 日も落ちて窓の外は薄暗くなりはじめていた。それを眺めていたら憂鬱さが増していく。そんな中、私はふと思い立って電車を降りたのだった。


 
 
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