7.崩壊する関係 (019)

 

【12月】Asuka[大学3年]


 クリスマス目前の12月。大学は冬休みに入り今、私はバイト先に向かう途中だった。ロングブーツとスカートの間の素足をキンキンに冷えた空気が覆い感覚を失いかけている。これだけ寒ければ雪が降ってもおかしくないくらいだけど連日の乾燥注意報の天気予報を見ると今日も期待できない。
「寒い……」
 あまりの寒さに思わず心の声が口に出てしまった。それもそう。吐く息が白い。
 私が生まれたところは雪が降るのはそれほど珍しくない地方都市。年に何回かの大雪に悩まさることもあったけど、やっぱり雪は好き。どうせ寒いなら雪景色だった方が得した気分だ。『寒い』と愚痴りながらも雪の期待できる冬はロマンチックで実は好きな季節である。

 風のない夜の、ぼんやりとした雪明りの夜は神秘的で、夜中でも遠くまで見渡せる景色は時間も寒さも忘れさせてくれる。足跡のない雪面を踏みしめる瞬間に味わえる満足感は神聖な世界に踏み入れたような錯覚をもたらして、伴う快感は巨大なスクリーンの中の主人公の気分を味あわせてくれる。思い出すのは雪の結晶が乱反射して作る淡いピンクベージュ色の幻想。あの中にいる間だけは今の汚れた私を浄化してくれるような気がする。純白の雪にはそんなパワーがあるような気がしてならない。

 バイト先に到着。お肉を焼くおいしそうな匂い、フォークやナイフが重なり合う金属音、語り合いの音色が今日もここにある。
 今日のファミレスのディナータイムはカップルが多い。楽しそうな会話の内容までは分からないけどきっと多くの人たちがクリスマスも一緒に過ごすんだろうなと想像する。
 クリスマスか。私はどうなるんだろう? さらに玲の家庭のことは相変わらず聞けずじまい。離婚の話し合いがどこまで進んでいるのか、はたまた何も進んでいないのか私にはさっぱり分からなかった。

「ねえ明日香、クリスマスイブは壱也くんと過ごすの?」
 バイトを終え着替えていると麻耶が訊ねてきた。
 ちょうどどうしようかと考えていたことろだったけど予定はもちろんないわけで……
 それに、今さら壱也の名前を出すなんて……
「だから、壱也とはそういうんじゃないの。一緒に過ごさないから」
「つまり、予定無し?」
「ん……まあ、そうだけど」
「なら、お願いしてもいい?」
 そう言いながら顔の前で両手を合わせ上目づかいにこちらを見る麻耶。お願いと言われ、だいたい察しはつく。そんな予感はしていたんだ。だから触れたくない話題だったのだ。
「はいはい、シフトのことでしょ?」
「うん。24日のバイトのシフト。交換して下さい!」
「しょうがないなあ」
「やった! 明日香ありがと!」
 麻耶は彼とクリスマスイブデートだそうだ。なんでも麻耶の彼が彼女のために無理矢理バイトを休みにしてもらったとかでイブのデートを諦めてバイトを入れていた麻耶が急遽、私に泣きついたわけだ。壱也とのことを思いっきり否定した私はその頼みを逃れられない。それに12月はただでさえ忙しい時期。どうせ玲は仕事で遅いはずだしバイトを入れてもそんなに差し支えもないと思う。
 そもそも外でデートなんてできるわけないんだからイブの夜はバイトに励み、あとはおとなしくしていよう。
 そういえば昼間にデートなんて今までしたことなんてなかったな。出掛けるときはいつも夜。お互い口には出さないけど人の目を気にして明るい時間に表に出るのは控えていた。
「じゃあ麻耶、お先に」
 鼻歌を唄い、上機嫌の麻耶にそう言って、逃げるようにバイト先をあとにした。一緒にいるとつい妬んでしまう。麻耶はぜんぜん悪くないけどやっぱり楽しそうにしている姿は見ていたくない。
 私は心が狭い。しかも、そんな立場ではないのに勝手に不満を募らせ自分はかわいそうだと追い込む、かなりイタイ女だった。

 家に着き、玲の帰りを待ちわびていると玲からのメール。帰りが遅くなるというメールはいつものことだった。最近は帰りが遅いどころか帰って来ない日も珍しくないほど。新しい店舗のオープンが間近の時はいつもそう。車やネットカフェに寝泊まりをすることも多かったので玲の体が心配になるほどだった。
 結局、その日も玲は帰って来ることはできず、目覚めた朝に玲がいないのがとても寂しかった。もともとひとり暮らし用のワンルームマンション。ベッドは当然シングルで大人がふたりで寝るのにはかなり狭いけど今ではそんな窮屈さも日常の一部。だから今朝はこのシングルベッドが少し広く感じる。
 隣にあなたがいないだけで、ただそれだけのことなのに広い荒野にひとりぼっちになった気分になる。あなたを捜す手立てが見つからなくて、私はいつも途方に暮れるの。

 生ぬるいベッドから這い出て暖房のスイッチを入れた。
 傍にあったカレンダーを見ながらあと1週間に迫るクリスマスイブのことを思い出した。もうすぐなんだな。クリスマスといっても私たちの間にはプレゼントの交換というものはない。前に玲の誕生日に時計をプレゼントしたことがあったけど玲がそれを身につけているのを見たのは1、2度ほど。そういうところはちょっと普通とは違うのかもしれない。例えそれが私からのプレゼントだとしても玲はもともとあまり物に執着することがない人なんだろうと自分なりに解釈している。
 今年はプレゼントをどうしようかと考えたけど玲にとって意味のないことはしてもしょうがないと思い、やっぱりプレゼントを買うのはやめようと決めた。でもクリスマスケーキだけは欲しいかな。玲は甘いものが大好きだからケーキだけは準備をしておこう。


「クリスマスイブの夜、どっか出かけようか?」
 その日の夜。2日ぶりに帰って来た玲が夕飯を食べながら思いもかけないことを言った。国民的イベントの話題を持ち出すなんて珍しい。
「なんで!?」
「なんでって……仕事がひと段落ついたから今週は比較的早く帰れそうなんだけど」
「そういうことは早く言ってくれないと。私、イブはバイト入れちゃったよ」
 平日だし玲だって仕事があると思ったから。でも相談すればよかったなと少し後悔。落ち込むなあ。
 そんな私を察してか、慰めるように言う。
「バイトなら仕方ないな。でもどうせクリスマスはどこも混んでいるだろうし家でのんびりするか」
「……うん」
「明日香の手料理があればそれ以上の贅沢なことはないよ」
「ケーキもね」
「予約したのか?」
「したよ」
「そっか。じゃあ楽しみだな」
 玲の言葉に私の心は温かくなった。ささやかだけどこんなイブもいいな。好きという気持ちが溢れてくるようなこんな会話が私の胸をきゅんとさせる。
 ふたりで過ごせるならそれでいい。私にとってもそれ以上贅沢なことはないよ。


 ◇◆◇


 そしてクリスマスイブの夜。
 どこかに出かけようかと提案していた玲だったけど結局、仕事だったみたい。メールで帰りは10時過ぎになるとメッセージが残っていた。
 その通り、私がバイトから帰宅し夕飯の支度をしようと思った頃、玲も帰って来た。
「ただいま」
「お帰り、玲」
「クリームシチュー?」
「うん。バイトに行く前に作っておいたから温めるだけなんだけど食べる?」
「食べるよ。でもその前にシャワー浴びてくるから」
 上着を脱いで私に手渡す玲。それを手にいつものようにハンガーにかけようと後ろを向いた瞬間……
「ひゃあっ!! ちょと玲!!」
 冷たくなった玲の手が私の頬に触れ、いきなりの感触に油断していた私は声を上げた。
「ははっ! 悪い悪い。明日香のほっぺ、あったかそうだったから」
 そう言って笑いながらバスルームに入っていった。
 もう、びっくりしたあ。急にあんなことするから変な声出ちゃったじゃない。
 だけどご機嫌な玲の声は私たちの関係に安定をもたらし、無邪気な声を掛け合う穏やかな時は今日もこうして和やかに刻まれていく。

 とてもささやかなクリスマスディナー。
 クリームシチューとグリーンサラダとエビの洋風マリネ。全部作り置きしていたものであとは炊飯器でタイマーセットして準備していたピラフ。
「おお、おいしそう! クリスマスっぽいね」
 シャワーを浴び終えた玲が私の料理を褒めてくれた。料理は苦手だけど頑張った甲斐があった。
 ふたりで食べる食事は豪華さには欠けるけど、過去にひとりで食事をしたクリスマスイブに比べると夢のような時間。無邪気な子供時代の感覚が蘇った。
 そんな楽しい夕飯を終えると最後に私が買ってきたケーキをお披露目。夢の時間はまだ続いている。
「これくらい?」
「いやもうちょと……あっ、そう、それくらい」
 私がケーキに包丁を入れると玲がケーキの切り方を指南してくる。玲のリクエストで大きめにカットされたケーキ。それをおいしそうに食べているのを眺めながら顔がほころぶ。ほんと、男のくせに甘党なんだから。
「おいしい?」
「生クリーム、最高」
 ケーキをたいらげた玲は満足気だった。
 時々、子供に戻る玲がかわいい。我儘に拗ねる私をたしなめてくれることもあれば今みたいに私が母親のような立場に逆転することもある。

 こんなふうに変わっていったのもふたりの時間が長く緩やかに流れているから。だけど、いがみ合いを避けた日々は自然な流れではなく故意に作られた時間でしかない。それをきっと玲も感じている。
 言いたいことが言えない今が本当の幸せなのか、時々分からなくなる。

「もう遅いから早くシャワー浴びてこいよ」
「うん、そうする」
 後片づけをして私もシャワーを浴びにバスルームへ。
 蛇口をひねりお湯を浴びながら今のこの刹那的な幸せを思っていた。去年のクリスマスイブは一緒に過ごせたけど玲はその日のうちに仕事が残っていると言って帰っていった。今は玲の仕事の日を除いてはいつも一緒にいられる。問題は山積みだけどきっとふたりで乗り越えていけるはず。そう自分に言い聞かせていた。そうすることでしか今の自分を保てない。

「玲、大好き」
 ベッドで玲に抱きつきながらそのまま自分から押し倒した。
「何だよ、明日香。急に甘えてちゃって。今日は随分と積極的だな」
「たまにはいいでしょ。クリスマスだし、私から襲いたくなったの」

 聖なる夜。私たちは肌を合わせお互いの体温を感じ切ないくらいに貪り合う。気持ちは変化する。決意は人を裏切る。セックスの中にあるホンモノは肉体のみ。いつしかそう思うようになっていた。
 でも好きなの。こうやって玲に求められて触れられるのが。身体が気持ちよくなって淫らな気分になって深く深く堕ちていくその世界が例え許されない世界だとしても、それでいい、そこがいいと思ってしまう。
 最低な恋だと分かっているけど駄目なの。世の中にはどうしようもないことがあるんだと、いつだったか玲が呟いていた。私はその時、その言葉に絶望したけど、本当にその通りだって今は思っている。

 もちろん、できることなら、終わりにしたい。終わりにしたいよ。

 その覚悟ができるような立派な人間に私は、なりたかった──

 足と足を絡ませ、舌と舌が絡み合う。どうしても欲しい。何度交わっても足りないくらいに……
 きっとひとつに繋がった私たちは世界一幸せ者で、世界一罪深い。
            


 

 
 
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