2.ずっと抱いていて(004)

 

【12月】Asuka[大学2年]


 玲のカノジョと面識のある壱也に私と玲との関係を言えない理由は、軽蔑されるのが怖いから。玲を慕っている壱也にはこの関係を絶対に知られたくなかった。
 だからこの関係を誰にも相談できずにいた。
「いい加減、彼女と別れてよ」
 前よりも多くなった喧嘩。その度に玲は泣きじゃくる私をなだめてくれた。
「ちゃんと別れるから」
 やさしく抱きしめてくれてキスをしてくれて嗚咽を止めてくれる。それほど強くない抱き締め方は抜け出そうと思えばできるのにそんな気もまるでなくなってしまうのは、鼓膜を震わせるような切ない声がキスの合間に伴うから。
「ごめんな」
 全身を包まれながら言われる謝罪は安心できる時間に生まれ変わる。だけどそれはもしかすると不安な気持ちを埋めるため、喧嘩のあとの安らぎという時間がほしくて、無意識にそんな状況を仕向けていたのかもしれない。
 変なところに癒しを求めている私。そこに愛情を直接的に感じることで自分の存在を肯定させようという厄介なこだわりなのかな。

 そんな頃、壱也に誘われてサッカークラブの忘年会に参加することになった。サッカーの応援なんて滅多に行かない私。だけど、なぜかよく飲み会にだけは誘われ、過去にも数回参加したことがあった。
 一方、玲はほとんど飲み会に参加することはなかったけど今日は一年の締めくくりの集まりでもあるため仕事の都合をつけて参加すると言っていた。
 飲み会のある今日は平日。それでも三十人近く集まるらしい。
 場所はサッカークラブの人の親戚の方が経営しているというショットバー。そこを貸しきっての忘年会だった。その忘年会は19時からだったけど壱也がギリギリまでバイトを入れていた都合で私も壱也に合わせて開始時間より少し遅れて行くことになった。

「いいお店だね」
「この店、繁盛しているらしいよ。ピアノや弦楽器の生演奏もたまにあって雰囲気もあるしね」
 壱也の言う通り、お洒落なそのお店はデートにぴったりな落ち着いた雰囲気。
「素敵なお店だね。気に入っちゃった」
「じゃあ、また来ようぜ」
「え? 壱也と?」
「誰と来たいんだよ?」
 玲と来たい、真っ先にそう思ったけど──
 そんなこと、言えるわけない。
「別に誰ってわけじゃないよ……」
「なーんかさあ、俺じゃ不服みたいな言い方なんだけど」
「違うって」
 壱也とは普段もこういうお店に来ることもあるのになんであんな妙な返しをしてしまったのだろう。壱也にとってはいつも通りの、特に深い意味のない誘いだったのにな。
 だけど不意にでてしまった言葉の通り、満たされない心は友人の中で一番に近い距離にいる壱也ですら埋められない。むしろ、今隣にいるのが壱也だということが私の心を沈ませる。
 恋は盲目とは言うけれど、私のこの恋の嵌りようは異常なのかな?人のものだから気持ちを急かされるのだろうか。止まらない想いをコントロールできないでいた。


 私たちが到着した頃は乾杯も終わり、みんな思い思いに飲んだくれている状態。薄暗い店内に真っ先に玲の姿を捜したけど、やっぱりまだ来ていなかった。
 まだ仕事が終わらないのかな、何気にそんなことを考えていたら……
「玲さん、まだ来てないみたいだな」
 まるで私の心の中を読んでいたのではないかと思うほど。タイミングぴったりな言葉が私の臆病心に鋭い針を刺した。
 そういえば、玲とつき合い始めて三人で会うのは初めてだ。そうだった。壱也の前では玲と半年振りに会う振りをしないといけないのだ。
 うまく振る舞えるだろうか──と店内を歩きながら未だ来ない玲を思い、今日、ここに来たことを少し後悔もしていた。
「飲み物取ってくる。明日香もビールでいい?」
 空いていた席を見つけてそこに腰を下ろすと壱也はすぐに席を立ち、カウンターにビールを取りに行く。
「うん。ありがと」
 私はその後ろ姿を当たり前のように見送る。
 さすが、いつもながら気が利くなあ。人当たりが良くてやさしくて、カレシにするならきっと二重丸なのだろうけど。壱也にみる目がないのか、相手にみる目がないのか、女の子に本気になった壱也をまだ見たことがない。
 と、そこへ……
「やっと来たな」
 私が座ったテーブルに見知った顔が近づいて来た。彼は坂本さん。そういえばこの人、玲と同じ会社だったはず。
 今まで飲み会の席に玲本人がいたことがなかったせいか玲の話題になることなんてなかった。だけど今日はそうじゃない。今日は玲も参加する忘年会だ。会社での玲を知りたいと思う反面、触れたくない話題を聞かせられることも懸念された。 それが正直、怖い。

「久しぶり、明日香ちゃん。グランドでは見かけないけど、こういう場所ではよく会うね」
 いたずらっぽく私に話しかけてくる坂本さん。年齢は二十代前半といったところ。玲と比べるとやっぱり子供っぽく見える。
「酷いなあ。グランドにあまり顔を出せないから、せめてこんな時でもと思って来てあげているのに」
「はは。それはどうも。わざわざ来てくれてありがとうね。それより今日はひとり?」
「いいえ。壱也も一緒ですよ」
「そうだろうとは思ったけどな。飲み会の時は必ず壱也が一緒だもんな。しかもあいつのガードが厳しいときた」
 坂本さんがケラケラと笑っていると壱也が両手にグラスを持って戻って来た。
「俺がどうかしました? 坂本さん」
「ほらね」
 坂本さんがおかしそうに言う。
「なんですか?」
「なんでもないよ。ビールもらうね。ありがとう」
 面倒くさいやり取りになりそうだったのでそう言ったけど──
「どうせ俺の悪口だろ」
「違うって。私が壱也といつも一緒だから仲がいいねっていう話」
「だって明日香ひとりじゃ浮いちゃってこういう飲み会、来られないだろ?」
「……はいはい、そうですね」
 ──結局、私が馬鹿にされた。

 だけどあながちその通りではあるので反論できない自分が悲しい。こういう雰囲気はどちらかというと苦手だ。自分のペースをなかなか崩せなくて周囲のテンションにうまく合わせられない時がある。例え見知った顔ぶれでも、うまく溶け込めない面倒な性格。
 だから、不躾でも壱也という存在がいつも周囲と私の潤滑油となる。親しい度合いが深いせいか、キツイ冗談で突っ込まれることも度々あるけど、だけどそれは壱也だからこそ、許せるのだ。

「玲さんはまだ仕事終わらないんですか?」
 気を取り直して私たち三人は小さく乾杯をすると壱也がそわそわと辺りを見まわした。
「もうそろそろ来るんじゃないかな。出先からまっすぐ来ると言っていたから」
 壱也の問いに腕時計を見ながら坂本さんが返した。
 もうすぐ玲がくる……
 その何気ないふたりの会話は怖いと思う反面、誰よりも玲が来るのを心待ちにしている私を無駄に意識させる。会えば会ったで戸惑うのが分かっているのに、でもやっぱり逢いたい。
 そして──
「そう言えば、玲さんてまだ結婚しないんですか?」
 私の不安が的中し壱也がとんでもない質問をした。
 きた、と思った。こういうのが怖かったんだ。私にはそんな会話を平気で聞き流せるほどの余裕なんて当然ない。
「そろそろらしいね。この間、うちの部長にその話題ふられてそんな返事していたから」
 そろそろ?
 坂本さんの口から私の想像以上の答えが返ってきた。
 嘘? そんなところまで話が進んでいるの? しかも玲自身が結婚をにおわせる発言をしているなんて。きっと、何かの間違いだよね? ただ部長さんに話を合わせただけだよね?
 溢れだす疑問。伝えることのできないそれを心の中で問うけれど返事なんてあるはずもなく……
「玲さんもいよいよかあ。でも玲さんみたいな仕事人間は早く家庭を持った方がいいのかもしれないですよね」
「そうだな。出張が多いし食事とか洗濯とかの面倒をみてくれる人がいた方がいいんだろうな」
「そうですよね。健康管理とかどうしてんだろうって俺も心配だったんで。やっぱ健康第一ですから」
 目の前のふたりは私の動揺なんてお構いなしに笑顔で会話をしていた。
 玲とあの人の結婚はもうすぐ……
 もしそれが本当なら、私はいったいなんなのだろう。

「どうした?」
 やばい……動揺を隠し切れない私に壱也が気づいてしまった。
「べ、別に」
「あ、そっか。明日香は玲さんと一回しか会ったことないもんな。興味ねえか」
「そんなことないよ。ちょっと他のこと考えてただけだって。えっと、……ごめん。化粧室に行ってくるね」
 やっとの思いで席を立った。壱也に構われるのも困るし、これ以上ふたりの会話を聞いていられない。
「明日香ちゃん、化粧室の場所わかる? 向こうだよ。カウンターの先にある扉だから」
 坂本さんに言われて助かったと思った。これで迷わずに行ける。私はバッグを持って急いで店の奥に向かった。
 化粧室に向かいながら、頭の中がぐるぐるしていた。私の知らないところで、なにが起こっているのだろう。
 ──ポロリッ
 小走りに歩くも、みるみるうちに溢れてくる涙は化粧室まではもたず、既に片方の頬を伝いはじめていた。
 でもダメ。ここで涙を拭ったら誰かに泣いていることが気づかれてしまう。
 とにかく急いで化粧室に駆け込んだ。そして化粧室のドアを開け勢いよく個室に入る。
 瞬間。もう片方からも涙が溢れてきて、私はその場に泣き崩れた。

 玲とつき合って半年。だけど世間から見たら私はただの浮気相手だ。一方、玲は社会人。仕事ができて出世コースまっしぐらな人。当然、会社の上役の人からも注目されている。
 そういった会社の人たちから結婚、結婚と追い立てられているのは、玲と喧嘩をした時の話から薄々は分かっていた。
 『世間体』という言葉が重くのしかかる立場。玲の心を手に入れたのに、それだけじゃ駄目なんだ。会社や常識をひっくるめ、さらに強固になった『世間体』という壁が想像以上に頑固に立ちはだかる。
 私の存在を簡単に無にできるくらい、それはきっと巨大なもの……

 最近気づいた。これが現実だということを。
 だけど二十歳そこそこの私は、それを受け入れるキャパなんて持ち合わせていなくてただ涙を流すしかなかった。
 拭っても拭ってもどうしても止まらない涙。もう、どれだけ流れ出ただろう。
 辛いよ、玲。私はどれだけ我慢すればいいのかな。それとも、もう価値のない存在になっちゃった?
            


 

 
 
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