3.流した涙の行方(007)

 

 【4月】Asuka[大学3年]


 あれから季節は巡り、春になった。私は大学三年。桜もすっかり散り、気が緩んでしまうほどの陽気。
 そんなある日。大学のキャンパスでニコニコしながら壱也が近づいてきた。
「俺さ、カノジョができたんだよね」
「いつから?」
「二週間前」
「そういえばイベントしてたね」
「そういうこと。で、今、ラブラブ中です」
「どうせ、すぐ別れるくせに」
「そうかもな」
 相変わらずの壱也。今度のカノジョとはどれくらい続くのだろう。壱也には悪いけど、最初からふたりは短期間で別れると私の思考はパターン化されているからね。
「壱也は寂しがり屋だよね」
「なんで?」
「誰かがいつもそばにいないと不安なんでしょ?」
「分かる? そうなんだよね。最近、自分でも気づいた」
 今の私には壱也がうらやましく映る。ひとりに縛られず自由に恋愛をしている壱也を見習いたいくらい。
 私もそんな自由で気楽な恋愛をしてみたい。
「お、メールだ」
 早速、カノジョからのメールに満面の笑み。
「楽しそうだね」
「まあな」
「どんな子なの?」
「キャバ嬢」
「え?」
「すげえ、かわいいんだよ」
 キャバ嬢とは、思い切った切り口だ。今度はそこいくか。ちなみに前のカノジョは準ミスだったか補欠だったか。と言ってもどこかの地元のお祭りのイメージガールのだけど。
「今度こそ、うまくいくといいね」
「明日香も頑張れよ」
 ラブラブの今の壱也はある意味無敵。人の励ましを上から目線で返すなんてほんと、失礼極まりない。
 そしてそのラブラブのカノジョへのメール返信を終えた壱也は携帯をパンツのポケットにしまうと思い出したようにこちらを見た。
「そうだ。この間、坂本さんに聞いたんだけど。玲さん、6月に結婚するんだってさ」

 ……え?
 何気に言われたセリフに我が耳を疑う。あまりにも唐突だったので、一瞬、なんのことだか分からなかった。

「どうした?」
「あ、ううん……で、行くの?」
「いや。俺は結婚式に招待されていないから。けど、二次会は来いよって坂本さんに言われた。明日香も行くだろ?」
「私は……」
 都合が合えば、と言うしかなかった。二ヶ月も先の予定を訊ねられて、予定があると言い訳はできない。
「玲さんも年貢を納めようと覚悟を決めたんだな」
「……」
「明日香?」
「……うん」
「どうしたんだよ? なんか変だけど」
「ごめん。ちょっと考えごとしてた。玲さんに会ったら、おめでとうって言っておいて」

 用事があると嘘をついてそのあとの講義をサボった私は壱也と別れ、ひとりマンションに向かって歩いていた。
 とうとう、その日が来たんだ。始まったカウントダウン。あえて考えることを避けてきた現実が私の心を浸食する。
 いっそのこと、このまま消えてしまいたい。この現実から逃れたくて夢であってほしいと心から願った。
 だけど考えれば考えるほど痛みとしてはね返ってきて、固く結んだ自分の手のひらに爪が食い込み現実だと思い知らされる。
──そして、そんなふうに思い知らされた現実のはずなのに
 どうして自分は生まれてきたのだろう、こんな思いをするんなら生まれてくるんじゃなかった……
 ひたすら考えるのはそのことで、まったくもって論点がずれていた私は、この時はまだ現実として受け止めきれていなかったのかもしれない。

 それからのことはあまり覚えていない。まわりの景色も記憶に残らないまま、でもいつもの道をちゃんと辿って帰ってきたらしい。
 部屋に入ると私は着替えもせず、化粧も落とさずそのままベッドに潜り込み眠りについた。
 思考を止めたかった。全て忘れたかった。明日、生きてくことも怖かったのだ。


 それでも朝は来る。
 枕には涙の染みがついていて、どうやら泣きながら寝ていたらしい。目じりにも水滴が溜まっていた。
 生きていることに愕然として迎えた朝はまだ太陽がまだ昇りきっていない朝の5時。はっきりしない頭を抱えシャワーを浴びようとバスルームへ向かう。そして、酷い顔、鏡を見てそう思った。
 夕べ、あのまま寝てしまったツケが結局自分に戻ってきたというまったく笑えないオチだ。クレンジングで化粧を落としそのままシャワーを浴びながら昨日のことが頭の中でリフレインされる。

『玲さん、6月に結婚するんだってさ』

 やっぱり現実だったんだな。リアルにすべてが思い出された。
 昨日、起こったことがすべて洗い流されればいいのに。排水溝に消えていく水の流れを見ながら形も感情ない物体すらうらやましく感じられた。
 今度生まれ変わるなら、そんな存在がいい──


 ◇◆◇


 玲の結婚の日取りを知ってから二週間近くたった4月の下旬。
「カラオケでもどう?」
 いつものように誘われた。
 私を誘ってくれたのは壱也──ではなく岸谷くん。彼はよく飲み会などの幹事を任せられるような人懐っこい性格だ。
「今日は──」
 そう言いかけたら「最近、元気ないだろ。たまには騒いで発散しろって」と慰められてしまった。
 そんなに態度に出ていたのかな。

 あれから追われるように、びくびくと過ごす毎日だった。
 覚悟はしていたことだけど
 ──いつ別れを告げられるのだろう
 そればかり考えていた。
 だけど、今はまだその覚悟ができなくて、もう少しと思う自分がいた。

 カラオケと言ってもその日の集まりはこじんまりとしたもの。いつものメンバーが男女数人集まった内輪だけのカラオケ。カラオケなんて普段は行かない。でもこの日はたまにはいいかなと思った。
 この頃の私は玲に会えない寂しさにどうにかなりそうだった限界な時期で……そんな時に壱也から聞かされた玲の結婚話。諦めなのか、気晴らしという手段が欲しかったのだ。私だって普通の大学生。今の時間を楽しまないと。
「片瀬もいい加減、男作れよ」
「いい人がいればいいんだけどね」
「てっきり壱也とくっつくかと思ってたんだけどな」
「最近、カノジョ、できたしね」
「それでいいのかよ?」
「いいもなにも。壱也と私は男と女じゃないから」
「お前らって信じらんねえよ」
 岸谷くんが呆れている。
 最近気づいたんだけど、どうも壱也と私のことが大学内で噂になっていたらしい。
 どうりで。壱也にカノジョができた途端、みんなが同情の目で私を見るわけだ。 壱也は玲の次に近い存在だと思う。
 だけど、違うんだよね。今の距離感を縮めることはどうしてもできない。
 なぜだろう?限りなく特別な存在のような気がするのに恋は芽生えない。
            


 

 
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