1.不埒で淫らな私(002)

 

 玲は仕事が忙しくてクラブには滅多に顔を出さない。
 その日の試合では玲はベンチだった。もっとも練習すらまともに出ていない玲だったから、それは当り前のことなんだけど。
 一方、壱也はスタメン。だけど技術力というよりも若さが理由で選ばれたようなものらしい。
 頑張ってね、と見送って長い試合が始まった。
 しかも今日は少し蒸し暑い。中学校の校庭の小さな日陰をなんとか見つけて少し離れたところから、それでも壱也がボールを追っている姿を目で追う。
 だけどあいにくルールなんてぜんぜんわからないんだよね。
『はぁ……疲れたな』
 興味のないスポーツ観戦はさすがに熱中できなくて、なんとなく口に出たひとりごと。
『大丈夫かよ?』
 なのに返事があって、びっくりする。情けないセリフを聞かれていたことも恥ずかしいし、傍に人が近づいていたことに気づかないほど気が緩んでいたのだから、どれだけ間抜けな顔をしていたんだろうと違う意味の汗も滴った。
『飲むか?』
 手渡されたのはペットボトルのお茶。
 さっきの無愛想な彼──玲がクラブ用のクーラーボックに完備していたお茶を私のために持ってきてくれたのだ。
『……あ、ありがとうございます』
 私はお礼を言った。
 だけど玲は軽く頷くも、なにも語らずにさっさと私から離れてしまう。
 ほら、無愛想なのはそっちじゃないと壱也の言葉を思い出し、心の中で呟いた。
『あっ、冷えてる』
 だけど手の中のペットボトルがすごく気持ちよくて、身体が欲していた水分の存在にも気づけた。無愛想だけど、良い人なのかも。
 視線を移せばベンチに戻って行く玲の後ろ姿。逞しい背中がティーシャツの上からもよく分かる。玲に対して感じる男の色気のようなもの。そんな淫らな印象だけが色濃く残り、そのことばかりを考えているうちに……
 試合が終わった。

 結果は2−0。
『よかったね』
『見てたか? 俺の見事なディフェンス』
 壱也が得意気に言う。
『ディフェンス? あ、ごめん。サッカーのことぜんぜんわかんないから』
『俺が相手からボールを奪ったとこ、見てなかったのかよ?』
『ああ、なるほどね。見てたはずなんだけどね。見逃したのかな』
『相変わらず、冷めてんな』
『もういいよ、そういうの聞き飽きた』
 私が壱也とそんな会話をしていると……
『いいプレイだったよ』
『あ、玲さん』
 玲がそこに立っていた。
『みんながみんなサッカーが好きとは限らないだろ。暑い中、応援に来てくれただけでもありがたいと思え』
『わかってますけど。こいつ、基本的になんにも興味示さないんで俺がいろいろ教えてやろうと思ってるんですよ』
『何様のつもりだよ?』
『親切心ですよ。明日香にはむしろ感謝してもらわないと』
 酷い言い様だ。さっきから黙って聞いていれば言いたい放題。まったく壱也の奴、口数だけは減らないんだから。

『おーい。壱也!』
 その時、遠くでグランドを整備していたチームメートが壱也を呼んだ。どうやら手伝えと言っているらしい。壱也はそれを察知し玲に『ちょっと行ってきます』と言い残しグランドへ駆けて行った。
 え? 行っちゃうの?
 どんどん小さくなる壱也を呆然と見ていた。
 そして、取り残された私と玲。さっきまで会話していたのはあのふたりだったから、壱也がいなくなると途端に気まずくなる。
 ……壱也、早く戻って来てよう
 すると玲がその雰囲気を察してか、すかさず私に話しかけてきてくれた。
『今日は長い時間、お疲れ』
『あ、はい。お疲れ様です』
『でも、もしかしてサッカー嫌い? ルールも詳しくないみたいだから』
『ええ。どちらかというとそうですね』
 正直に答えた。
 スポーツ観戦なんてぜんぜん興味のない私は半ば無理矢理、壱也に連れてこられたんだから。
 そんな心の内を見透かされたのか、玲はその答えに声を出さずに笑っていた。
『おもしろいね』
『おもしろいですか?』
『だって好きじゃないのにわざわざ応援に来てるから。もしかして壱也のカノジョ?』
『いえ、違いますよ!』
『それなのによくつき合えるな』
『だって壱也、誘うのだけは上手ですから。一度は断ったんですよ。だけどいつの間にか約束させられてました』
『そうだな。あいつならそういうの慣れてるからな。数だけはすごいよな』
 玲が眩しそうに笑った。
 あ、その顔、いいかも。笑うと威圧感が一気に吹き飛んで印象がまるで違う。初対面だからどことなく警戒していたけど、さっきよりもほぐれた表情に身構えていた私の緊張も少しずつほぐされていった。


 夕暮れが近づく初夏の空の雲には紫が混ざったようなピンク色が薄くかかり、優艶な美しさだった。
 空が導いてくれた清々しさ。
 試合のあと三人で飲みに行こうと提案したのは玲だった。
『今日は久々の休みなんだ。このまま帰るのはもったいない。明日香ちゃんさえよければだけど』
 名前を呼ばれて親近感がわく。本当は試合が終わったらさっさと帰ろうと思っていたけど、それも悪くないなと思った。

 場所は試合会場近くの居酒屋だった。
 私と壱也が並んで座り、私の目の前に玲が座った。慣れないスリーショット。少しだけ打ち解けてはいたけど、お酒の席はまた違った雰囲気で、最初は緊張していた。

 だけど玲は意外によくしゃべると知り、そんな緊張も徐々に薄れていく──

『女の子なのに建築科なんだ』
『珍しいですよね』
『なかなか大変な世界だよな。建設業界はまだまだ男の世界だし』
『そうなんですよね。就職もかなり厳しそうです』
『でも最近は女性の建築家も増えているよ。女性ならではの感性が受けているみたいだから』

 ──だけどそれだけではない。

 同い年にはない大人の魅力に引き込まれていた。知識があって言葉の選び方も他の同い年の男の子たちとは違う。たったそれだけのことなのに玲に引き寄せられてしまう。
 玲に興味を持った私はいつしか玲に特別な視線を送っていた。そして時々目が合うと、玲の方が少し目を細め私に視線を返してくれる。
 壱也が一生懸命に話を盛り上げてくれている間も、私たちはふたりで目と目で会話をしていた。その度に隣にいる壱也に罪悪感を覚えたけど、私は自分の熱を帯びてくる身体を持て余していた。
 氷が浮いたカクテルのグラスの冷たさでも抑えられないほどに跳ね上がる鼓動、昂っていく感情。感じる女としての欲求に戸惑いながらも、私はチャンスをうかがっていた。
 でもそんな必要もなかったみたい。壱也がトイレに行くと言って席を外した時、逆に玲が私に甘い言葉を囁いた。
『連絡先教ろよ』
 もちろん私の答えは決まっている。
『いいですよ。でもいいんですか? カノジョがいるのに』
『たまにはね、カノジョのことを忘れたい時もあるんだよ』
 そう、この時、玲にはつき合っている女性がいた。だから私もほんの軽い気持ちだったんだ。確かに玲に興味はあったけど、好きとかつき合いたいという感情までには至っていなかった。どうせカノジョがいるし、連絡が来ることもあまり期待をしていなかった。


 だけどそれから二日後、本当に玲から連絡がきて期待していなかった分、興奮した。
『これから出られないか?』
 前置きなく言われ、この時、玲を初めて本気で意識した。
『うん、いいよ』
 それから、ふたりで夜のドライブに行った。その日のうちにキスをした。玲と身体の関係を持つまで時間はかからなかった。
            


 

    
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