6.背徳の中の日常 (016)

 

【10月】Asuka[大学3年]


「今日、何時ごろになる?」
 ある日の夜、仕事中だと思っていた玲に電話をしたら今から帰るとのこと。
「分かった」
 ご飯も炊けているし、料理も完成。あとは玲が帰ってくるのを待つだけ。

 こんな生活も当たり前になっていた。
 私たちはいつしか同棲という状態になっていて、家にまったく寄り付かなくなった玲が帰る場所が私のマンションだった。
 奥さんがどう思っているのかは分からない。子供のこともあるし、生活費のことだってある。でも玲はなにも言わないし私も怖くて訊くことはできない。それに触れることはしないというのはふたりの暗黙の了解。そしてこの関係は、誰も知らない、いや決して知られてはいけない不道徳な関係。

 玲とあの人が入籍してから五ヶ月が経とうとしていて、季節は夏から秋に変わった10月の頃だった。

 相変わらず出張の多い玲だったけど、それ以外はここに帰ってきてくれる。そんな生活が長く続き、私の心も安定していた。ただ同年代の女の子のように気軽なデートができないということを除いては。
 出かけるときはいつも遠出。といっても仕事が忙しい玲だからそんな時間はほとんど作れない。デートらしいデートと言えば、高速で1時間の場所にある映画館に一度行ったことぐらい。
 小さな不満が募っていった。一緒の時間を過ごせればそれだけで幸せと思っていたはずなのに今では欲がでて、それ以上のことを望んでしまう。

 今はバイトは週三回ほど。前に倒れた時は週四〜五回だったからそれに比べれば体力的に楽になった。
 だけど玲と一緒に住むようになって生活ががらりと変わる。玲の出張がない日はちゃんとした食事を作らなくてはならないし、洗濯物もひとり分増える。大学の課題も多く勉強との両立は楽ではなかった。
 それでも自分なりに頑張ってきた。だけど、一緒にいられても心に隙間ができてくる。今のこの関係が一時のものなのかもしれないと思うと、次第に虚しくなってくるのだ。

 そのため私は決意した。今日の夜、訊いてみようと。私たちの今後について、つまり将来の話し合い。いつまでもお互いに避けているわけにはいかないと思った。それに玲の考えを知りたかったし、私も本音を言いたかった。

 夕飯を食べたあと私は切り出した。玲は今日もビールを飲んでいる。
「あのね?」
「ん?」
 少し酔っぱらった玲が私の肩を引き寄せた。
「玲……」
「どうした?」
 直接、顔を見ることができない。私は座ったまま、玲の腰に腕をまわし抱きつくような格好をする。
「玲はいつ、あの人と離婚するの?」
 一緒に暮らし始めて五ヶ月がたった今、何か区切りが欲しかった。今まで口に出さなかった“離婚”というセリフ。それは法律が絡む難しい問題であって慰謝料とか養育費とか問題が大きすぎる。それは分かっている。だからこそ玲の考えをはっきりと聞きたかった。
 “今だけ”を追い求めていた以前の私は過ごしてきた長い時間の中で変わりつつあった。
「ちゃんと別れるから」
「いつ?」
「今度、あいつと話をするよ」
「今度って?」
「年内にはちゃんとするから」
 『年内』という言葉。曖昧な言い方だった。だけど信じるしかなかったし、他に何もできることがなかった。私にできることはただ待つことのみ。そして私を愛してると言ってくれた玲の行動は必ず私を幸せに導いてくれるものと期待するしかなく、それがかろうじて私を前に歩ませてくれる希望の光。本当にそれは微かな光だった。
 そんな私はエゴイズムの塊。子供の存在を考えない身勝手さ。この時の私は誰が見たって最低な、冷酷な人間だろう。

 この日は結局、具体的なことまでは話が及ばなかった。もしかすると玲はその場しのぎで言ったのかもしれない。そんなことを考えていたら私のマンションに住むようになった日からなにも進展していないんだなと嫌でも悟ってしまうのだけれども。
 その“悟り”から目も耳も塞いでしまうのはやはり現実逃避だったのだろうか。


 それから何日か過ぎ、バイトのない今日、玲から早めに帰るとメールが入った。夕飯の支度、どうしよう。夕方近くまで授業のあった私は急いで帰ろうと足早に家に向かう。
 だけど大学とバイトと家事の両立で疲れ気味の私は帰りにスーパーで夕飯の買い物をする気にもならず。たまには外食もいいよねと理由をつけてまっすぐ家に帰ることにした。実は最近はこういうことがたまにどころか、ちょくちょくあってコンビニやお弁当屋さんですませることも多かった。

 家に帰ると溜まっていた洗濯物を片づけ、空いた時間で大学のレポート作成。そうこうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、インターホンが鳴った。
「お帰り」
「ただいま。あれ? 飯は?」
 すっきり片づいていたキッチンに気づいた玲が真っ先に口にした。
「今日はいろいろ忙しくて。買い物もしてないの」
「飯はどうすんだよ?」
 やっぱり最近家事をさぼり気味なのを快く思っていないらしく、途端に表情があやしくなっていく。
「どこか外に食べにいかない? たまにはいいでしょ?」
 だけど玲は大きく溜め息を漏らし冷たく言った。
「俺はいつも外食ばっかりなんだよ。こういう時まで外食は勘弁してくれ」
「分かっているけど私にだって都合はある。玲の洗濯物だって全部私がやっているし買い物だって結構大変なんだから」
「早く帰るってメール入れただろ。俺が早く帰る時ぐらい、飯作って待ってろよ」
 玲の言葉に腹が立った。
 飯作って待ってろ? どうしてそんなことが言えるの? 私はいつも玲のために頑張ってきた。不十分だったかもしれないけど、自分なりに努力してきたつもり。それなのに、全否定するような言い方に私の不満が爆発した。
「私は玲の奥さんじゃないっ! 玲から生活費をもらっているわけでもない! 私だって学校とバイトの両立をしてるし、働いているのは玲だけじゃないんだから!」
 私の怒鳴り声が空気を引き裂くように響いていた。
 だけどすっきりするどころか、逆にその声が言葉が自分に跳ね返ってきて、次の瞬間、我に返り、なんともいえない虚しさが私の心を脅かす。
 まさかこんな形でこんなことを言うつもりはなかった。ただ売り言葉に買い言葉じゃないけど、つい興奮してしまって言ってしまった言葉だった。
 自分の怒鳴り声がこんなに自分を惨めな気持ちにさせてしまうのだと生まれて初めて知った。
 私、いったいなにをやってるのだろう。今の私はそんな息抜きさえも玲にさせてあげられていないのだと、どっぷりと自己嫌悪に陥っていた。

 そして時間にすると数十秒ほどだろうか。長い間、押し黙っていた玲がようやく口を開き静かに言った。
「そうだよな。悪かった。もう無理してやらなくてもいいから」
 逆に深く傷つけてしまった。言ってはいけない言葉を言ってしまったんだと思った。
「あの……家事をやらないということじゃなくて……やだ、どうしてそんなに悲しい顔をするの? やめてよ」
 玲が無理に笑おうとしていた。そんな顔をさせしまうなんて。自分の冷酷さが浮き彫りになる。自分の忙しさを盾に思いやりの気持ちを忘れていたんだ。
 玲がこの家に帰って来る日は多いわけじゃない。なのにどうしてそんな時ぐらい玲の体を労われないのだろう。
 やさしく私の髪を撫でる玲が急に小さく思えた。
「ごめんね。言い過ぎた」
「そんなことないよ。明日香の言っていることは正しいんだ」
 それからというもの玲は私が夕飯を作らない日があっても絶対に文句を言わなくなった。コンビニ行こうか、そう言ってくれる。逆にそれを言わせてしまうのが申し訳なく、私もできる限り食事を作るようになった。

 思えばこれがきっかけで、喧嘩が減ったような気がする。私も玲に離婚のことで前よりも不満を抱かなくなったし、玲の機嫌が悪くなるということもなくなった。それは二人にとってとても楽な方向で、関係が落ち着いていった。


 そんな10月の金曜日。今週末と続く日曜はうちの大学の大学祭。そして今日は三日間ある大学祭初日。
 この日、私にある出会いがあった。

 うちのゼミは冷めたもので出し物はしないという結論に至る。そのため半数以上の人たちはサークルの出し物の手伝い、残りの人たちは実質、休み。そのためこの期間を利用して実家に帰る人もいた。こんな楽しいイベントに参加せずに実家に帰るなんてと思うかもしれない。でも意外とみんなも冷めていて一部の人しかこの大学祭というイベントに賭けていない。
 私は実家に帰ることはしなかったけどサークルにも入っていなかったのでこの期間はどうしようかと悩んでいた。カレカノがいる子は一緒に大学祭をまわる予定の子もいる。そういうのがうらやましい。私もそんなふうに楽しみたかったな。まさか玲と一緒に大学祭まわりをするなんて100%無理だから。

 そのため今日は仕方なくここに来た。壱也がバンドのボーカルをするというのでしぶしぶひとりでやってきた体育館前。普段バンドなんてやっていないのに大学の先輩にボーカルが足りないと無理矢理誘われ引き受けてしまったのだそうだ。
『俺の晴れ姿、ちゃんと観に来いよ』
 壱也はそう言うけどこんなところにひとりで来て、どうやって盛り上がればいいのよ。

 出入り口からは楽器を持った人が何人も出入りしている。彼らは入口で固まっていた私を訝しそうに見ながら通り過ぎて行った。
「どうぞ。自由に入れますよ」
 出入り口に小さなテーブルとイスがあって受付担当らしいお兄さんが私に言った。
「……はい」
 だけど、どうも入りにくい。壱也が唄っている姿を想像しただけでこっちの方が恥ずかしい。一緒にカラオケに行ったことはあるけど、それとこれとは違うもの。観に来たのはいいけどこっちがドキドキしていた。
「彼氏の応援?」
 さっきの受付のお兄さんが再び私に声をかけてきた。
「いえ。友達の、です」
「誰の友達?」
「壱也──武藤壱也っていうんですけど。出番はもうすぐですか?」
「あぁ、壱也ならちょうど出番のはずだよ。さっき前のバンドの奴等が出て行ったとこだから」
 え!? ということは、今、入ると壱也が唄っているということ? それはちょっと。だって心の準備がまだ……と思っているとさっきのお兄さんに思いっきり手を引っ張られた。
 なによ!? この人!?
「離して下さい!」
 だけど引っ張る力は弱まることなくドアの向こうの暗幕をくぐり抜け、体育館の中に無理矢理入れられてしまった。

 会場に入った途端、すごい熱気と人。広い体育館は半分以上が埋まっていた。
「ここでも十分見えるでしょ?」
「は、はい……」
 真っ暗な会場。そのステージに壱也がボーカルとして立っていた。白いスポットライトがちょうど壱也だけにあたっていて一番後ろから見ても十分な存在感を醸(かも)し出していた。まるでそこだけ切り取られて浮かび上がるように見える。
 不思議な感覚。いつもの壱也じゃないみたい。
            


 

 
 
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