6.背徳の中の日常 (018)

 

 二日後。大学での昼休み中、イチョウの木の下のベンチで休憩中のこと。

「はぁー……」
「いきなりなんだよ?」
 無意識に漏れた溜息を隣で聞かされた壱也は不服そうに言う。
「時間が経つのが早いなあと思って」
「年取った証拠だよ。お互いにな」
 壱也の言う通りかも。
 十代を振り返ると随分と長かった印象なのに二十代になった途端、時間の経過があまりにも早すぎるように思う。時間に追われる毎日がなんだか窮屈に思えてくる今日この頃。こんなことを考えてしまうのは秋という季節もせいもあるのかな。
 今日の壱也はスーツ姿。午前中、会社説明会だったそうだ。
「どうだった?」
「まあまあかな」
「ってことは、いい会社だったんだ。よかったね」
「明日香は?」
「私も昨日、企業ガイダンスに行ったよ。だけどこれが結構疲れるんだよね」
 昨日は初めての企業ガイダンス。その日に合わせて買ったいわゆるリクルートスーツに初めて袖を通したんだ。
「なに言ってんだよ。あれはただ座って話を聞くだけだろ?」
「そうなんだけど。あれはあれで緊張するし普段使わない気を使うんです」
「まあ分からなくもないけど」
 そう言ってネクタイをゆるめながら空を仰ぎ見る姿は普段とは違う大人っぽさがある。
壱也は誰よりも勉強に熱心で就活も積極的だった。踏み込んだ話はしたことはないけど将来のビジョンはしっかりとあるようでひとりで黙々と未来に向かって歩いている印象があった。
 なんだか置いて行かれた気分。壱也が急に遠い存在に思えてくる。

「明日香はずっと仕事を続けたい派?」
「んー、そうだね。できればそうしたいし、そういう会社や職種を選ぼうかと思ってる」
 ぼんやりと見えてきた自分の将来は、玲のアドバイスのおかげもある。今の段階ではまだ具体的に絞る必要はないのだから、いろんな会社を見てみようと思った。
 そんなふうに少し砕けた心意気でいざ、企業ガイダンスに出席してみるとこれが意外や意外。いきなり現実味を帯びてきて、今まで見えなかったことが見えてくる。企業の特色はもちろんだけど、所在地や人事の人の性格も判断ポイントになるのだ。
「建設業?」
「それはまだ分からない。でももちろん選択肢の中にあるよ」
「なるほど。明日香って考えていないようでちゃんと将来のこと考えてるんだな」
「ちょっとぉ! これでもいろいろ模索しているんです」
「明日香はキャリア志向か……」
「別にそういうんじゃないよ。それに結婚しても仕事を続けることは珍しいことじゃないでしょ」
 そうだよなあと壱也はベンチの背もたれに深く身体を預ける。
 私としてもせっかく大学まで行かせてもらったのだから就職先では大学で学んだことを生かしたい。女ができることは限られているかもしれない。だけど自分にできることはあると思うし、玲も前に最近はたくさんの女性が建築の職種で活躍していると言っていた。なかなか難しい世の中だけどそういった方向も視野に入れることは私にとってはごく自然なことだった。
「女だと難しいかな?」
「そんなことないよ。どんな職業でもいいと思うよ。明日香は見かけによらず努力家だし真面目だし、きっとそういうところを評価してくれる会社があるはずだから」
「だといいけど。でも、まだ会社を絞り込んでいないから、ちょっと漠然としてるけど」
「頑張れよ。俺でよければ相談に乗るよ。情報とか結構持ってるし」
「うん、ありがとう」
 いつの間に変わっていたのだろう。壱也はどんどん大人になっていく。

 秋の空気とともにしみ込んでくるのはしんみりとした気持ち。私たちもあと一年と数ヶ月で学生じゃなくなる。こうして一緒に過ごせる時間も限られている。眠たそうに欠伸を堪える壱也を隣に感じながら、私は時折舞い落ちるイチョウの葉を眺めていた。
 今だけ、ゆっくりと時間が流れている。少しの間の沈黙もふたりにとっては違和感のないことだった。

 黄色い花弁がはらり、膝の上に落ちた。それを指で摘まんでくるくると回して遊んでいると「そう言えば……」と壱也が思い出したように言った。
「瀬戸ゼミの前澤さんているだろ?」
「茶髪でふわふわの髪した女の子でしょ」
 これからご出勤ですか、と言わんばかりの派手な女の子で、彼女を今日もキャンパス内で見かけたけど相変わらず化粧も派手でアイメイクもキラキラしていたっけ。
 でもその子がどうかした?
 私の頭にはハテナマークが浮かぶ。
 なにか接点あったけ?
「要の元カノでさ」
「ええっ!? 要くんてこの間の大学祭の人でしょ? それ、かなりびっくりなんだけど」
「だろ? 俺も最初聞いた時はびっくりしたよ。といっても交際期間は二ヶ月位で今年の夏ごろに別れたらしいけど」
「へぇ」
「それで要から聞いたんだけど。前澤さんが出来ちゃった結婚するらしくてさ……」
「はぁ!? 彼女、妊娠してるの?」
 あんな派手なメイクなのに? あんなヒールのある靴をカツカツ鳴らしているのに?
「相手は誰? 要くん?」
「それが相手は社会人らしいから結婚自体には問題はないらしいんだけど。でも子供の父親はもしかして自分じゃないかって要が悩んでた」
 そう言って豪快に笑う壱也は少し薄情な奴だと思った。

だけどその話には続きがあって……

「でも計算が合わないし自分が父親じゃないのはすぐに分かったらしい。だけど問題は要とその社会人がつき合っていた期間がかぶっていたらしくてさ、要はただの浮気相手だったんだよ」
 よかったのか悪かったのか。でも前澤さんが要くんに本気じゃなかったんならこれでよかったのかな。
「要くん、ショックだっただろうね」
 人ごとに思えない。たとえ別れた相手でもつき合っていた間に実は裏切られていたなんてトラウマになりかねない。
 要くんは真実を知った時、どう思ったのだろう。自分が浮気相手だと知った時、やっぱり絶望したのだろうか。
「明日香も気をつけろよ」
「……えっ?」
「変な奴に騙されないようにな」
「あ、うん。もし私が変な奴に引っ掛かったら助けてね」
 一瞬、なにに気をつけるんだろうと考えてしまった。妊娠、結婚、浮気、二股……今の私は、どれもこれも過敏に反応してしまうワードだ。
「その前にいないのかよ。そういう相手。ここんとこずっとフリーだよな?」
「そうだね。ぜんぜん、だね」
「でもぜんぜんってことはないだろ? あまりにも興味なさ過ぎなんだけど。もしかして俺になにか隠してるだろ?」
 壱也の変な勘ぐり。
 やだなあ。その突っ込みは冗談だよね?
「隠してなんかないって。出会いもこれといってないもん」
「ほんとかね?」
「ほんとだって」
「ま、そういうことにしといてやるよ」
 ……この際、そういうことにしておいて下さい。
 正直、その手の話題は触れられたくない。相手が壱也だとなおさら。触れられれば触れられるほど嘘を重ねなくてはいけないから。ただ壱也はそのへんをあまり深く詮索してこないからありがたい。

「それより壱也はカノジョとはどうなったの?」
「いつの話だよ?」
「いつって……キャバ嬢の子だよ」
 すると壱也の奴。「ああ」と、そんなのすっかり忘れていましたみたいな言い方をして……
「あいつとは何ヶ月も前に別れたよ」
 それをたった今知った私は、すさまじいタイムラグにポカーンとなる。
「はい? ……それ、知らなかったんだけど」
「訊かれてないから」
「いやいや。訊かなくても、ひとこと言ってくれてもいいじゃない」
「だって明日香、俺の恋愛のことなんて興味なさそうだったし」
「そんなこと、……ないよ」
 言われて初めて気づく。興味がないというか壱也がどんな女の子とつき合っているかなんて思い出すこともなかった。
 今までの壱也はノロケ話がでなくなると同時にたいてい次の『イベント』を開催していたから、それで壱也の恋愛を把握していたのだ。
「やっぱダメだな。最初は我儘もかわいいと思えてもだんだんそれが嫌になってくる。ムカついて俺から連絡を断つと相手からも連絡がなくなるんだから。お互い軽すぎだよな」
 大学で知り合った壱也だけど誰かひとりの女の子とじっくりつき合うところを一度も見たことがない。いったいなにがいけないんだろうな?
「長続きしないね。じゃあ、あれからずっとフリーだったんだ」
「ぜんぜんうまくいかないからさ。さすがに虚しくなってきた」
 壱也は腕を伸ばし大きく欠伸をする。そして触れられたくない話題だったのか「そろそろ帰るよ」と立ち上がった。
 今日は会社説明会のあと就職指導室に寄っただけだったらしい。
「じゃあな、明日香」
「うん、バイバイ」
 見慣れないスーツを着た後ろ姿を見送った。

 ひとりになるとキャンパス内に急に小さな風が吹いた。地面の葉を舞い上がらせ音を鳴らす。お気に入りの場所も日毎、時間毎にどんどん様子が移り変わる。
 少しずつなにかが変わっていく。
 そんな中で自分たちが大人になっていく実感がどうしてもわかない。
 だけど同時に覚えてしまうのは寂しさ。そしてつきまとう不安。それは学生でなくなる不安、社会にでる不安。不安だらけの中で自分の今の不安定な立ち位置にめまいがしそうだった。
 甘えの許されない世界にもうすぐ放り出される。その世界とはどんな世界なのだろう。
 私の未来はどんな未来なの?
 その時そばにいるのは誰?
            


 

 
 
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