7.崩壊する関係 (020)

 

 玲はデスクワークより現場に赴くことが多い仕事。立て続けに鳴る電話に対応しながら二時間後のスケジュールを埋めていくような怒涛の毎日。土日祝日も関係なく働いていて、そもそも休暇を取ること自体珍しいことだが、たまに休暇を取るにしても調整はかなり厳しく、そのタイミングはいつも突然だった。

「今度の日曜日、出かけるぞ」
 さきほどの情事が終わって間もない気だるさが残るベッドの中。驚いて玲を見た。なんの脈略もなく言うものだから何事かと思う。
「休みなの?」
「休むんだ」
「大丈夫なの?」
「俺にだって仕事を休む権利くらいあるよ。ここのところ、ぜんぜん休んでいないんだから」
 玲の言う通り。最後に休暇を取ったのは三ケ月前の9月頃だったか。私の記憶も曖昧なほどだった。
「どこか行きたいところがあるの?」
「クリスマスだし、たまにはなにか買ってやるよ」
「プレゼント?」
「なにがいい?」
 まさか玲がこんなことを言うなんて思ってもみなかった。プレゼントなんて今までもらったことがなかったのでどういう風の吹きまわしなのかと疑いの目で見てしまう。
「なんだよ?」
「うしろめたいことがあるのかなって思ったから」
「別にそんなもんねえよ。ただ、あげなくなっただけだよ」
 そこまで言うので信用してみようかな。どうせ玲の気まぐれなのだろう。玲の声がそうだった。玲は嘘をつく時、大抵イライラした口調になるか言葉数が少なくなるかのどちらかだから。
「んー……」
 プレゼントはなにがいいかあれこれ、考える。でもひとつしか思いつかなかった。口に出すのは恥ずかしかったけど、ずっと欲しいと思っていたもの。
「指輪がほしいな」
 好きな人から指輪を贈られることは女の子なら誰でも憧れるもの。結婚指輪でも婚約指輪でもないけれど指輪は特別なものだから。
「分かった。少し遅めのクリスマスプレゼントになるけど日曜日、買いに行こうな」
 玲から煙草の匂いがする。玲のいつも吸う煙草の匂いに包まれながら返事の代わりにその胸に顔を埋めた。
 うれしくて涙がこぼれそうだった。
 玲は意外に照れ屋だし物に執着しない人だから、サプライズでプレゼントを用意することはしない人。だから、私になにかをあげたいと思ってくれたその想いだけでも何ものにも代えがたいプレゼントだったんだ。


 日曜日。今日は約束通りのお出かけの日。前日からの仕事が長引いて、ほぼ朝帰りの玲とふたりでショッピングモールに来ている。
 18歳の時に車の免許を取得した私だけどペーパードライバーのため、運転はいつも玲。寝不足の玲には悪いと思いながらも玲の運転でやって来たここは、もちろん家からかなり離れた場所にある。念のため玲の会社からも離れたお店を選んだ。

 私たちは隣接する駐車場からエレベーターに乗り、真っ直ぐに八階のジュエリーショップへ向かった。
「大丈夫かな?」
「平気だろ」
 今日は休日。ショッピングモールはたくさんの人だった。
 どうしても気になるのは人の目。私はいいけど玲の仕事関係の人と遭遇したらどうしようと思ってしまう。

 そして見えてきた独特の店構え。迷うことなく辿り着き、足を踏み入れる。
「すげぇ派手な店だな」
「そうだね。でも、こんなもんだよ」
 店内に入りまず目に入ったのは天井から吊り下げられたゴージャスなシャンデリア。その無数の光が床一面のブラックの大理石に反射してエキゾチックな雰囲気を醸し出していた。あまりにも煌びやかな内装は敷居が高い。
 でも幸いなことに店内にはすでに何組かのカップルがガラスケースを覗いており、私たちも恐る恐る店の奥へと歩みを進めた。
 結婚指輪を選んでいるカップルもいた。恋人の隣で幸せそうな女の子を見ながらいつか自分も、と心の中で思う。私はまだ大学生だけど結婚というものは意識している。その相手が玲であってほしいとも。
 夢見るだけだけどね。もしかすると叶わない夢なのかもしれない。だから、神様、夢見るくらい、いいでしょ?

「やっぱり本物は高いね」
 ピカピカに磨かれた指紋ひとつないガラスケースの中の指輪を眺めながら思わず本音がもれる。
 普段こんな高いアクセサリーは身につけないし持っていない。田舎の両親に申し訳なくて仕送りはぎりぎりの金額。アルバイトで稼いだお金のほとんどは生活費と交際費にあてていた。たまに洋服や靴を買うくらいで私の耳にはピアス穴すら開いていない。
「やっぱりプラチナだろ?」
「でもそれだと結構するよね」
 神々しく輝いいているプラチナとその上の色とりどりの石。どれもこれも綺麗だけど、どうしても値札に目がいってしまう。
「いつも身につけていたいから石の色は薄めの色がいいんだ」
 ルビーやサファイヤも綺麗だけど私には派手すぎる。
「好きなの選べよ。今までなにも買ってやれなかったんだから」
 と言われてもやっぱり値段が……
「よかったらケースからお出ししますよ。ぜひ実際に指にはめてみて下さい」
 怖気づいている私に店員さんが愛嬌のいい笑顔を見せる。
「はい、じゃあ……」
「プラチナがよろしいんですよね。それですとこのあたりがいいかなと思いますよ。どうぞ。順番にはめてみて下さい」
 四つの指輪が並べられる。ピンクやイエローの宝石は私好みの色合いだった。その中からひとつ選んではめさてもらう。すると店員さんが穏やかに語った。
「ムーンスーンという石は『永遠の愛』という意味があるんですよ」
 ──永遠の愛
 信じていいのか分からないその言葉が今の私には支えのひとつ。青みがかったそのムーンストーンの石は控えめに輝いていて、それでいて儚げだった。
 これなら普段もつけていられそう。店員さんは他にもいろいろな指輪を出してくれたけど、その輝きに魅了されてしまい他の指輪に興味が持てない。無意識に選んだひとつめの石はあの日から失くしてしまった涙の粒によく似ていた。
「玲、これがいい。どうかな?」
「いいんじゃねえ」
「本当?」
「いいと思う」
「……」
 どこかはっきりしない玲の言葉に不満になる。こういうものに疎いのは分かっていたけど、できれば玲の熱意が込められたものがいい。
 だけど「ムーンストーンは6月の誕生石でもあるんですよ」という店員さんの言葉に即決した。私の誕生日は6月。誕生石を選ぶつもりはなかったけど偶然に選んだ石は私の誕生石だった。

 今年の私の誕生日は玲の結婚式と重なった。今まで生きてきた中で一番、孤独で悲しい日だった。
 あの日を思い出すと息がつまりそうになるけれど玲を好きになったことは後悔していない。うれしいと思う一瞬一瞬を繋ぎあわせてここまで生きてきた。たかが恋愛だけど、私にとってはそれが生きるための道しるべだった。
 その道しるべになるような気がした。幸せが途切れた時、指輪さえあれば……
 そして私が生まれてきた意味を、見失いかけたあの頃を、この石はきっとやさしく輝かせてくれるはず。

「ありがとう。これ毎日つけるね」
 お店を出て手をかざしながら右手の薬指を見つめた。重苦しい空にそれは小さく輝いていて私の拠り所となる。
「女に指輪を買ってやったのは初めてだよ」
「私もだよ。初めて指輪を買ってもらった」
 一生、大切にするね。
 楽しい時も喧嘩をした時も大切にする。例えあなたを見失っても、そんな時が来てしまってもずっと大切にする。

 ショッピングモールを歩いている時も私たちの間には常に微妙な距離があった。ふたりで歩いていても常に言い訳をできるように距離感を保っている。そのまま買い物を終えてエレベーターに乗ると駐車場のある階へと向かった。
 夕方近くの寒々としたコンクリートむき出しの薄暗い駐車場。目的を果たした私たちはこのまま家に帰るのみ。
 今日も一日が終わる。物寂しさに包まれながらひとり歩いていると前方を歩いていた玲が振り返った。
 なんだろうと思って玲の顔を見ていると、玲が急に手を差し伸べてきて私の右手を強引に掴んだ。
「玲……?」
 照れくさいのか玲はなにも言わない。だけど繋がれたその手からはちゃんと玲の気持ちが伝わってきて私も強く握り返した。

 ずっと手を繋いで歩いてみたいなと秘かに憧れていた。そんなことをしたら玲は困るだろうと思って今まで手を繋いだことはなかった。それすら叶わない夢なのかなと諦めていた。
 ようやく叶った夢。車までのほんの短い距離だったけど私の気持ちは驚くほど満たされて外の空気とは裏腹にどんどん潤っていった。
 あったかいよ、玲。玲も同じことを考えてくれていたのかな? 普通の、当たり前のことにこれほどまでに感動しているよ。

 だけどその満たされた気持ちは神様が最後に与えてくれた情けの時間? それとも一気に突き落とすために敢えて仕組まれた罠だったのだろうか。
 その光景を一番知られたくない人に見られていたなんて……
 まったく気づかず私は浮かれていた。
            


 

 
 
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