3.流した涙の行方(008)

 

 その日、私は見事に潰れた。カラオケを一曲も歌わずに、ひたすら飲んでいたせいだ。
 そんな私を見かねた岸谷くんが家まで送ってくれた。時々よろめく身体をその度支えられていた。
「ごめん」
「別に気にすんなよ。それより大丈夫か? かなりペース早かったから」
「なんとか。結構、あのお酒、濃かったみたい」
 カクテルは馬鹿にできない。甘いからつい飲み過ぎて、今、すごく気分が悪い。いつもはここまで気持ち悪くはならないんだけど。
 マンションの前に着くと部屋まで送ると言ってくれてエレベーターに乗せられる。
「ほんと、ごめんね」
「何度も謝んなよ。なにかあったんだろ? じゃなかったら片瀬があんな飲み方しないもんな」
 的確過ぎてなにも言えない。なにかあったから、敢えて加減をしなかったのだから。私だってたまにはすべてを忘れて全部放り投げたくなるんだ。なにかをぶつける矛先がアルコールというだけ、まだマシじゃないかと思う。
「相手は壱也じゃないんだよな?」
「まだ、それを言う?」
「なら、誰なんだよ? 片瀬が好きな男って」
「別にそんな人いないよ」
 きっぱりと言った。
 すると意外だという顔をして、それから背中に感じたのは岸谷くんの掌。背中を滑るように動いている。
 ちょっと、なにこの手……と思っていたら上昇中だったエレベーターが降りる階に到着し扉が開いた。だけど背中にまわされた手は離れることなく腰に移動して、予想外の強い引き寄せにそこから抜け出せずにいる。
 そして、エレベーターを降りることができないまま、扉が静かに閉じた。

「岸谷くん?」
「好きな男がいないなら、俺でもいいだろ?」
「急にどうしたの? もしかして酔ってる?」
 刺激しないように、そう言ってみる。どこでどうスイッチが入っちゃったんだろう。
 エレベーターの密室の中で困っていると、徐々に狭まってくる距離に危機感を覚え……
 案の定、密室で男女がこんな状態であればその先の行動はほぼひとつで、寄せられる唇に身体がじゃっかん強張った。
「待って。ストップ」
「片瀬だって分かるだろ? ここまできて男が我慢できないことぐらい」
「そんなの知らない」
「相手が壱也だと思ってたから、遠慮してたけど。そうじゃないなら俺がもらう」
 岸谷くんの腕の中でもがいて暴れる私。だけどその度に壁に追いやられ逃げ場を失った。太腿の間に岸谷くんの身体が無理矢理入り込み、前にも後ろにも、そして左右にも動けなかった。
 さすがに身の危険を覚えた。
 『もらう』ってなに? 無理矢理にすることなの?
「──やめて!」
 叫び声が箱の中で響いた。
 その声に苛立った岸谷くんがさらに強引に顔を近づけてくるので、咄嗟に肩を竦めて身を守ろうとした。
「なにもそこまで抵抗することないだろ? 片瀬だって俺に誘われてまんざらでもなかったくせに」
「そんなこと──」
 あるわけないじゃない! と、心の中で叫んだその刹那。
 ──え!?

 すっと。止まったままだったエレベーターの扉が急に開いた。
 そんな……こんな場面を誰かに見られたなんて。
 岸谷くんに密着されながら恐る恐るその先を見た。
 だけど……どうして……?
「なにしてる?」
 怒りを含ませた低い声にどうしようもない気持ちになる。その声の主は玲。冷たさをまとった彼がそこに立っていて、こちらを見ていたのだ。
「すみません、今、降りるんで」
 岸谷くんが私の腕を引っ張った。
「そうじゃない」
「はい?」
「こいつになにしてた?」
「なんなんですか?」
 不穏な空気が流れる。
 声や瞳の表情で、玲は別人になる。こんな玲を見ることは私ですら滅多にない。
「嫌がる女を無理矢理言うこときかせるような行為を恥ずかしいと思わないのか」
「同意の上ですよ。誰だか知らないけど、俺たちに構わないでくれます?」
 緊迫したふたりの声が嫌な展開を感じさせた。このままだと、おさまりがつかなくなりそうで……
「やめて、玲。なにもされていないから。私は大丈夫」
 すると岸谷くんが不思議そうに訊ねた。
「片瀬の知り合い?」
「そうなの。ごめんね、岸谷くん」
「そういうことか……」
 岸谷くんの冷めた声。
 それを聞いて私はゆっくりとエレベーターから降りた。すると玲が一階のボタンを押したあと開いた状態で固定していた扉を離す。岸谷くんはそれ以上なにも言わないまま。彼ひとりを乗せたエレベーターは一階に下っていった。
 今の流れで岸谷くんはわかっちゃったよね。凄みを利かせて立っていた人が私の好きな人だということを。ついさっき、好きな人はいないと言っていた私をどう思ったかな。つまらない嘘をつく女だと呆れたかな。

「本当になにもされてないか?」
「うん。ありがとう」
 ふたりきりになった廊下で、てっきり見放されたと思っていた玲からの心配声。送ってもらうだけだったとしても、男の子とふたりきりでマンションに帰って来るのを見たら、誤解されても仕方のないシチュエーションだから怒っていると思っていた。
「声が聞こえたんだ。すぐに明日香の声だと分かった」
「ずっと部屋の前で待っていたの?」
「諦めて帰ろうかと思ったけど、待っていてよかったよ」
 駐車場で待っていることもできたのに、なんなんだろう、このタイミングの良さは。ひと通り事情を説明しながら奇跡のような偶然に玲との運命を強く感じてしまっていた。
            


 

 
 
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