4.罪深き逢瀬(011)

 

 ◇◆◇


 初夏の風はもったいないすぎるほど穏やかで、このまま私の記憶を運び去ってくれないかと切に思う。
 今度は玲とあの人との披露宴の様子が私をどこまでも追いかけてきた。

「どうした? 元気ないけど。っていうか最近、明日香ずっとそんな調子だし」
 授業前の大講義室で隣に座っている壱也が顔を覗き込んできた。
「ちょっとバイトで疲れてるだけだよ」
 少し前から私はバイトを始めた。玲との時間を最優先するために一時期やめていたファミレスでのバイトを再開した。ひとりの時間がさらに増え、そんな時間を埋めたかったのだ。
「どれだけやってるんだよ」
「週四日、多い時は五日とか」
 どうせ玲と会えるのは週に一回あればいい方。会えない時はずっと会えない。だからそれくらいでちょうどいい。
「バイトのせいならいいんだけど。でも体に堪えるんならちょっとはバイトの時間、加減しろよ。勉強との両立も大変だろ?」
「……うん」
 壱也は頬杖をつきながら、相変わらず覗き込んでいる。なにかを感じたのか勘ぐられたのか。壱也は良く言えば本能のままに生きている人だから私みたいな嘘と誤魔化しの塊でできた人間の心を鋭いアンテナで察知してしまうような気がしてならない。
「でもなんか怪しいな?」
「怪しくないってば」
 ほらやっぱりそうだ。この男、ほんと侮れない。
「なんかあったなら言えよ。今までみたいに」
「分かった。その時はちゃんと言うから」
 それでもさっきから私をじっと見ているその視線。熱い視線が痛い。
 お願いだから見ないでよ、そう心の中で祈りながら、私は必死にその疑いの熱視線を無視して正面だけを見ていた。
 いつか壱也にすべてを話すときがくるのかな。もしそれを知ったら壱也はどう思うだろう。私から離れていくのかな。
 自分でも悪いことをしているという自覚はあるらしく、誰も味方がいないということに私は悲観していた。自分ですら自分を正当化できない。でもそれでも玲を失いたくない。玲を知ってしまった今、玲がいなくなったらきっと私は私じゃなくなる。

 講義室のドアから教授が入ってくるのが見え、ようやく壱也も前を向き直してくれた。
 教壇では教授がマイクを持ちながら授業を進めている。広い講義室には200人ほどが入れる。それが一杯に埋まり、真面目にノートを取っている人もいれば携帯をいじっている人もいて、隣の壱也もはじめのうちはノートをとっていたけど、そのうち携帯をいじりはじめた。
 誰かとメールでもしているのだろうと気にも留めずにいたら、その数秒後、私の鞄の中の携帯が振動した。私はこっそり鞄から携帯を取り出し机の下で隠しながら覗いてみる。
 え? なんで壱也?
 その相手はすぐ隣にいる壱也からだった。びっくりして隣を見るとニヤっと笑いながら私の携帯を顎でさす。
≪今日の夜、玲さんの新居に集まることになったんだ。それで坂本さんが結婚祝いをしようっていうんだけど、明日香も、どう?≫
 この間もそんな話をしていたけど、今も引きずっているなんて。
 玲の家に行くなんて考えただけでもぞっとする。それは玲だって同じ。
 お互いどんなふうに接すればいいのか分からないし、第一、あの人の顔をみる勇気は私にはない。
 私はバイトを理由に断りのメールを送った。すると壱也はそれを確認するとそのまま携帯を閉じ、再びノートを取りはじめた。
 少し不貞腐れているのかな? そのあとも返事のメールが届くことはなかった。
 そしてじりじりと痛み出す私の胸。また始まった。最近こんなことがよくある。動悸とともに生じる息苦しさ。すごく不快な気分だ。
 さらに、緊張で握っていたシャープペンに力が入り芯が折れる。指先も震えてくる。教授の言葉なんてまったく頭に入らなかった。

 そして気づけば授業が終わりの時間をむかえ多くの学生が帰り支度をしていた。
 もちろん教壇にいた教授なんて跡形もなく消えていて長い間、自分がトリップしていたのだと自覚する。
「明日香?」
「え? あ、ごめん」
「どうする飯?」
「もうお昼か。学食に行く?」
 食欲はないけど午後も授業があるし仕方がない。壱也の機嫌も直っていることだしと思い、二人で学食に向かった。
 壱也はカレーライスで私は売店の菓子パンにした。これくらいなら食べられそう。
「本当に行かねえの?」
 玲の新居。
「バイトが忙しいし、それに奥さんのこと知らないし」
「俺だって二回しか会ったことねえよ」
 そう言ってスプーンを握る壱也。
 玲の奥さんか……どんな人なんだろう。少しだけ知りたくなった。
「気が強そうな人だよ。昔、一緒に飲みに行ったんだけど玲さんが少しハメを外すと横目で睨んでた。あれじゃあ、玲さんも大変だよ」
 かわいい素敵な人だよと言われるんじゃないかと思っていたけど、そうじゃないんだ。よかった。そんなことを言われたら玲とつき合っていく自信がなくなっていたかもしれない。玲の愛情すら信じられなくなりそうだもの。
「プライドが高そうな感じだな」
「へえ。そうなんだ」
「玲さん、あんな感じの人がタイプなんだな」
 俺は苦手なタイプだと壱也が苦笑いしていた。
「俺は明日香の方がいいな」
 ──ドキンッ
 なぜか胸が鳴る。何気ない言葉だったのだろうけど、壱也が私を女扱いするなんて、たぶん、これが初めてだ。
 でも壱也にとってはきっとなんでもない言葉なんだよね。

「二択から選んでもらってもうれしくないよ」
 奥さんにも失礼な言い方だが妙な雰囲気を避けるために取りあえず、そう言って話を流してみた。
 ここで焦ると壱也に馬鹿にされるに決まっている。勘違いすんなよって。
「別に本当のことだよ。明日香は愛想がよくなればモテると思うけど? 昔はそうだっただろ」
 ますます分からなくなる返しだ。口説いているふうでもない。でもだからと言って……
「褒められている気がしないんだけど」
 まったく、いつもいつも。人の欠点をチクチク突くんだから。私にだってね、生きていくために必要な愛想くらいちゃんと持ち合わせているんだからね。
「褒めたつもりもないけど」
「……」
 あー! もう! むかつく!
 玲は私と壱也の関係を疑っていたけど、結局こういう会話になってしまう私たちに恋なんて芽生えるわけがないんだよ。
 ……そう。きっとこれからも。


 午後の授業を終えて、夕方、帰宅するとどっと疲れが押し寄せてきてなにもやる気が起きなかった。壱也が玲と約束しているのだから今日は玲とは一緒には過ごせない。当然そういうことになる。
 結婚祝いか。坂本さんに誘われたということは、他にも会社の人が招待されているのかな? だったらなおさら顔なんて出せないよ。
 いつの間にか玲には家族がいて社会的にも世間的にもみんなに認められる形を手にしている。なのに私ときたらなにもないんだなあと思った。
 バイトと言って嘘をついた私はひとりぼっちの部屋でそんなことを考えていた。
            


 

 
 
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