5.恋人じゃない男のやさしさ(015)

 

 私の仕事はホールでの接客。今日は土曜日だけあって忙しく、ディナータイムは家族連れで賑わっていた。とにかく立ちっぱなしが体に堪えるけどさっきの麻耶との会話も忘れるほどに私は仕事に没頭した。
 最近では簡単なデザートも作らせてもらうようになった。苦手だった飾り付けも最近では上達を見せ、自分で言うのもなんだがめきめきと腕をあげた。自分の作ったものをお客様が喜んで食べてくれてお金を払ってくれることがなんだか信じられなかった。
 なにかを作り上げることは楽しい。私はこの頃から具体的な形として残るような仕事に漠然と興味をもつようになった。
 玲もそうなのかな? 店舗開発の仕事をしている玲。次々に形になってオープンしていくお店を見ながらやりがいを感じているのかな?

 今日のバイトの終了時間は夜の10時まで。
「明日香、あがりの時間だよ」
 麻耶に肩をたたかれた。気づかなかった。あっという間にもうそんな時間。
「うん、ありがと」
 キリのいいところまで仕事をしてあとは麻耶にバトンタッチ。
「じゃあ、お先にね。お疲れ様」
「お疲れ」

 仕事を終えていつものように更衣室に向かう。そしていつものように着替えてから携帯のチェック。見ると着信ランプが点滅していた。それは玲からの電話でつい30分前の着信。出張から帰ってきたのかなと思い、こちらからかけ直すと玲の声が聞こえた。
『今、どこだよ?』
「バイト先。玲は出張から帰ってきたの?」
『今、お前んち』
「えっ? 何で?」
『来ちゃ悪いか? とにかく迎えに行くから』
 今日は家に帰るとばかり思っていた。だからまさか会えるとは思っていなくて急な展開に少し戸惑う。電話の向こうの玲の機嫌が少し悪かったのは私が家に居なかったせい?

 ファミレスの裏口で待っていると玲の車が駐車場に入ってくるのが見えた。助手席に乗り込むと不貞腐れた玲の横顔が目に入る。
「ごめん。今日、来るなんて思っていなかったからバイト入れちゃったの」
「電話すればよかったな。なんか無性に会いたくなって」
 さっきまでの不貞腐れた顔が一気にほころんだ。その顔にほっとすると同時に私の顔がにやける。一番に私に会いに来てくれることは、やはりうれしい。
「今日はどうするの?」
 夕ご飯、食べるのかなあと思って訊いてみる。もしかすると、ほんのちょっと立ち寄っただけかもしれないと思って。
「食うよ」
「え?」
「ダメか?」
 そんな訳ない。一緒に食べたいに決まっている。
 でもいいのかなと、見たことのないあの人の顔が浮かぶ。私を優先してくれることはうれしいけど、あの人も私と同じ気持ちでいるのかなと、ふてぶてしくも思ってしまう。


 そもそも夫婦についての謎が多すぎる。この頃から玲のことがよく分からなくなっていた。玲が近くにいるのによく見えなくて、すぐ近くで好きと言えてもどこか遠くにいるような心細さの度合いが増していく。
 増幅する心細さ──私は気づかなかった。そこにあった真実を知る由もなく、その意味が玲の孤独と葛藤から受けていた余波だったことを。それを知らず、のうのうと毎日を過ごしていた私。実は当事者たちの中で一番の被害妄想者だったのだ。


 夕食後、昨日までひとりだったベッドに身体を沈められる。暗闇に目を凝らすと玲も私を見ていた。少し照れて視線をそらすとその頬を玲の掌がそうはさせないと再び正面に向けさせ固定させられた。
「ちゃんとこっち見てろよ」
 少しかすれた低い声が私の脳裏に響いた。頬に添えられた掌から二日ぶりの玲の温もりがじんじんと伝わり、寂しかった私の心はどんどん玲で満たされていく。
 この人の影響力はすごいものがある。人を愛して愛される悦びを教えてくれた人。それは今までの過去の恋愛がままごとのように思えてしまうほど。
「なんでこんなに好きなんだろうな」
 切なそうに玲が言う。
「急にどうしたの?」
「急じゃないよ。前から思っていた。どうしても手放せない。誰にも渡したくないんだ」
 でもその言葉を真正面から受け止められない。愛を奏でる言葉はもちろん欲しい言葉だけど、どんな言葉をもらおうと私は一番じゃないんだから意味がない。

 結局、流した涙を補ってくれるのは今という時間。あとは実体のある生身の身体だけ。
「ふふっ。変なの」
「なにがおかしい?」
「だって、玲がそんなことを言うなんて」
「本音だよ」
「でもそれって、欲張り……というより我儘?」
「なんとでも言えよ」
 さっきの言葉に気を悪くしたのか、いつもよりも乱暴に肌に唇を寄せる。唾液をたっぷりと含ませたねっとりとした舌がこの肌を犯す。ぞくっと、それは嫌な感触。さらに仰向けになって痛いくらいに寄せられた胸の谷間から鋭い目つきで睨まれた。数秒凝視されて、その迫力に生唾をゴクリ飲み込む。
「やっ、……なんか、怖い」
「我儘に抱いていいんだろ?」
「そんなこと言ってない。意味分かんないよ」

 玲の考えが読み取れず涙目になると腕を引っ張られて上半身を起こされた。足元でくしゃくしゃになっていたブランケットを引っ張って手繰り寄せ胸元を隠す。
「明日香」
 その声にはっとさせられた。ブランケットを握り締め俯く私の耳元で囁かれるのは玲の真剣モードの低い声。
 顔を横に向けてその続きを聞く意思を示すと玲が脇の下に手を入れてきて軽々と私の身体を持ち上げる。ブランケットがはらりと胸元から落ちた。そのまま私は玲の脚の上に乗せられ座らされた。
 目線は玲より少し高い位置。見上げられる角度に慣れなくて視線を外すように玲の首に腕を巻きつけて身体を傾けた。
「顔、見せろよ」
「やだ」
「真面目に聞いて欲しいんだよ。俺の話を」
「さっきの続き?」
「ああ」
 腰を引き寄せられて逃げられない体勢に観念した。さっき私が玲らしくないと言って笑ってしまった話の続き。そんなに真剣に向き合われるなんて思ってもみなかったので玲の脚の上という妙な体勢のまま背筋が伸びた。
「俺だって不安になるんだよ。こんな関係だし、いつ捨てられてもおかしくないからな」
「捨てる……? そんなこと、考えもしなかった。玲も不安になるんだ」
「時々、なにもかも嫌になる時がある。でも情けないけど明日香だけは傍にいて欲しいと思っちまうんだよ」
「……玲」
 私の頬を撫でながら、震えそうな唇がゆっくりと言葉を紡ぎ出していた。目が離せないほどに魅了される。その魅力に包まれてしまうと、溢れてくるのはやはり離れたくない気持ち。それを再確認していた。
「好きだよ、愛してる。だけど今の俺はすぐに明日香を幸せにしてやることができない。だから前にも言ったけど、別れたくなったら遠慮しないで言えよ」
「そんな寂しいこと言わないで」

 玲が弱気になったら私、立っていられないんだよ。
 今を突き進むこの先に私は希望を見出せないでいる。それでもあなたを信じているから貫こうと思ったの。きっとこの先にあるものは二人の未来のはずだって。なのに別れを覚悟していることを言わないで。

 闇に光る瞳を見つめながら、いつもとは逆に私からキスを落とす。どちらも目を瞑らずに見つめ合ったまま繋がり続ける唇は深さも激しさも強まっていった。
 背中を駆けあがる掌の熱に思わず唇を離すと、背中が仰け反っていく。その隙にかぶり付かれた胸の蕾から受けた衝撃が身体の芯を蕩けさせて子宮の中を濡らしていった。
「はぁ……」
 そして私の吐息を合図に始まる長い夜。絡まる視線に玲は長い指で私のポイントを探り出す。その素早さに顔を歪めれば勢いは増すばかりで吐息では押さえられなくなった声が漏れ始めた。
「そんなにいい?」
 そう言って玲は愉快そうに笑った。
「こんな時にからかうのはやめて」
「どうして? 感じてくれているのはうれしいよ。カラダは正直だよ。ほら、だってこんなに──」
「──もう、だから言わないで……」
「まったく。今さらなのにな」
 私の恥じらいの言葉に玲は尚もからかうように言った。
 いくら恥じらってもカラダは正直。男もそうだけど、女のカラダも誤魔化しはきかない。
 なら、もっと自分に正直になった方がいいのかな。
「……気持ち、いいよ。でも、こういうこと言ったりすること、慣れてないの」
「だけど俺はもっと言って欲しいんだ。明日香はいつも言いたいことを我慢し過ぎなんだよ」
 なんのことだろう? 普段の私のことを言っているの?
「我慢?」
「してるだろ?」
「風邪ひいた時のこと?」
「それもある」
「だって……忙しいのに悪いかなって思ったから」
 本当は違うけど、そんなこと、言えない。
「そういう気の遣い方はあとで参るんだよ。どうして俺じゃなくて壱也なのかって……」
 苦しそうに呟く玲を見ながら、心の中で私も呟く。
 壱也じゃなくて玲だったよ、一番最初にあなたを思っていたよ──
「……ごめん。責めるつもりじゃなかったんだ。悪いのは100%俺だってちゃんと自覚している」
「ううん。そうだよね。ごめん。今度からそうするよ」
 ──だけどやっぱり言えないんだ。玲が困る姿は見たくない。
 今も、玲は困ってる。だけど今の私は泣きたくて仕方がない。そんな私が真正面から感情をぶつけたら、玲は壊れちゃうよ。壊れそうな玲を何度も見てきたから、それはもうできないんだってしっかりと私の中で記憶したの。
 あの時に──

「ねえ、もうやめようよ。続き、して」
 手探りで見つけた刹那的なこの幸せ。逃さないように掴み取ることに必死な私。私にはどうしても未来が見えない。だから今という時間が生きる糧なの。
 私からせがんで口づけすると、すぐに舌が割り入れられて深くなる。唾液がまじり合うくらいに、ずっとキスをしていると、再び訪れる濃厚な世界。自分を陥れるように、嵌らせた。

 準備が整った腰を浮かせて狙いを定めて腰を下ろす。奥まで入ったのを確認するとゆるゆると腰を前後させて自分の思うように高めていく。玲の厚い胸板をなぞり、その感触を確かめて顔を埋めながら甘えるように遊ぶ。だけど身体の芯は激しい快感が走り続け、自分が自分じゃなくなっていくよう。
「あ、玲……、いいっ」
 いつのまにか形勢逆転してその動きは下からに変わっていた。玲の男らしさを中でしっかりと受け止めながら舌を絡め合うキスに溺れていく。熱く固く突き刺さる玲自身に翻弄されて嬌声を響かせる今の姿が本当の私。玲だけに見せられる女の姿。
 その後も長く繰り返される挿入に汗ばんだ肌を舐め合って体力の限界まで愛撫し合う。蜜が滴るような甘美な時間が続き、そして与え与えられる快感に奇跡的な幸せを見つけて、ふたりがひとつになる瞬間──
「あ、玲、ダメ、いっちゃう……」
 弾け飛ぶ無数の粒子がその先に見えた。
 ダイヤの粒のように神々しく煌めいて、それでいて儚げで。それらが我が身に降り注ぐと、がっくりと力を失くした状態でお互いに抱きあってキスをして最後の最後まで繋がり合っていた。

 無言の空間にふたりの荒い息づかい。どうしても声がでなくなるのは疲れのせいというより、この切なすぎる終わりのせい。
 何度交わっても結局最後に過るのは、孤独と悲しみ。追い求めて得られる束の間の至福でさえも罪となるとしても私はこの罪なくては生きていけない。どんなに責められてもそれは譲れないこと。
 ならどうすればいいだろう。だけどいくら考えあぐねても私にはその答えが分からなかった。
 逆に言えば終わりが見えてしまった時──すべてが崩れ去る瞬間の私はいったいどれだけの絶望の中にいるのだろうか。考えただけでもぞっとする。

 そして、この日から前より頻繁に玲が泊まりに来るようになった。
 私にとってそれは願ってもないことだったけどふたりの間に語るべきことは敢えて避けられているのは変わりなく前に進めない状況は続くのだった。
            


 

 
 
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