2.ずっと抱いていて(006)

 

「急にどうしたの?」
 今まで壱也のことを玲がそんなふうに言ったことがなかった。壱也のことはサッカークラブのメンバーの中でも一番にかわいがっているほどで、だから玲の言葉が信じられなかった。
「言葉の通りだよ。壱也の好きな女はお前だよ」
「まさか。壱也はしょっちゅう合コンしているし、つい最近までカノジョもいたよ」
 壱也が私を好きだなんてそんなことあるはずない。だいたい壱也とはそんな雰囲気にもなったこともないんだよ。
「壱也ならお前を口説くくらいするだろ?」
「ないない! 飲みには誘われるけどそれ以上の関係じゃないよ」
「誘われる?」
 玲が眉をひそめた。
 今の、まずかったかな。でも飲みに行くのは玲とつき合う前からのことだったし、私たちの関係は玲だって最初から分かっていたんだけどな。
「壱也が私を誘うのは、カレシもいない暇な奴だって思われているからだよ」
 玲とのことは人に言えない関係だから私はいつも表向きにはカレシがいないことになっている。下手に“いる”と言ってしまうといろいろ詮索されて面倒だから。
「そうか」
 玲は静かに答えた。
 思ったよりも短い言葉に物足りなさを感じる。もっとなにか言って欲しい。思うことがあるでしょ? できれば私を安心させてくれる言葉が欲しかった。
 例えば『お前は俺の女だろ』って。

 一度生まれた疑念は時間とともに膨らんでいく。かわそうとしても玲の態度がどんどん私を追い込んでいく。
 ──溺れる
 なんてよく言うけれど。今の私はもがき苦しみ、背負っているものが重すぎて這い上がれず酸素不足でひどい形相になっていると思う。心だけでなく生身の体も醜くて自分の顔を鏡で見ることも嫌になる時がある。
 ここは、恋愛を綺麗なものと位置づけている、位置づけられる人たちには絶対に分からない世界。酸いも甘いもすべて吸いつくして時に女はおかしくなる──

「結婚するって本当?」
「……」
 発作的に訊いてしまったが返事はなくて、ここまで予想通りだともはや笑うしかない。
「やっぱり、そうなのかな?」
 へらへらとなにが可笑しいのか自分でも分からずにいた。なんでもいいから言って欲しかったな。無言──つまりそれは、肯定の意味なんでしょう?
「本当なの? 嘘だよね?」
 お願い。否定してよ。違うんだよって、お願い、そう言って。
「俺も辛いんだよ」
 だけど私の願いむなしく残酷な言葉しか返ってこなかったんだ。
 玲が辛いと言って諦めてしまっては、なにも進展しないのに。私がどれだけ頑張っても、無理なんだよ。玲がちゃんとしてくれないと私にはどうすることもできないんだから。
「酷いよ! 玲! 信じていたのに!」
 玲の身体を幾度も揺さぶる。
「仕方ないんだよ! 相手の親にも結婚しろってせがまれてるし、会社の人間からも結婚はまだなのかって何回も訊かれて俺だって八方塞がりなんだ!」
 興奮した玲が逆に私の腕をきつく掴んで強い口調で言った。いつも私をなだめてくれるはずの玲が自分の感情を露わにして私を追い立てる。
 玲…… それを私に言うの?
 深夜の部屋にふたりの感情がぶつかり合った。狭いワンルームのこのマンションは防音なんていう都合のいい設備はなんてものはない。きっと隣や上下階の住人には騒音となって鳴り響いているに違いない。
 もっともっと感情を露わにしたいのに私に襲いかかるのはいわゆる世間体。
「だから結婚するの?」
 私はトーンを落とし玲に訊いた。抑えていた涙が頬を伝う。
 玲も静かに返した。
「だと思う」
「そうなんだ……」
「悪いと思ってる」
「それって、別れるっていう意味?」
「……」
 なんなんだろう、この展開。今日が突然、別れの日になってしまうなんて。

「やだよ! 別れるなんて嫌。絶対に認めない!」
 高ぶる感情に声を張り上げてしまった。はっとして口をつぐむ自分が情けなくて再び涙が滲む。
 なんで、どうして……いつも私ばかり我慢しなきゃならないの?
 誰にもぶつけられない悔しさを涙とともに飲み込んだ。涙声が漏れないように口元を手で押さえてなんとか自分を制御しようと努力する。
「明日香……」
 だけど呼ばれた声にもはや返事ができなかった。動けない私を玲は引き寄せた。自分の胸に抱き仕舞い込む。
「俺も別れたくねえよ」
 厚い胸の中で聞こえてきたのは絞り出すような声。鼓動とともに聞こえてきた声を聞いて、これなんだと思った。私はきっとその言葉が欲しかったんだ。
 おかしくなり始めた私の心。それは常識とかモラルなんてものを考える余裕もなく自分の感情のまま突っ走ってしまうことしかできない。
「なら、この関係、続けようよ」
 愚かだと、思うなら思えばいい。非難するなら、すればいい。この気持ちを他人が理解することは絶対にできない。私はこういう人間なのだ。

 だけど、この涙の意味はなんなのかな?
 止まらない涙は、全身の力を少しずつ奪っていく。この涙が枯れた時、その時に答えが分かるのかもしれない。

 その日の夜は抱き合って眠った。なにも頼るものがない私は、結局自分の身の置き場を問題の場所に委ねてしまう。広げられた腕の中に図々しく居場所を確保しながら目の前の現実に目隠しをして、待っていればきっと解決すると信じることで精一杯。泣き疲れた私をきつく抱いてくれるこの温もりだけが私の支え。
 だからずっと抱いていてよ。ひとりにさせないで。私の中の悪魔の分身が横柄な呪文を唱えた。

 次の日の朝、玲はいつものように仕事へと出かけた。今日ぐらいふたりでベッドの中で過ごしたいと思っても無情にも現実がそれを引き裂く。それから何日も会えない日が続いた。
 やっぱりな。カレンダーを見ながら会えなかった日をカウントしていく。もちろん仕事が忙しいんだろうけど。でもそれだけが理由ではないんだよね? 玲は寂しくないのかな?
 12月の慌しさの中、確実に時間だけが過ぎ次第に私の心を蝕んでいった。

 だけどクリスマスイブの日。玲はケーキを持って私に会いに来てくれた。
「どうしたの?」
「クリスマスだろ」
「そうだったね」
 まさか会えるとは思っていなかったので、涙が出た。ぶっきらぼうな玲はプレゼントなんて用意はしてくれないけど、私のために時間を作ってくれただけで満足だった。
 だけどその日、玲は私のマンションに泊まることはなかった。
「仕事が残っているんだ」
 そう言って部屋をあとにした。
「いってらっしゃい」
 私は素直に玲を見送った。もしかすると彼女に会いに行ったのかもしれない。だけど今夜は喧嘩はしたくないんだ。だから、私はそれらを全部心にしまった。

 その後、玲と連絡がついたのは玲の仕事始めの1月4日だった。苦しかったけど10日ぶりの玲からの連絡にほっとする。
 だけど、いろんな思いが交錯する中、自分だけのものにならない苛立ちと、出張の多い玲とのすれ違いによる寂しさはだんだんと大きくなるばかり。
「次はいつ会える?」
「連絡する」
 そんな繰り返しがずっと続いた。
 そして、月に数える程度しか会えない関係がその後、数ヶ月も続く。それでも駆け抜けていった時間は案外単調で、だから思ったほどの長さには感じなかった。
 脳内がすっかり麻痺してしまい、逆にこの生活が変わることが怖いくらいだったのだ──
            


 

 
 
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