5.恋人じゃない男のやさしさ(014)

 

 次の日。少し咳は出るけど声もだいぶ元にもどり普通に生活できるほどに回復していた。
 壱也にも今朝、メールをして大丈夫と伝えておいた。きっと明日は大学に戻れるだろう。

「調子は?」
「だいぶいいよ」
 昨日に引き続きマンションにやって来た玲。昨日より元気になった私を見て、それでも私のおでこに自分のおでこを近づけて熱があるかを確かめてくれる。
 虹彩に映り込む自分が見える。絡み合う視線に気まづくなり俯いてしまった。昨日と同じその行為は裸をみられることとは違う恥ずかしさがある。
 やさしくされることに慣れていなくて。こんな時、私はどんな表情をしているのだろうと想像するだけで顔を覆いたくなる。
「よし、熱は下がったな」
 おでこを離して見つめてくる瞳はすごくやさしくて守られていると実感できる。好きという感情が溢れ、玲の背中に手をまわしぎゅっと抱きついた。
 玲はなにも言わない。その代わり今日もその手が私の髪を撫でてくれた。分かってる、という声がその手から伝わってくる。
「今日は一緒にいられるから」
 今、なんて?
 頭上から聞こえてきた言葉が信じられなくて思わず顔を上げると、よほどもの欲しそうに見えたのかそっと唇が重ねられた。
「……ダメだよ。風邪がうつっちゃう」
 唇を離してそう言うと、平気だからと言ってまた強引に唇を重ねられる。
 たちまち夢中になる。
 ──大好き、大好き、大好き
 普段は声に出して伝えられない言葉が伝わるように玲の唇と舌に必死に応えていた。

「玲……─」
 ベッドに押し倒された私は玲の愛を全身に浴び、味わう。感じるものは完璧な幸せではないけど、ないよりはマシだった。
 時折、あの人と玲との絡み合う姿が浮かんでくる。あの人が妊娠していると知った時、頭が真っ白になった。どこかでそういう行為はないと信じていた私は打ちのめされて、あの日、手首に小さな傷を作った。感情のやり場が分からなくなり、自分を傷つけるしかなかったのだ。裏切られていたことを知り、好きと思えば思うほど鋭いナイフで切り刻まれるようだった。
 もううっすらとしか残っていない傷。もちろん玲は気づいていない。服を着れば隠れてしまう傷はきっと誰にも見つかることなく消えていくだろう。あの日の悲しみを、痛みに変えてくれた傷はとても愛おしく思えた。

 翌朝、珍しく私より早く起きた玲が仕事に行く準備をしていた。
「もう行くの?」
 ベッドの中から声をかける。
「新幹線の時間があるから。明日香はまだ寝てろ」
「新幹線? 今度の出張先は随分遠いんだね」
「今日と明日の二泊だけだからすぐ戻ってくるよ」
 ああ、だから昨日、ここに泊まれたんだね。二日間の出張を三日間だと偽って。
 何気ない会話の中でも嫌でも感じるあの人の存在が疎ましくて仕方がなかった。
「電話してもいい?」
「出張といっても場所が遠いだけで、いつも通りの仕事だから大丈夫だよ」
 そう言って唇にキスを落とす。昨夜のような噛みつくものでなくそれは一瞬で離れた。
 酔いしれた夜の魔法は完全に解け、嫌でも始まる日常がふたりを引き離す。
「行ってくるな」
「……行ってらっしゃい」

 玲がいなくなるとこの部屋はいつも以上の寂しさに包まれた。
 次に会う約束もできなかった。土曜日の夜に帰ってくるけど、会えるという保証はない。
 ずっと風邪でバイトを休んでしまっていたし、店長に言って土曜日の夜はバイトのシフトを入れてもらおうかな。私は今週は休みのはずだった土曜日のバイトを急遽入れようと決めた。


 ◇◆◇


 大学へ行くと教室で壱也を見つける。
 周りの男の子たちと盛り上がっていて、この間のお礼を言いたかったけどちょっと話しかけづらい。さんざんお世話になったのにいまだに直接お礼も言えていなかった。

「よう! 明日香」
 私が困っていると壱也のほうから声をかけてくれた。目立つ壱也のせいでその場にいたみんなが一斉に私に振り向き、少し気まずい。
「風邪は?」
「うん、もうすっかり」
「声も直ったな」
「うん。この間はありがとう。お礼を言うのが遅くなっちゃってごめん。それで、それとは別になにかお礼をしたいんだけどなにがいい?」
 壱也のことだから、どうせ酒をおごれと言われるのかなと思っていた。私もそのつもりだったんだけど。
「じゃあデートでもするか」
 でも違った。
「はい?」
「お礼してくれるんだろ?」
「そうだけど。カノジョに悪いじゃない」
 最近、ノロケ話を聞かなくなったけど壱也はカノジョ持ちだからな。
「俺ら、たぶん別れるから」
「それ、どういうこと!?」
「向こうからは連絡こないし、俺もしていない。実はつき合っていないのかも」
「……」
 あまりにも冷めた答え。
 普通、恋愛というものはハラハラしたりドキドキしたり不安で眠れなくなったりするものでしょう? そういうことがあまりにも無さ過ぎだと思うんだけど。
 まったくもって本人はいたって冷静。まあ、これもいつものパターンなのだけれども。
 それにしても、さらっと人とつき合ったり離れたりできる壱也を尊敬するよ。今の私はかなり重い女だもん。
 玲とつき合うようになって異様なまでに玲に執着するようになった。こんなに人を好きになったのも初めてだし、こんなに切なくて苦しい恋愛も初めてだった。それでも一緒にいる時間は私にとってかけがえのない時間。失う怖さの方が大きい。
 だけど、時々苦しさと辛さが勝る時がある。誰にも相談もできずひとりで悩む日々が鬱憤となって積もり続けていく。
 そこに限界があるのか、ないのか。自分でも未知だ。
「やっぱ礼はいらない」
「え?」
「人助けして、見返りを求めるのは変だろ」
「壱也……」
「どうしてもっていうんなら、今度、売店の缶コーヒーおごれよ」
「ん、分かった」
 こういうところは人間味があるんだよね。妙に律儀。サッカークラブの試合や飲み会だって誘われれば時間を作って参加するし、大学の友達ともまめにつき合っている。
 でもこれが“カノジョ”という存在となると豹変するから、不思議である。


 ◇◆◇


 6月下旬。梅雨空はまだ続いていて、外はしっとりとした雨が降っていた。
 土曜日になり今はファミレスのバイト先。昨日からバイトに復帰した私が更衣室で着替えているとバイト仲間の麻耶(まや)が私に話しかけてきた。
「明日香、よかったね。風邪治って」
 バイト先で仲良くなった麻耶と今日は同じシフト。同い年ということもあって彼女とはすぐに打ち解けた。
「うん。今回はかなりひどかった。油断していたら悪化して、友達に夜間の救急外来に連れて行ってもらったくらいだもん」
「それ、聞いた。明日香が男連れで店に食事しに来たって」
 壱也と夜中にお店に来たことを昨日もさんざんからかわれた。みんなが壱也を私のカレシだと思っていて、昨日は誤解を解くのが大変だった。
「みんなにも言ったけど、あの人はただの友達だからね」
「明日香はカレシはいないの?」
「うん、まあね」
「へえ。なるほど。すると店に来た男の子がカレシの第一候補なんだ?」
 壱也がカレシ候補? ない! ない!それはあり得ない、と心の中で否定する。
「壱也は候補なんかでもないよ」
「壱也くんって言うんだ」
 思わず名前を出してしまったと後悔してももう遅い。麻耶の眼がギラリと光ったような気がした。
「ほんと、ただの友達なんだから」
 ともう一度念押ししたけど。
「はい、はい」
 とニヤニヤして仕事に行ってしまった。
            


 

 
 
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