5.恋人じゃない男のやさしさ(013)

 

 次に目が覚めたのはインターホンの音のせい。遠くで鳴っている音がだんだんと大きくなり私は意識を取り戻した。起き上がって玄関に向かい鍵を開けると、ドアが強い力で引っ張ら、壱也の胸に飛び込む形になった。
「大丈夫か?」
 そのまま、切羽詰まったような声の壱也に抱きかかえられながら部屋の中まで運ばれる。
「すごい熱だぞ。病院は?」
 ベッドに座り、おでこに手を当てながら訊ねられ、私は黙って首を振った。
 その後、息が再び荒くなり、私は殴り書きの筆談で壱也に状況を説明する。
「分かったから。落ち着いて。ゆっくり呼吸しろ」
 壱也は私の声にならない声を聞いて慌ててどこかに電話をしてくれた。話の内容から夜間緊急外来の病院のようだった。
「はい、声が出なくて息も苦しそうなんです。熱も高いです──」
 そして電話を切ると総合病院へ連れて行くためにタクシーを呼んだ。
私は苦しくて息をたくさん吸い込んだ。だけど吸っても吸っても苦しさは変わらない。逆にもっと酷くなる一方で、どうやら軽い過呼吸を起こしたようだった。
「明日香、大丈夫か?」
 なんとか頷く。 
「慌てなくていいいから。心配しなくてもちゃんと楽になるから」

 タクシーを待つ間も壱也は私の手を握ってくれてパニックになった私を落ち着かせてくれる。
 そのおかげで次第に呼吸は落ち着いてきて病院に着く頃には自分ひとりで歩けるくらいにまでなった。
「危ないから。俺につかまってろよ」
「……うん」
 足元がおぼつかない私のために壱也は自分の腕を掴むように言った。さらにうまく喋れない私の代わりに夜間受付もすませてくれてスムーズに待合室に辿り着くことができた。
 そこでも私は壱也から離れることができず、というより壱也が離してくれず手を握られながら順番を待っていた。
 待合室には小学生くらいの子やお年寄りもいて、待っている間に体温を測り二十分程で診察室に呼ばれた。
「ここで待ってるから」
 この時点でもうすっかり私は壱也に頼りきっていた。ひとりで診察室に入るのも不安で仕方がなくてできればついてきて欲しいと思っていたほど。
 でも、呼びに来た若い看護師さんの手前、ついてきてとも言えず、ゆっくりと立ち上がる。
 その時に握られていた手も自然と離れた。

 壱也に見守られひとり診察室に入る。初めてかかる大きな総合病院に少し緊張していた。
「どうしました?」
「声が……でなく……なって」
 自分でも信じられないほどの濁った声。それでもだいぶ声も出せるようになって私としては安心していた。だけどお医者さんは私のかすれ切った声に驚いていた。
「だいぶ声が変わっていますね。熱もあるようですし」
 そう言って診察が始まった。


 ◇◆◇


「どうだった?」
 診察を終えて廊下に出ると壱也の心配そうな顔がすぐ目に入る。
「うがい薬を……出します……だって」
「は? それだけ?」
「……うん」
「なんだあ、よかった……たいしたことなくて。一時はどうなることかと思ったよ」
 すっかり拍子抜けさせてしまったが、それは私も同じ。喉もほとんど腫れておらず心音にも異常はなかった。
 もともと喉に痛みはなかったので、わかってはいたことだったけど、それにしてもあんなに苦しかったのはなんだったのだろう。それくらい今は回復していて、声は相変わらず酷いものだったけど、ほっとして自分で自分を笑ってしまった。
 長い間、咳き込んでいたせいで喉の奥の方で炎症が起きていたのかもしれない。詳しい検査をしたわけではないので分からないが、様子を見ようということになった。

 ◇◆◇

「すみません。その先のファミレスで止めて下さい」
 帰りに処方された薬をもらいタクシーで家に帰る途中、壱也が飯でも食っていくかと私の家の近くのファミレスでタクシーを止めた。そこからだと家まで十分とかからない距離なので歩いて帰るのに支障はない。
 だけど実はここ、私のバイト先でもあり、風邪でバイトを休んでいる手前かなり気まずい。
 よりによってどうしてここを選ぶかなと思いつつ、そういえばこの近所で深夜営業しているお店はこのファミレス以外なかったことを思い出した。
「誤解しないで下さい。こいつ、部屋でぶっ倒れていて、今、病院の帰りなんです。ちゃんと飯を食わせておかないと。また倒れでもしたら大変でしょ」
 お水を置きにきたバイト先の先輩に壱也がフォローを入れてくれた。バイトを休んで男の子と一緒に食事なんて図々しいにもほどがある。それを伝えたらまかせておけという流れでフォローをしてくれたのだが。でも結局、店長や他のみんなにからかわれすごく恥ずかしい思いをした。
「片瀬さん、お大事にね」
 バイト仲間にそう言われたけどファミレスにご飯を食べに来ている時点で心配なんてされるはずもなく。クスクスと笑われるだけだった。

「ずっと大学を休んでいるから念のため電話したらあの通りだもんな。すげえびっくりしたよ」
「感謝、してます」
「飯、ちゃんと食ってないだろ? ちゃんと食わないと薬も飲めないぞ」
 メニュー表を開く壱也に軽く睨まれた。そして私の好き嫌いを確認しながら勝手にオーダーの品が決められていく。オーダーを告げる際に慌てて止めても聞く耳を持ってくれず、やがてテーブルにはサラダや肉料理など数皿が並んでいた。
「こんなに……食べられない……」
「俺が食いたいんだよ。誰かさんのせいで夕飯まだなんだぞ」
「だとしても……多すぎ……だよ」
と言いながらも、ひとりだと食欲もなかった私の胃袋は今では食べたいと欲している。さらにタイミングよくお腹がグーっと鳴って、壱也に爆笑されて……
 その日、熱がまだ少しあるにも関わらずひとり分の食事を平らげることができた。何日ぶりかのまともな食事。うれしくて涙が出そうだった。こうして誰かと一緒にごはんが食べられることがこんなにうれしいことだったんだ。孤独だった私の心は壱也のおかげで少しだけあたたかくなった。


 玲から電話があったのは次の日のお昼。私が家で休んでいた時だった。
「はい」
『どうした? 声が変だぞ』
「風邪ひいちゃったの」
『ちゃんと病院には行ったのか?』
「うん。だからもう平気」
 心配かけたくなくてそう返したけどその夜、玲がマンションに来た。
 無造作にテーブルに置かれたコンビニの袋にはたくさんの食料と甘いデザートと飲み物。
「平気だって言ったでしょ」
「そんなわけないだろ。そんな酷い声して」
 そして私をベッドに座らせ、私のおでこに玲が自分のおでこをくっつけてきた。こんなこと……今さらながら照れる。
 掌じゃなくておでこで体温を確認する仕草はわざとなのかな? それとも玲が子供の頃にそうされていたのかな?
 訊きたいけど訊けない。訊いてしまったら、そこでそうだよと、子供のころからだよと言われたら……きっとそれは無意識のことで私以外にもそうしてきたのだから。例えば、あの人にも。そして生まれてくる子供にもすると思うから。だから私だけに見せてくれる玲の仕草だと思いたいの。
「まだ熱があるだろ。なにが平気だ」
 軽く怒られた。
 そしてテーブルの上に置いてあった病院の診察券に気づき、それを手にする。
「わざわざこんな遠くの総合病院に行ったのか?」
「うん、夜間の救急外来にかかったから」
「夜間の救急外来?」
「……うん。ちょっとこじらせちゃって」
「そんなに酷いのにどうして俺に言わないんだ?」
「……」
「夜中にどうやって病院に?」
 さっきから続く疑問形。それが私の病状を心配してなのかそれとも……
「壱也に連れて行ってもらったの」
 壱也という名前を聞いた途端、急に険しくなる玲の表情。前にも見たことのある表情だった。飲み会で酔っぱらった私を壱也が介抱してくれた時と同じ。
 やめてよ。壱也は悪くないのにそんな顔しないでよ。ずっと連絡ひとつくれなかったくせに。
「起きたら声が出なくてパニックになっちゃったの。それで過呼吸みたいになって……不安で……。壱也がいなかったらどこの病院に行っていいのかも分からなかったし自分でタクシーも呼べなかった」
 そして微妙な空気だけが流れた。でも逆にこれでよかったのかもしれない。玲の結婚式や子供の話題に触れることはなかったのだから。
「悪かった。そんなに大変だったなんて思わなかったから」
「いいの」
 壱也のことを分かってくれればそれでいいの。壱也はずっと私の手を握ってくれていた。それが私が一番求めていたこと。
 きっとこういうことがずっと続いていくのかな?会いたい時に会えないだけでなく、いざというときも頼れない。頼ってはいけない……
 玲の持ってきたコンビニ袋には今日もビールは入っていない。食べ物だってきっとひとり分。
「来てくれてありがとう。風邪がうつるといけないからもう帰った方がいいよ」
 私が本音を言ってしまう前にお願いだから帰って。私はまだ普通に振る舞えるほど大人でもないし余裕もない。
 綺麗に洗濯されたワイシャツを見ると、自分がどんどん醜い心になっていくの。
 悔しくて恨めしい……

「今日は明日香が寝るまでそばにいるから。寝顔を見るまで帰らないよ」
「じゃあ、このまま眠らなければ玲は帰らないの?」
 冗談で訊いてみた。
「俺は明日香に早く元気になって欲しいんだよ」
「私は一緒にいたいだけなの」
 駄々をこねてもきっとなにも変わらない。だけど今までの不満の行き先をどこにぶつけていいのか分からない私はついそんなことを言ってしまう。
「明日香……」
「……ごめん。冗談だよ。忘れて」
 私は玲から身体を離すとベッドの中に潜り込み頭から布団を被った。息苦しさを我慢して暗い空間に身を投じていると布団の上から重みが加わる。玲が覆いかぶさってきたのだ。
「ちゃんと時間を作るから」
「いつ?」
「それはまだ分からないけど、今度、どっか行こうな」
 “いつか”とか“今度”の話は逆に私を落ちこませるもの。“いつか”ではなく“確か”なものが欲しかった。先が見えなくて後戻りもできない今、それでもこのまま進まなくてはいけない。
 また胸に痛みを感じた。でもこの痛みは病気じゃないんだね。辛さを感じる度に本当の痛みとして襲ってくるらしい。声に出せない分、身体が悲鳴をあげている。
 このままで私は大丈夫なのだろうか。自分を労わる──できるのかな? 私、普通に戻れるかな? だけど普通ってなんだろう? 私が求めている普通とは?
 考えれば考えるほど堂々巡りだった。結局、玲を好きな今は普通に辿り着けないと悟った。
「別に気を遣わなくてもいいよ」
 だけどその言葉と同時に布団をはぎとられた。
 急に明るくなる視界にびっくりしていると玲の大きな手が伸びてきて私の髪を撫でる。時々髪をすくい、それが指に絡まり落ちていった。
「明日香、そんなこと言うなよ。俺は本気で思っているんだから」
 ずるいよ、玲。そんなことされたらなにも言えなくなっちゃうよ。
 玲の手で私は魔法にかかったかのように心が穏やかになる。子供の時だってこんなふうにやさしく髪を撫でられたことなんてなかった。この手は私だけのものであってほしい。たとえ世界中の人に非難されようと誰にも渡したくない。

「絶対だからね。ちゃんと連れて行ってね」
 半信半疑のつもりで言ったけど、私はやっぱり玲の言葉を信じてしまう。
「約束するよ。なにもしてやれないままなんて、俺だって辛いよ。喜ぶ顔が見たい。明日香の笑った顔が好きなんだ」
 降り注ぐ玲のまっすぐな言葉は、砕けそうな心を丁寧に縫い合わせてくれる。ひと針ひと針、ゆっくりと。心を固く繋ぎ合せてくれるから不思議。そして元気を取り戻した心はまたこうして玲に捧げられるのだ。
 こういう時、するりと伸びてきた腕に抱き寄せられてしまうと抗うことは思いつきもしない。逆にその温もりに包まれると、それはずっと欲しかったものだと思い知らされた。
 恐る恐る私も腕をまわす。そして寂しさを埋めるように思いっきり甘えた。帰って欲しいと思っていたはずなのに一度甘えてしまうとなかなか自分から手放すことができない。
 玲を知れば知るほど、抜け出せなくなる。
            


 

 
 
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