第8章 それでも好きで堪らない(021)

 その日の夜、私は萌さんに誘われて、マンションから歩いてすぐのところにある小さな居酒屋さんに来ていた。
「聞いたわよ。世良くんのシンガポール支社の話」
「え? もう知ってるの?」
 私だって今日の昼間に聞いたばかりなのに。
「仕事のことで用事があったのよ。聖人に電話をしたら、亜矢の様子を気にかけてくれって」
「春山社長が?」
「もちろん、世良くんのお見合いの話は、聖人は知らないわ。でも、あなたたちの間に何かあったことは勘付いたみたいね」
「実はこの間、世良さんと言い争っているところを見られたの」
「それでなのね」
 萌さんは、お通しの生のキャベツを手づかみで口に入れた。調理されていない、ちぎっただけのキャベツ。随分と手抜きだなと思いながら、私もドレッシングをかけずにつまむと、ほんのりと甘みがあって、そういうことかと納得。
「聖人は黙っているべきか悩んでいたらしいけど、亜矢が後悔するといけないから、世良くんのことを話したそうよ。あの人、意外にお節介なのよね」
「ほんと。見かけによらずな人なんだから」

 厨房の周りをぐるっと囲むカウンター席オンリーのこのお店は庶民的な和風居酒屋。お料理は目の前の厨房で手作りされていて、それを眺めながらお酒を頂ける。
 萌さんは珍しく日本酒を頼み、それならと、私も同じ日本酒を飲んでいた。これが思ったよりも口に合い、お酒も食事もすすんだ。

「どうせ他の女と結婚するなら、海外に行ってくれた方が私としては助かるのよ。亜矢には世良くんをさっさと諦めてもらって、次の男を見つけてもらいたいから」
「次の男……なんて。そんなの無理だよ。私は今後、少なくとも自分から人を好きになることはないと思う」
「またそうやって自分を追い込む。そういうセリフが言えるのは二十代のうちよ。三十代でそんなことを言ったら笑われるわよ」
「だって本当のことだもん。世良さん以上に好きになる人が、これから先、現れるとは思えない」
 おいしい日本酒のせいだろうか。いつも以上のペースで飲み続け、普段だったら絶対に言わないようなことまで言ってしまう。でもそれが私の本当の気持ち。世良さん以上に好きになる人はいないと思えるほど、私は世良さんのことが好きで好きで堪らないのだ。
「そこまで言うなら、会いに行きなさいよ」
「でも、追い返されるかもしれない。だって世良さんはもう次に向かって進んでいるんだよ。私のことなんて、さっさと忘れられる人なんだから」
「だとしても、会いに行くべきだと思うけど。振られたっていいじゃない。今の状況となんら変わらないんだから」
「萌さんはいいよ。きれいだもん。仕事だって成功してる。振られても傷は浅いじゃない。でも私は違う」
 春山社長が離婚後も恋人を作らずに独身を貫いているのだって、萌さんをまだ好きだからなんだよ。そんなふうに思ってもらえるくらい、萌さんは魅力的なんだよ。
 それに比べて私は、あっという間に心変わりされてしまう女なの。シンくんにハヤト、そして世良さんにまで。
「萌さんと私は違うんだよ。萌さんを好きになる男性はいっぱいいるけど、私はそうじゃない。私が街を歩いていても男の人は誰も声をかけてくれないの!」
「亜矢……あなたはいつから、そんなふうになっちゃったの? 自分のことをそんなふうに思う人を素敵だと思ってくれる男性はいないわよ」
「じゃあ、望みなんてないじゃない。もしかして世良さんは私を好きになってくれたんじゃなくて、結婚相手がほしかっただけなのかもよ」
「亜矢……」
 萌さんは泣き崩れた私の肩を抱いた。
 カウンターが二段になっているおかげで、顔を伏せると目線ほどの高さのカウンターが死角になって反対側の席の人には私の顔が見えない。店内が薄暗いのも幸いだった。

「馬鹿ね。そんなふうに思っていないくせに」
 やわらかい声がふんわりと私を守るように包む。世良さんとは違うやさしい香りがして、年季の入った木製のカウンターにいくつもの染みができていった。
「好きなだけ泣きなさい。いろいろなことに気づけてよかったじゃない。それに、まだ間に合うわよ。今からだって遅くないんだから」
「……ほ、んと?」
 顔を上げた私の涙のあとを、萌さんがハンカチで丁寧に拭いてくれた。ニコニコと。火事の翌日に駆け付けてくれた、あの日の母と同じ眼差しは本当に穏やかで、どこからともなく勇気がわいてくる。
「体を張って迫っちゃいなさいよ。そのDカップを使わない手はないわよ」
「こんなときに、そんな冗談……」
「本気で言ってるのよ。亜矢のその体はいざとなったら最強の武器よ。私のBカップと交換してほしいくらい」
「そういえば、萌さんのお母さんも細いよね」
「そうなのよ。だから、胸が大きいのは亜矢のお母さんの家系なのかしらね。母方のおばあちゃんも大きくなかった?」
「大きい。っていうより、ぽっちゃり体系。だから私もなかなか痩せられないの」
「今の亜矢はそれ以上痩せる必要はないわよ。それになんだかんだ言ったって、男はやわらかい女が好きなのよ」

 こうして数日もたたないうちに、私は萌さんからセクシーランジェリー第二弾を贈られたのだった。
『前にあげたスケスケルームウェアとセットでどうぞ』
 そう言われて袋から出してみると、これまたスケスケの白のレースのティーバック。サイドとバックが紐じゃないだけマシだった。レースだから、かすかにだけど上品さは感じる。(スケスケだけど)
 萌さんは、いざというとき、こういうのを本当に身に付けて挑むのだろうか。実際、何枚かティーバックは持っているけど、普段から履いているかといえばそうではないので、そのあたりが気になって仕方がない。
 ……でも、何枚か持っているということは、履いているんだよね?
 萌さんはどこまでも我が道を行く人。迷いを決して見せない。今住んでいるこの部屋だって離婚後に購入した新築分譲マンション。女バツイチ独身。かなりたくましい。どうすればそんな人になれるのだろう。
 ただ、どんなに努力しても、私が萌さんになれるわけではない。あくまでも自分らしく。少なくともいじけた自分から抜け出さないといけないと思った。

 それから数日後の月曜日。私は世良さんのアパートに来ていた。部屋の明かりが点いているのを確認して一階のエントランスでインターホンを鳴らす。
 何しに来たと言われるかもしれない。迷惑そうな顔をされるかもしれない。それでも頑張って気持ちを伝えようと決めてきた。

「はい」と世良さんの声がして緊張しながら名前を言う。すると、自動ドアを解除してもらったのはいいが、なぜか「一階で待っていて」と言われてしまった。
 これはもう最悪なパターンのような気がしてならない。部屋にすらあげたくないということなのだから。
 世良さんの言う“ケジメ”というものは、ここまではっきりと境界線を張ることなのだろうか。それとも私だからなの?
 さっそく立っていることも辛い。会う前から気力が失われていくようだった。

 けれど階段を下りてきた世良さんが私を見つけたとき、照れくさそうに口の端を上げた。
 笑ってる? 少なくとも拒絶されていないことがわかってほっとした。

「突然、ごめんなさい」
 電話をすることも忘れてしまうほどだった。思い立ったというか……ここ数日、ずっと会いに行くことを考えていたが行動に移せないでいた。それが今日、残業を終えたあとに見た、夜が迫るノスタルジックな空が心をかき立てて、半ば衝動的に世良さんのアパートに足が向かっていた。
 どこか懐かしくて、だけど初めて見る空の景色の中に、地球の、そして人間の刹那的な生命を考えずにはいられない。今のこの一瞬──自分がこうして生きていることが、どれだけの奇跡なのかと気づいたとき、どこからともなく私を呼ぶ声がした。
 一緒に明日を見られるのなら、今日を頑張って生きようと思えた。

「仕事帰り? 随分、遅いね」
 モカクリームの床石の繊細な凹凸は、天井のダウンライトの光をいい具合に散らしてくれて、眩しさをやわらげてくれている。おかげで、幾分、気持ちがリラックスできた。
「世良さんは、今日は早いんですね」
「今日は予定があったから」
「予定……があったんですね」
 最悪なタイミングだ。世良さんの都合まで考えていなかった。だけど今さらどうしようもなくて、頭を下げて「ごめんなさい」と謝る。
「謝らないで。わざわざ来てくれてありがとう」
 見上げると、その微笑みに胸が熱くなっていく。
 メイプルシロップがたっぷりかかったパンケーキの香りが漂ってきそうなほど甘い甘い眼差し。禁断症状が一気に襲ってきて、その胸に飛び込みたくなって、でもできなくて、悲しい気持ちになる。
「あの、ここじゃなんですから。どこか落ち着いて話せる場所に行きませんか?」
 部屋にはあげたくないのだから仕方がない。捨てセリフを吐いて出て行った女だもん。私も世良さんの立場ならそう思うはず。
「あ、うん。ごめんね。今、お客さんが来てるんだ。でも、どこに行こう? 近くに適当なお店もないんだよな」
 そう言われて立つ瀬がない。渾身の力を振り絞って一世一代の告白をしようと思っていたら、共用スペースでのまさかの立ち話。
 帰った方がいいのかな。それとも遠まわしに帰れと言われているのかも。お客さんがいらしているんだよね。それって……?
 そのとき、アプローチ側の自動ドアが開いて……

「あれ? こんなところで、どうしたんですか?」
 スーパーの袋を提げた女性がひとり。カジュアルな出で立ちは、この間と違ってオフモードな雰囲気。あの赤い口紅の女性だった。彼女は、このアパートのICカードを持っていた。
「お客様? なら、あがって頂いたら……?」
 落ち着き払った態度に嫉妬渦巻くこの胸が鼓動を速めていく。たった二週間で奪われてしまったポジション。彼女はそんな短い期間で手に入れている。
 やっぱりシンガポール支社への転勤の話が進んでいるのだろうか。今すぐ結婚式というのは無理だろうけど入籍ならばできる。とても理解はできないが、実際、世間では一カ月足らずでスピード婚をする人もいるくらいだ。
「いや、いいんだ」
 世良さんが彼女に笑いかける。私はどうしようもない疎外感を覚えて、無性に腹立たしくなって、彼女が世良さんへ向ける視線すら許せないと思ってしまう。
 ピンと伸びた背筋、すらりとした細くて長い脚。サラサラとした髪に吹き出物ひとつないきめ細やかな肌。ナチュラルメイクの今日の彼女の唇はヌーディーなリップグロスだけど、私とは比べものにならないほど色っぽい。
 何もかも負けている。今は彼女が特別で私は邪魔者なんだと感じた。

「亜矢ちゃん。歩きながら話そうか?」
「いえ、いいでんです。お忙しそうなので、ここで結構です」
 気持ちを伝えようと思っていたのに、現実を見せられて気力を失くしてしまった。あの女性がアパートに来ているのに、そんなこと言えない。そこまで強くない。
 萌さんはそれでもいいじゃないと言っていたけど、どうせ振られるのだから、言っても仕方ないよね。世良さんだって、自ら部屋を出て行った女に、今さら未練たらたらに縋り付かれても困るだけだ。そうだよ。困らせてどうする!
「でも、話があるんじゃなかったの?」
「話というか……謝りたくて……」
 せめて、最後にそれだけは言わないと。大人の女らしく、格好よく去りたい。
 でも、言いながら一方からの視線が気になってしょうがない。それに気づいた世良さんが彼女に目配せをすると、何も言わずに彼女は階段の方へ歩いて行った。
 その無言のやり取りに再び傷ついたけど、いろいろなことが重なって感情が麻痺しているせいで、案外冷静でいられた。
「この間は現場であんな態度をとってしまって、すみませんでした」
「そのことなら気にしてないよ。ほら、顔を上げて」
 変わらない声は相変わらず私を癒してくれる。その声は、かつて、恋する気持ちを封印するかのようにがんじがらめに絡まっていた鎖を少しずつ解いてくれた。
 でも、その声でどれだけやさしい言葉をかけられても、それがその他大勢の人に向けられたものと同じなら意味をなさない。

「世良さん……」
「なに?」
「お元気で」
「え?」
「お幸せに」
「亜矢ちゃん……」
 精一杯、姿勢を正して、今の自分に負けないように。崩れていく自分はもう見たくない。これからひとりで前を向いて歩いていかなくてはならないんだから。
 私は自分にそう言い聞かせて、世良さんをまっすぐに見つめた。
 今日で最後。彼に背を向けた瞬間から、私たちは友達以下の関係に戻るのだ。甘えられない。頼ってはいけない。逃げないで、私はこのままこのレールの上を進むだけ。
「さよなら」
 自分で言ったその言葉に打ちのめされそうになった。だけど、なんとか堪え、最後に頑張って笑顔を作った。
 駆け出したときに彼の手が私の指先に触れたけど、それを振り切って外へ出た。
 冷たい霧雨の中、肌だけはこんなにも熱い。忘れられない想いが体の中にこもって、きっとしばらくは眠れない夜が続くだろう。そんな覚悟をした七月の肌寒い夜は、永遠のようにも思えた。


 
 
inserted by FC2 system