2.ずっと抱いていて(005)

 

 ようやく涙がおさまった頃。
 だけど化粧室に駆け込んでもうだいぶ時間が経つ。
 そろそろ戻らないと。壱也の奴、きっと心配しているだろなあ。さすがにまずいと思いなんとか頭の中を切り替えようとした。
 大丈夫、さっきのはきっとなにかの間違い、きっと回避できるはずだとその場限りの自分への慰めをほどこす。とにかく“今”を乗り越えることが先決と、なんとか自分を落ちつかせ、涙でどろどろに崩れたメイクを念入りに直し覚悟を決めて……

 ──ギィッ
 重い化粧室の扉を開けた。
 圧倒的に男性の数が多いからだろう。そこは相変わらず熱気に包まれていた。女性は見渡す限り十人にも満たない。
 こういった飲み会は毎回参加者はただ単にアルコールとおしゃべりだけを楽しむためだけに集まっており、学生とは明らかに違う大人の男のノリは迫力があり過ぎる。溜め込んでいたストレスを発散させるような会話や声のトーンは何度参加しても慣れない。壱也がいるからこそ参加できるのである。
 そこは、弱り切った私の心情とは正反対の異様な世界に思えた。
 そんな店内をゆっくりと見渡しながら自分の席に戻ろうとしていると。
「……あっ」
 フロアの中心にスーツ姿の玲を見つけた。他のグループの席でなにやらすごく盛り上がっていた。
 楽しそうだなあ。あんな顔するんだ。はしゃいだ玲を初めて見た。
 ふたりきりの時の玲しかほとんど知らない私にとって大勢の中で酔ってふざけあっている玲の笑顔が眩しすぎる。私にはあの中に入る資格はない。ただそっと見つめていることしか、できないんだよね。
 実際、玲には本命の彼女がいるということはクラブの人の中でも周知のことだった。引き戻される現実。どうあがいたって今の私はただの浮気相手。例え愛し合っていても世間では認められないんだ。
 私の胸の中に広がる黒い影。それは、今もどんどん大きくなっていく。

 席に戻ると案の定、壱也が心配そうに覗き込んできた。
「遅かったな。具合でも悪い?」
「ううん。化粧を直していただけ」
 店内が薄暗い照明だったのが幸いだった。これぐらいの暗さだったら目が赤いことも気づかれにくい。
「さあ飲もう!」
 私はグラスを手に取り、半ば開き直るようにビールを思いっきり飲んだ。
 忘れたい一心で。今だけでいいの。今だけ気を紛らわせてくれるだけでいい。あとでいっぱい苦しむから。
「女のくせにそんな飲み方するなよ」
 壱也が呆れたように言っていたけど、私は構わず全部飲み干した。
 だって飲まずにはいられない。一気に下がったテンションはアルコールの力を借りなければ元には戻らないから。
「いい飲みっぷりだね。明日香ちゃん」
 クラブのコーチでもあり、この忘年会の幹事でもある東海林(しょうじ)さんがピッチャーを持って私の隣に座った。すかさず空いたグラスにビールが注がれ、私はそれをまた三分の一ほど飲んだ。
「さすが! 明日香ちゃんは豪快だ」
「東海林さん、あまり調子に乗らせないで下さい。明日香が酔っ払ったら介抱するの俺なんですから」
 残りのビールを飲み干す横で壱也が迷惑そうに言った。
 その言葉に私の眉がピクッと反応。いつもだったら聞き流す程度のものなのに、どうしてか今はそれができない。私は目を細めて壱也を睨みつけていた。
「なにそれ? そんなに壱也は私を介抱するのが嫌なの?」
「そうだぞ、壱也。明日香ちゃんを介抱するのが嫌なら俺に任せろ。だから、ほら、明日香ちゃんは安心して飲んでよ」
 うれしいことに前の席に座っていた坂本さんが私の味方をしてくれた。
 こうなったらとことん飲んで、全部忘れてやる。
 東海林さんと坂本さんのお陰でテンションが回復した私は、その後もさらに飲み続けた。
 遠くに玲の姿を感じながら浴びるように飲む。……きついな。それはたまらなく堪えた。

 そして忘年会もいよいよ佳境。既に三時間以上が過ぎていた。貸し切りの店内でみんなが酔い潰れていた。
 その中のひとりが私。酔っ払った私は自分の身体も支えられないほど。そんな私は壱也の気配りで壁際のシート席に移され、そこで介抱されていた。
「ほら見ろ。だから言っただろ」
「なによ……介抱するの、嫌がってた──」
 だけどそれ以上、声が続かなくて壱也の肩に寄りかかりながらうとうととし始めていた。
 でもこんなところで眠ってはダメ。重たくなる瞼と格闘。かろうじて残っている意識がまだ失うものかと必死に葛藤していると……
「壱也、久しぶり」
 よく知っている声が聞こえてきた。
 それは大好きな声。
 だけど一度おりた瞼は自分の意思に反して再び開けることがどうしてもできない。いつも聞いている馴染みある声に安心してしまったのか、だんだんと意識が遠のいていく。
 それでもその声を必死に聞き逃すまいと頑張っていて──
「お久しぶりです」
「明日香ちゃん、酔っ払ってるのか?」
「明日香にしては珍しいです。こんなになるほど飲むなんて」
「大丈夫なのか? 俺、今日は車で来ているからあとで代行呼んで彼女を送ってやるよ」
 ──最後にこんな会話が交わされていたと思う。壱也の肩にもたれながら、私は確かに夢の中で玲の声を聞いていた。


 気がつくと車の中だった。
 私は後部座席に座らされて、肩を抱き支えられていた。
 運転席を見るとおそらく運転代行の人だろう。見知らぬ人がハンドルを握っている。
「玲?」
「やっと起きたか」
「ごめん、私、寝ちゃったんだ」
 慌てて身体を起こした。
「ずっと見てたけど飲みすぎだぞ」
 機嫌の悪い声がそれまで覚醒しきれていなかった私の眠気を吹き飛ばした。
「ずっと?」
 見ていたの?
「さんざん飲んだ挙句、他の男に介抱されてんじゃねえよ」
 乱暴な言葉にきつい口調。普段見ることのない玲の嫉妬した姿を目の当たりにし言葉が出ない。
「なんなんだよ、あれは?」
 嫉妬するのはいつも私の方だったから、不思議な感覚だった。
「……ごめん。つい飲み過ぎちゃって」
「俺がいなかったらあのままどうするつもりだったんだよ?」
「だからごめん……」
 謝っても玲の機嫌は直らない。ピリピリとした玲の態度は変わらぬまま、車内は異様な空気に包まれていた。
 車はやがて私のマンションの駐車場に入る。そこは玲が私の部屋に泊まりに来るために借りている駐車場。スムーズに駐車スペースに車をとめると、気まずい雰囲気のまま支払いを済ませ代行の人は帰って行った。
「玲?」
 どうしていいのか分からずにその名を呼ぶと
「行くぞ」
 と言われ車を降ろされる。そのまま玲に手を引かれ、私たちは冷たい駐車場から部屋を目指した。

 鍵を開けながら考える。こんな時間だし今日は泊まるんだよね? 代行の人も帰ってしまったし。
「シャワー浴びる?」
 仕事帰りにそのまま忘年会に合流した玲はスーツ姿。部屋に入る早々、ネクタイを緩めているのを見て声をかけてみた。
「ああ」
 素っ気ない玲に不安を抱きつつ、返ってきた答えに今夜も一緒に過ごせるのだと安心感も得ていた。
 先にシャワーを浴びた玲がバスルームから出てきても私たちの間にあるのは変わらずに殺伐とした雰囲気。
 ずっとこんな調子なのかな。
 玲の無言の様子に気が重くなるけど入れ違いに私もシャワーを浴びた。少し熱めのお湯が残りの酔いを薄めていく。だけど酔いと入れ替わるように侵入してくるのは玲の結婚話という現実。
 玲は、どんな言い訳をするんだろう。それともあっさりと結婚を認めてしまうんだろうか。立ちこめる蒸気の中、深く考え込んでしまう。
 だけど流れ落ちるお湯に混じって涙がこぼれた時……やめよう、ここで考えてもどうしようもないと思い直す。とにかく今は渦巻く不安を拭い去りたくて、ひたすら熱いお湯を浴び続けた。
 だけど当然それは消えることなく辛さも変わりない。シャワーを終え部屋に戻ると玲が煙草を片手にビールを飲んでいる姿を見て、余計に気が滅入ってしまった。

 ベッドの側面を背もたれに床に座り、テレビもついていない静まりかえった部屋の中で視線は特に定まっていない。どんよりとした闇を抱えたような静かな佇まいはいつもと違う姿だった。
「どうしたの? テレビぐらいつければいいのに」
 濡れた髪をタオルドライしながら私はリモコンに手を伸ばしスイッチを入れる。だけどチャンネルを順番に変えても画面にはちっとも面白くない釣り番組や通販の番組。
「どれもつまんねえよ」
 煙草を灰皿に押し付けながら玲が言った。
「そうだね」
 私は仕方なくテレビのスイッチをOFFにする。
「壱也……」
 突然、ぼそっと玲が口にした。
「なに?」
 問いかけでもなく呟かれた声の意味が分からず訊き返す。
 すると缶ビールを乱暴にテーブルに置く音が鳴り響いた。
「壱也はお前が好きなんじゃねえの?」
 さらに続く吐き捨てる言い方に硬直してしまう。
            


 

 
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