3.流した涙の行方(009)
部屋に入り、思い出す。玲に会うのもしばらくぶりだったし、来るなんて思ってもみなかった。
「ごめん。今日は冷蔵庫になにもないの」
でも言ったあとに失敗したと思った。手ぶらの玲はきっと今日は泊まるつもりはないんだと気づいた。
「今日は戻るよ」
「……うん」
わざわざ時間を作ってくれたのかな。
それなのに今日に限って留守にするなんて。このタイミングは最悪。
「忙しそうだね」
「連泊していたから。九州と四国に」
「そっか。大変だね」
弾まない会話。ぎこちない空気が流れ続けるこの状況に、私は玲の目的を感じとった。
だけど知っていることとはいえ、本人の口から改めて聞くことは十分堪える。
それでも今の私にとっては、頑張って乗り越えないといけない壁だったから。避けることはやめようと思ったの。だって無駄だもん。事実がそこにあるのだから、足掻いたって泣き喚いたってそんなのは無駄だって……悲しいくらいに理解していたんだ。
「結婚、決まったんだってね」
「知ってたのか」
「壱也から聞いた。で、いつなの?」
「再来月の23日」
だけど神様はさらに悲しい現実を突きつける。どうしてこうも私を嫌うのか。よりによって23日だなんて……
嘘、でしょ? だって、その日は私の誕生日なんだよ。
あまりにも皮肉なことに唇を噛みしめる。きっと玲も分かっている。その日が私の誕生日だということを。
「そう……」
短い言葉だけで会話が止まった。
全部、夢だといいのにと心の中で願うけど。
「ごめんな」
そう言って私の肩を抱いてくれた玲に今はただ寄りかかることしかできない。
誕生日にひとりで耐えられるかな? 一番大切な人が他の誰かのものになる。その重圧は計り知れない。
玲が帰ったそのあと、ベッドの中で眠れない夜を過ごしていた。ひとりで眠るシングルベッドはやけに広く感じてしまう。
真っ暗な天井に玲の顔が浮かんだ。
玲、知ってた? 私ね、あれから泣いていないんだよ。あなたの結婚が決まったことを知ってから、涙が出なくなっちゃったの。
翌朝、来客を知らせるインターホンが聞こえた。
こんな朝早くに?
でもその来客が誰かなんていうのは分かっている。私は覗き穴からその姿を確認すると静かにドアを開けた。
「シャワー浴びてたのか?」
無防備なタオル一枚のままドアを開けた私を見て玲はびっくりしているようだった。
「そんな格好でドアを開けるな。俺じゃなかったらどうすんだよ」
玲だと分かっていたからドアを開けたんだよと言おうとしたけど、その前に玲は急いで部屋の中に入り私を抱き締めていた。
「別れたいなら、言ってくれ」
「自分で言えないから私に言わせたいの?」
私を抱く玲の身体が震えていた。
「俺の気持ちはそうじゃない。でも、明日香が辛いなら俺は引き留められない」
玲の弱い一面、そして正直な気持ちをぶつけられて心が揺れる。どちらに傾くんだろう、私の心は。
本当はその時が来たら終わりにしようと思っていた。すぐには諦められないけど、時間をかければ離れられるのではないかと思ったから、ずっとその日を引き延ばしてきた。
そしてようやく見えた結論。
「玲が6月に結婚することは二週間前に知ったの。その間、私、辛いなんて言った?」
「……いや」
「おかしいよね。それまでの私だったら狂ったように問いただしていたと思うの」
「明日香……」
「平気だよ。……私、きっと平気だと思う」
自分がどんなに傷つくかを考えたけど、今がよければそれでいい、そんな浅はかな考えしか浮かばなかった。
水が形を変えるように、私の心もうまく順応したのだろう。流した涙でできた心が私を変えてくれた。
◇◆◇
「じゃあ、仕事に行くな」
玲が服を着ながら言った。
裸の私は布団に包まったまま、玲を見上げる。するとベッドのマットレスが少しだけ傾いて玲の手が私の頭をやさしく撫でた。
「かわいいな」
頬で鳴るリップ音にすら胸が鷲掴みされる。
「行って来るよ」
あたたかい声だった。私はもっとその声が聞きたくて咄嗟に布団から顔を出して玲を見る。
「玲!」
「ん?」
振り返った顔が少し無邪気に見える。
それを見ていたら言えそうな気がして……言えるかな? 言ってもいいのかな?
──今度、いつ会える?
「どうした?」
でも、そう言った玲の顔があまりにも綺麗だったから。それを崩したくなくて言えず言葉を呑み込む。
「行ってらっしゃい」
ただそれだけ言った。それで精一杯だったから。一瞬だけ可能性のない未来を夢見て……そしてそれは儚く消えていった。