5.恋人じゃない男のやさしさ(012)

 

 【6月】Asuka[大学3年]


 6月に入り天気予報では梅雨前線という単語が毎日のように繰り返されていた。
 でも雨は嫌いではない。むしろ雨の音は私の心を落ち着かせてくれる。窓にあたる雨音はなんだか部屋中を包んでくれているように思え、見えないバリアで守られているように思えた。雨は爆発しそうな私の心をしっとりと宥(なだ)めてくれるのだ。

 今日も朝から雨が降り続いた。
 二日後に玲は披露宴を挙げる。その前にどうしても会いたくて今日は私から電話した。前日にしなかったのは私なりの気遣いのつもり。
 降りしきる雨の中、部屋のインターホンが鳴った。いつもと違う緊張が走る。もしかして今日で最後と言われるんじゃないか。今さらだけどこんな日に玲を呼んだことを後悔もしていた。

 部屋のドアを開けると手ぶらの玲が立っていた。
「あがって」
 いつも手にしているビールの入ったコンビニ袋はない。さすがに泊まらないか。まあ、分かってはいたけど。
 でも、この胸の痛みはどうすることもできない。苦しくて息をすることも辛くて油断すると足を掬われてしまいそうになる。不安の渦に陥って前みたいに泣いて喚いてしまいそうで怖かった。
 もちろん引き留めたところで玲はきっと私を振り切って帰っていくと思うけど。今までとは違うから。今では家であの人が待っているんだもん。
「まさか会ってくれるとは思ってなかった。ごめんね。こんな時に」
 部屋に入り腰を下ろす玲。この重苦しい雰囲気に玲も緊張しているのか、黙って煙草を一本取り出した。食事は家で食べるんだろうと今日はなにも用意していない。なにもないテーブルには灰皿だけは置いておいた。
 この部屋に染みついた煙草の匂いはもう隅々までいき届いていて玲と過ごした時間を感じる。なにか言わなくてはと言葉を探し、やっと見つかった言葉が『酷い雨だね』だった。すごい陳腐。
「今日の雨は酷いな」
 それでも玲がやさしく返してくれて少しほっとした。
「でも、雨はわりと好きなんだ」
 今の不安定な心を救ってくれるのは雨でしかない。お願いだから私をここに閉じ込めていてほしい。そうすれば誰も傷つけることはないだろうから。
「悪いけど今日はあんまりゆっくりできないんだ」
 冷たい言葉だけどそれを告げる玲の顔も声も悲しそうで私は黙って頷いた。
 そんなの、玲が今日ここに来たときから分かっていたよ。嫌になるくらい敏感に感じるようになった玲の気持ちが私に突き刺さっていた。
「分かってはいたけど、どうしても会いたかったの。次にいつ会えるのか知りたくて」
 なにか証が欲しかった。不安な気持ちを落ち着かせてくれるものが。それがあれば披露宴があるこの週末を乗り越えられるはず。
 その証が“次に会う約束”。できれば披露宴のすぐあとに。私にとって入籍よりも披露宴の方が耐えられなかった。多くの招待客に祝福を受けて幸せそうに微笑むあの人が許せなかった。誰にも認められずひっそりと生きていかなければならない自分が惨めで仕方がなかったのだ。

「式のあとは会えないの?」
「それは無理に決まってるだろ」
「じゃあ次の日は?」
「それは分からない」
「どうして分からないの? お願い。どうしても会いたいの」
「明日香……」
「いいじゃない。少しくらい私のために時間を割いてよ」
 必死に懇願した。いや詰め寄ったと言った方がいいのかもしれない。
「明日香、頼むから俺を責めるな。俺だって挙げたくて式を挙げるわけじゃないんだ。俺の意志とは関係なく勝手にあいつとあいつの両親に全部決められてどうしようもないんだよ」
「ダメなんだ……」
 『どうしようもない』と言われて諦めるしかなかった。その言葉には威力がある。境界線を張られたみたいに私と玲を引き裂く力があった。
 それに私が自分の意思をを示せば示すほど玲を苦しめる。そしていつかきっと玲は私を嫌いになるはず。私の前から忽然と消えてしまうような気がしてならなかった。
 玲は憔悴しきったかのように頭をうなだれていた。“大丈夫だ”と私を安心させてくれる玲はそこにはいない。

 感じる、ふたりの距離はどこまでも遠く……手を伸ばしても届かなくて私だけ、前に進めない。
 玲は気づいない。私が隣にいないことに。前しか見ていなくて後ろで立ちすくんでいる私のことを思い出すこともなく……
 ここで好きだよと叫んでも、無意味なんだと諦めるしかなかった。
 怯えながら未来を考えた。自分のいるこの場所に玲は戻って来てくれるのだろうかと。
 灰皿に置かれた煙草の灰が音もなく崩れていった。

「玲、私はどうしたらいい? このまま待っていてもいいのかな?」
 雨音だけが響く静まり返った部屋で私は最後の質問をした。だけどその問いに答えは返ってこない。それどころか、代わりに聞かされた言葉が私を奈落の底に突き落としたのだった。
「あいつ、妊娠してるんだ」


 ◇◆◇


 6月23日。
 今日は玲の結婚式の日であり、私の誕生日でもある。
 二日間降り続いた雨は昨日のうちに止み、キラキラと明るい日差しが差し込む気持ちのいい朝。私はベッドの中から出られずにいた。
 結婚式の二次会は断った。バイトも休みにしてもらった。身体を動かしていた方が気が紛れるのかもしれないとも思ったけれど、バイト仲間やお客様に笑顔で接するなんてきっと無理に決まっている。というより動くことすらできない。
 食べ物もここ二日間まったく口にしていない。たぶん今日もなにも食べずに過ごすだろう。自分を労わるという発想が一切なくなっていた。
 心身ともに弱り果てた私はここ二、三ヶ月月の間にかなり痩せたと思う。最近はいつもの胸の痛みに加え、風邪までひいて咳が止まらない。
 唯一の救いは眠れること。眠ってしまえばその間だけなにも考えなくてすむ。だから私はひたすら眠った。今日もそうやって考えないようにするつもり。私は再び、静かに目を閉じた。

 ──あいつ、妊娠してるんだ

 玲の口から飛び出した衝撃のセリフ。
 最初、自分の耳を疑って思わず訊き返してしまった。
『今さ、妊娠って言わなかった?』
『ごめん』
『妊娠……させたの? そういうこと、してたの?』
『……』
『なんで黙るの?』
『ごめん』
『なに、それ? それなのに、私と別れたくないと言ったの? そんなの、冗談だとしても笑えないよ』

 つまり、それがきっかけで結婚が決まったのだそうだ。あの時の私は半狂乱になり、どうしてと責め立てて怒りをぶつけていた。嫌われたくないというそれまでの玲に対する体裁はどうでもよくなっていて、ただ自分の感情をぶつけていた。
 こういうのを修羅場というのだろう。思い出すと随分醜くい私だったように思う。
 だけど、それが普通だよね? それが人を愛するもうひとつの形だよね? だって妊娠だなんて……そんな裏切り、酷過ぎるよ。
『申し訳ないと思ってる。そのことをどうしても明日香に言えなかった』
 だからって──

 どれだけ強くなればいいのだろう。次にどんな痛みを味わうのだろう。どれほど私は落ちぶれていくのだろう。
 この先に待ち受ける出来事に希望が見出せなくて思うのは悲観的なことばかり。
 だけどもう、それを責めてはいけない。こんなに苦しいんだよと、もう玲にすがれない。
『……言って欲しかったよ。二番目なら、最初からそう言って欲しかった』
『それは違う。お前だけだった。だけど仕方なかったんだ』
 すがったところでなにも変わらないのだから。


 ◇◆◇


 玲の結婚式の日から数日過ぎても玲からは連絡がなかった。
 私はあれから風邪をこじらせ大学を休み、バイトもずっと休んでいた。おさまらない咳に不安を覚えながら体温計で熱を計ると今日も37.8度の熱。ここ数日、ずっとこんな調子が続いていた。次第に声もかすれてきて、しゃべることすら辛い。
 この日もずっと寝込んでいて気づくと辺りはすっかり暗くなりもう夜なのだと気づいた。もうすぐ今日も終わるが玲からの連絡は一切なく心が重く沈む。愚かなことに、私はいまだに玲からの連絡を待っていた。
 カラカラに乾いた喉を潤そうと冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すも、やっぱりまだ熱があるらしくふらふらする。胸も苦しくて、呼吸もしにくい。それをやわらげようと咳払いをしようとした時、自分の異変に気づいた。
 苦しいのに咳すら出てこない。それどころかまったく声が出ない。言葉を発しようと声を出そうとしても空気だけが口から抜けていった。
 変だ。自分の身体がおかしい。
 急に心音がバクバクと音を立てはじめ、焦りと戸惑いでひとりパニックに陥る。こういう時、ひとり暮らしだとどうしていいのか分からない。
 玲……
 真っ先に浮かんだ。
 玲、怖いよ。声が出ないの。
 でも玲を頼るわけにはいかない。自分でなんとかしないと。とにかく病院に行かなきゃ。
 すると携帯がブルっと震え、咄嗟に玲からだと思い通話ボタンを押した。当然、声も出ず耳を澄ましていると戸惑ったような声が聞こえてきた。
『明日香?』

 電話の声は壱也だった。だけどそれに返す声が出てこない。
『もしもーし。聞こえてるのかよ?』
「は……す…へ……て……」
 ──助けて
 なんとか息を吐きながら声を絞り出すと壱也が驚いたように電話の向こうで叫んだ。
『明日香! 大丈夫か? 今すぐ行くから待ってろ!』
 いつも聞いている壱也の声が頭の中で響き渡る。
 どうしてこうもしっくりくるのかな? 今、会いたいのは玲のはずなのに壱也が助けに来てくれると分かってすごくほっとしている。
 待ってるから、お願い、早く、来て……
 私は携帯を握ったまま、電話口から今も微かに聞こえてくる壱也の声に安心して目を閉じた。
            


 

 
 
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