第8章 それでも好きで堪らない(020)

「春山社長、お疲れ様です」
「世良くんだったのか。悪い、悪い。てっきり亜矢がナンパされているのかと……あっ、もしかして、俺、邪魔したか?」
「いいえ。そんなことないですよ」
 お互いに急いで手を離したけど、春山社長に見られたかもしれない。その前に私のぐしゃぐしゃの顔を見れば、軽い修羅場だったことは一発でバレてしまう。
 だけど今日だけは、お願いだから見過ごしてほしい。こんな悲惨な結末の中でブラックな突っ込みをされても気の利いたセリフを返せるはずがない。
「それでは僕は先に現場事務所に行ってます」
 世良さんも居たたまれなくなったらしく、春山社長に声をかけて去って行く。私はその後ろ姿を目に焼き付けるように見送った。
 過ぎてしまった日々は戻らない。世良さんの中ではケジメがついているということは、本当に手遅れなのだ。

「亜矢、ハッチを開けろ」
「あ、はい」
 意外にも春山社長の声は普通だった。てっきり、からかわれるのかと思っていたので逆に警戒してしまう。何か企んでいたらどうしよう。
「思ったよりでかいな」
 サンプル品が入った箱はかなりの大きさ。中の商品への衝撃を和らげるために厚めのしっかりとした作りの段ボールだった。
「台車を借りてきましょうか?」
「いや、これくらい平気だ」
 私は重くて持てなかったので、サンセットの間宮さんに車に積んでもらったんだけど、春山社長は軽々と持ち上げていた。
「何があったのか知らないけど、おまえ、帰りの運転は大丈夫か?」
 箱を抱えながら、春山社長は顔だけ私に向けて言う。
 思ってもみなかった言葉に驚いたけど、私は冷静に答えた。
「はい。大丈夫です」
「こんなことになるんなら、事務所にいる奴に無理にでも頼むんだったな」
「ほんとに大丈夫ですから。車の運転なら慣れています。いつも仕事で運転しているのは春山社長だって知っているじゃないですか」
「例えベテランでも車の運転中に油断すると命の危険があるんだよ。仕事に私情を挟むなとまでは言わないが、そのことだけは注意してほしい」
 からかうどころか、何よ、この展開は。春山社長に思いっきり心配されているよ。今の私は、そんなに悲惨な顔しているのかな。
「わかっています。それに昔の私とは違いますから、安心して下さい」
 落ち込む度に事故っていたら、命がいくつあっても足りないよ。
「亜矢がそこまで言うなんてな。取りあえず、耐性だけは強くなったな」
「おかげさまで」
「なんだよ? 俺のおかげなのか?」
「たぶん、そうだと思います」

 いい上司のもとで仕事を覚えることができれば、部下は案外、本来持っている実力以上に成長するものだと思う。春山デザインに勤めて一年と十カ月ほど。私は目の前でそういう人を何人も見てきた。
 つい最近も、過去に春山デザインから独立した人が照明関係の国際的な賞をもらった。その記事をスクラップして大切に保管している春山社長を盗み見ながら、人の上に立つ人間の本当の実力を見たような気がした。
 そんな人だから萌さんも私を春山社長に託したのだと思う。そして、萌さん自身も。今の自分があるのは、春山社長のおがけだと感じているからこそ、ライティングデザイナーとして独立はせずに、建築設計の道に進んだのかもしれない。
 ライバルになってしまっては恩を仇で返すとでも思ったのだろう。実際の春山社長は、かつての同志の活躍を愛情いっぱいに微笑ましく、そして誇らしげに見守っているというのに。

「それより早く行かないと。打ち合わせ、始まっちゃいますよ」
「あっ、やべぇ! 遅刻したら、あの禿げ所長にまた怒鳴られるよ」
 またって……いったい、現場で何をやらかしているのだろう、この人は。ただでさえ建設業界の中では肩身の狭い業種なのに。まあ、あの性格だし、まともな人間はみんな怒鳴りたくなるんだろうけど。
 だとしても、うらやましい性格だ。従業員を抱える責任やビッグプロジェクトの重圧の中、さらにバツイチという過去を抱えて楽観的に生きているんだもん。
 そんな春山社長を見ていると、自分がおかれている状況と照らし合わせて、せめて仕事だけは責任を果たさないといけないと思えるのだ。

 でも、そんなふうに仕事へのポジティブな考えを持てたのは、ほんの数日間。
 ──待っていれば、それはきっと訪れる
 このときまで、きっと私は心のどこかで都合よく奇跡というものを期待していたのかもしれない。世良さんと、もう一度、笑い合える日々が戻ってくると。


 ***


「世良さんがシンガポールへ転勤?」
「高嶋建設もいよいよ海外に進出するらしいぞ。シンガポールのリゾートホテルの建設に合わせて、向こうに支社をつくるんだってさ」
 昨日、春山社長が現場に行ったときに高嶋建設の社員の人から聞いたそうだ。事務所の会議室で、たまたま二人きりになったタイミングで、私はそのことを聞かされた。

 世良さんと現場で遭遇してから八日が過ぎていた。
 春山社長には、あの日の翌日に、すでに世良さんのアパートを出て萌さんのマンションに移っていたという報告をした。そのこと以外は何も話していないが、あんな場面を目撃されていたので、世良さん情報をわざわざ私に伝えてきたのだろう。

「シンガポール支社……それで世良さんが……」
「正式に決まったわけじゃないみたいだけどな。でも、世良くんだったら人選として間違いないからな。さらに実績を残せば、本社に戻ったときにそれなりのポストが待っているということだ」
「……そうでしょうね」
 信じられなかった。世良さんが日本を離れるかもしれない。そんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
「いいのか?」
「世良さんにとって、いいお話なんですよね? だったら、いいと思います」
「俺はそんな話をしているんじゃない。わかっているくせに、はぐらかすな」
 きつい目で見据えられる。だから私も睨み返してやった。
 そんなの、寂しいに決まってる。行ってほしくない。すぐに会える距離にいられなくなるなんて耐えられない。気まずくても、もう一度……ううん、何度でも会いたいの。
 だったら何? 寂しいと口に出せば、世良さんのシンガポール支社への転勤の話はきれいさっぱり消えてなくなってくれるの?

「亜矢。今、自分の胸の中で思ったことが答えだ」
「え?」
「手遅れになるぞ。正式に辞令が下りたら、それを断われないのがサラリーマンなんだ」
 そんなことは言われなくともわかってますよ。父が転勤族だったから。そのために私たち家族は日本国内の移動はもちろん、海外にも移り住んだのだ。
 でもそのときの友人たちとの別れとは違う。その度に経験した別れは切なくありながらも、時間がたつにつれて思い出となった。
 けれど大人になってからの失いたくない人との別れは、そうはいかない。どうしても引きずってしまう。どうして毎回、重い後遺症を残してしまうのだろう。
 手遅れになる、か……。だけど今さらどうしようもない。私には何の権利もないのだから。
「もし転勤になったら、どれくらいの期間、向こうでの勤務になるんですか?」
「どうだろうな。一年と言われて行ってみたら五年帰れないこともあるからなあ」
「五年も……」
「世良くんは確か三十六だっただろう。そうなると、結婚相手は現地の女ということも有り得るな」
「……」
 そういうことなの? “ケジメ”の意味。もう会えないから“サヨナラ”と言いたかったの?
 私は“現地の女”という言葉から、あのお見合い相手の女性を思い浮かべた。にっこりと勝ち誇ったように笑みを浮かべて、私の妄想の中の彼女はこちらを見ている。
 世良さんと結婚するのはこの私、そして私は彼について一緒にシンガポールに行くのよ──あの赤い口紅の唇は、そんなふうに言っているようだった。


 
 
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