7.崩壊する関係 (021)

 

 そのことを玲から聞かされ私は愕然とした。
「壱也に見られたよ」
 翌日、浮かない顔をして帰ってきた玲が帰る早々、言った。今日の夕方、壱也から電話で呼び出され問いただされたらしい。
「いつ見られたの?」
「昨日の帰り。ショッピングモールの駐車場に壱也もいたらしい」
「嘘……」
 よりによって言い訳ができないシチュエーション。壱也はきっと私を軽蔑したはず。奥さんがいる玲と手を繋いでいたのだから。
 しかも壱也は私ではなく玲を呼び出し問いただした。私には何の連絡もない。それだけに余計怖い。
 できれば真っ先に怒鳴って欲しかった。どういうことだとなじって欲しかった。その方がどんなに楽だっただろう。
「なんて言われたの?」
「明日香とはいつからなのか──しらばっくれるわけにもいかないし、ありのまま話した」
 そうしたことは仕方のないこと。現場を見られてしまっているのだから嘘をついたところで説得力に欠ける。それに誤魔化そうとすればするほど壱也を傷つけることになる。壱也はすべてを悟ってしまったのだから。
 玲は力を落としたように床に腰を下ろし私も隣に座らた。
「バレちまったなあ。でも壱也なら言いふらすことなんてしないだろう」
「うん。そうだね」
 でも会わす顔がない。今は大学が冬休み中だから会わずにすむけど、この先ずっとというわけにもいかない。覚悟が必要になる。

 なにかが変わり始めようとしていた。それを玲も感じていたのだろうか。
 玲の唇が私のこめかみに落とされた。やさしく何度も落とされたその唇は、私の頬を伝って唇を奪う。私を不安にさせないように。何度も何度も。
 キスは嵐のように降り注ぎ、目の前がどんどん霞んでいく。切ない気持ちが押し寄せてきてようやく自分の置かれている状況をはっきりと理解した。私が立っている場所はもうとっくに希望の光も届かない絶望の淵なのだと。


 ◇◆◇


 冬休みが終わり今日からまた大学が始まる。休み中、一度も壱也から連絡はない。もともと頻繁に連絡を取り合っていたわけではないのでそれを考えれば別に普通だけれど。
 しかし今日、どんな顔をして会えばいいのか分からない。一限目は壱也と同じ講義がある。

 大学に着くと、さほど広くない教室で私はひとり腰をおろした。席は自由だから壱也が近くに座るとは限らない。だけど俯きながらも教室の後ろの方で人が出入りする度に意識がそこに集中する。
「壱也!」
 同じゼミの男の子の声がした。壱也が教室に入ってきたんだと分かったけど、どうしても顔をそちらに向けられない。
 壱也はどこに座るんだろう? 
 結局、顔を上げられないまま授業が始まった。私の視界に壱也はいないが教授の言葉なんて耳に入らない。意味もなく教科書の文字を目で追い、頭の中では“どうしよう”の文字だけ。黒板の文字をただノートに書き写し、時間だけが経過した。

「では、今日はここまで」
 教授が教室を出て行った。途端に椅子を引く音がガタガタとなり大勢の人たちが移動をはじめた。
 私も今のうちだと思い、みんなの流れに紛れて急いで教室を出た……つもりだったのに私の行動を先読みしていたかのように廊下でひとり壁に寄りかかっている壱也がいた。視線は私に向けられていたので足を止めざるを得なかった。
「明日香、ちょっといい?」
 冷たく名前を呼ばれ身体が凍りつく。
 目撃された日からもう何日もたっているのに、このタイムラグにどんな意味があるのだろう。壱也なりに思うことがあり、考え抜いた末の決断で私に声をかけてきたのだから、私は逃げてはいけないんだとこんな馬鹿な頭でもそれは思う。
「……うん」
 小さく返事をすると先に歩く壱也のあとを遅れないように追った。大勢の学生が久しぶりの友人との再会に笑顔を溢れさせながら行きかう廊下を私たちふたりは無言のまま通り過ぎた。見慣れているはずの目の前の背中が遠くの存在に感じ悲しくなる。それでも震える脚をなんとか動かし歩き続けた。

 やがて辿り着いたのは校舎を出た中庭のイチョウの木の下のベンチ。お気に入りの場所もすっかり景色が変わっていた。温かな色のイチョウの葉がすっかり落ち、裸になった木が余計寒々とした印象を与えていた。
 冷えた空気が充満する空間に私たちは並んでベンチに座った。隣同士だから顔が見えない。だけど壱也の目をまっすぐ見ることは到底できないからちょうどよかった。
 もうすぐ次の授業が始まるため、ここには私と壱也のふたりきり。少し沈黙が続いたあと壱也が口を開く。

「玲さんから聞いた? 俺がふたりを見かけた話」
「聞いた」
「ふたりの関係は玲さんが結婚する前からなんだってな」
「……」
「俺、ぜんぜん気づかなかったよ」
「ごめん。このことを知られたら壱也に軽蔑されるんじゃないかと思って、言えなかった」
「軽蔑したよ」
「……」
 直接言われるその言葉は想像以上に私の胸に突き刺さった。
 そういう覚悟をもって玲とつき合ってこなくてはいけなかったはずなのに。いざその言葉を聞くと私の覚悟なんてないに等しいものだったと気づく。
「明日香、よく考えろよ。玲さんには奥さんがいるんだぜ。未来なんて絶対ないんだぞ!」
 壱也が私の方を向いて強い口調で言った。
「そんなこと──」
 分かってるけど。でも……
「──ないもん。だって玲はいずれ奥さんと別れるって言ってくれた」
「明日香は今、玲さんしか見えないからそんなことを真に受けているみたいだけど、結婚した男はそう簡単に離婚なんてできないんだ。よく考えれば分かることだろ? 恋人同士が別れるとはわけが違うってことを」

 不倫している友達に掛ける言葉としては当然な言葉だ。別れるべきということは。でも私は少なくとも玲との未来を夢見ていたし、きっといつかは、という思いも少なからずあった。
 そしてとにかく誰になんと言われようと玲と別れたくない自分がいた。味方なんてやっぱりいないんだ。壱也に言われて改めて気づいた。

「でも、もう後戻りなんてできない。子供がいようと、壱也に軽蔑されようと別れるなんて考えられないよ」
 だってこんなに好きになってしまったから自分ではどうしようもないの。引き返せない場所まで来てしまったの。
「子供?」
 壱也がびっくりしたように訊き返す。
 玲の奥さんが妊娠しているということを知らなかったらしい。
「たぶん、もうすぐ生まれるんじゃないかな」
「だったら、なおさら別れるしかないだろ! 玲さんの性格なら子供を見捨てるはずがない」
 私は立ちあがった。胸が痛くてどうしようもない。
「明日香!?」
 自分の置かれた立場を客観的に指摘されることは初めてだった。反対されたこともショックだったし、私が敢えて考えることを避けてきたことをズバリ言われたことも辛かった。

 本当は分かってた。そんなの分かってたよ。玲がそういう人じゃないってことぐらい。
 だけど私にも少しは希望があるのかなって相反する考えをしてしまうの。

「明日香!」
 あとを追ってくる壱也の声を無視して私は走り出した。なにから逃げようとしているのか自分でも分からずに。
 なにがしたいんだろう。逃げてどうする? 壱也は責めていたわけじゃない。ただ、現実を私に教えてくれているだけなのに……逃げてもしょうがないのに、とことんまでの自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。

「待てよ」
 あっという間に追いついた壱也。体格、体力とも男に敵うわけない私の腕を簡単に掴み取って静止させる。反射的に壱也の顔を見上げると辛そうな表情を浮かべているのが目に入った。
 私もその顔に涙目で訴える。
「自分が最低な人間だってことも分かってる。言われなくても、そんなこと、ずっと思ってたよ」
「明日香……」
 初めて聞く壱也の弱々しい声。私の名を呼ぶその声を聞いた瞬間、身体ごと思いっきり引っ張られ、厚い胸板に顔を押しつけられるように壱也の体の中にすっぽりとおさまっていた。
「壱也……?」
「違うんだ」
「え?」
「さっき軽蔑しているって言ったけど、そうじゃなくて……俺は玲さんが許せないんだ」
 壱也は強い力で抱き締めてくる。その力が強すぎてされるがまま。
「壱也?」
 そして腕の中で身動きできずにこの状況の意味を考える。突き放されたと思っていたからこの状況が信じ難かった。
 ダメだよ、私はやさしくされる資格なんてないんだよ。軽蔑されるのも怖かったけど、こうしてやさしくされることも怖いのだと知った。
「壱也、誰かに見られたらまずいよ」
 仮にもここは大学の中庭。周りに人はいなくても誰が見ているとも限らない。

 そっと体を離された。でも壱也の顔を見ることができない。壱也とこんな雰囲気になるのは初めてだし、男と女の関係を意識したこともなかったから。
 それでも俯いた私に壱也は諭そうとする。
「玲さんはやめとけ」
「だからそれは無理だよ」
 例えすべてを知られてしまっても譲れないものだった。
 玲との関係を解消するということは私が私ではなくなること──それくらい必死な思いで愛していたから。

「玲さんは離婚する気なんてないぜ。この間、電話で話をした時に玲さんがそう言っていたんだ」
 それなのに、どうして?一番信頼をおいていた人間が私を裏切ろうとしているの?
「それ、どういうこと? 離婚する気がなかったのに、私と一緒にいたということ?」
「ああ。そうだよ」
「嘘だよっ! そんなはずない。確かに玲は別れるって言ってたもん」
「明日香! 頼むから、いい加減、目を覚ましてくれよ。離婚はな、ひとりで決められるもんじゃないんだよ。玲さんの奥さんは離婚する気がないらしいし、奥さんの両親も離婚に反対している。玲さんの気持ちだけでは動けないんだよ」

 長い時間をかけて積み上げてきたものがいとも簡単に崩れ落ちていく。近くにいたのになにも見えていなかった自分。
 これが現実なの? 敵は『世間』や『社会』ではなかったということ?
            


 

 
 
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