7.崩壊する関係 (022)

 

 奥さんが離婚を拒んでいるということは初めて聞いたことだった。
 だけどそんなことを今さら言われても玲と私は現に今、一緒に住んでいるし、玲が愛しているのは私……のはず。
 それなのに捨てるつもりだったの? 私が思い違いをしていたの?
 信じたくない。訊かなきゃ。壱也が言っていたことが本当なのかを。

 逃げるように家に帰ってきた。壱也がどんな気持ちであんな行動をとったのかを考える余裕すらなかった。
 やがて陽も暮れ、帰宅してからかなりの時間が経過していたようだった。
 照明はもちろん、暖房すらつけていない寒々とした部屋の中で私はじっと布団に包まり玲が帰ってくるの待っていた。
 玲を信じたいとただそれだけを思って……

 だけど、それは見事に打ち砕かれることになる。
 帰宅した玲は私を見て驚いて言う。
「明日香、どうした? 具合でも悪いのか?」
 何も知らない玲はいつものようにやさしく話しかけてきた。
「玲に訊きたいことがあるの」
「訊きたいこと?」
 玲はベッドに腰掛け、私も布団から這い出てその場に腰をおろす。こちらを見ながら、いつものように私の頭を撫でる仕草は限りなくやさしくて。一瞬、言っていいものか躊躇しながらも私は勇気を振り絞った。

「玲はいつ、あの人と別れるつもりなの?」
 こんなにも冷静でいられることが信じられなかった。ずっと言えずにいたことをすんなりと口にでき自分でも驚いている。
「それはまだ分からない。いつ、という約束はできない」
「じゃあ、言い方を変える。そういう話し合いは進んでいる?」
「どうして急にそんなこと言うんだよ。なにかあったのか?」
「答えてっ」
 私は語尾を強くする。私の問いに玲は話を逸らそうとしたことがずるいと思った。またそれが答えだとも思った。
「嘘なんでしょ? 前に別れるって言っていたこと。本当は最初からそんな気がないのに私とつき合ってきたんでしょ?」
「そんなわけないだろ。あいつとは別れるよ。ただ今すぐは無理なんだ」
「私はいつまで待っていればいいのか、はっきりした期日がほしいの。せめて離婚の話し合いだけでも進めてくれていると思っていたのに」
 もしかすると玲がここに帰ってこない日は、あの人の所に帰っていたのかもしれない。本当は騙されていて、未来を夢見ているのは私だけだったのかもしれない。
 マイナスな感情が涙とともに次々に溢れてきた。久しぶりに泣いたような気がする。

 玲の結婚を知った時から私はトラウマに悩まされ、あの時の感情にいつも押しつぶされそうだった。
 ずっと耐えてきた。嫉妬や妬みに加え、自分自身の醜さにも。
 それが今日、玲の前で静かに爆発した。

「壱也がなにか言ったのか?」
 やっぱり玲は答えてくれない。それはつまり、これだけの長い月日があったにも関わらずなんの進展もないという意味になる。今日、壱也に言われたことが真実なのだ。
 私のために力を尽くしてくれることが愛の証だと思っていた。どんなに大変だとしても玲はきっとなんとかしてくれるのだと都合よく考えていた。でも違ったんだよね。
「もう分かったよ、玲。嘘はもういいよ。できない約束はいらないから」
「明日香、違うんだ。離婚の話ならちゃんとしてる。だけどあいつもあいつの両親も聞く耳を持ってくれないんだ。子供のことだってあるし」
「子供のこと? それは私には関係のない話でしょ。第一、私とつき合っている間に他の女の人とそういうことして子供まで作って……私にはそういうことまで配慮できる余裕なんてないの!」

 私、最低だよ。人として、酷いことを言っている。でもそれが本音だった。これが私なんだよ。
 もう終わりなのかもしれない。
 自分のことしか考えられない今の私は玲を一途に想う資格もなければ想ってもらう価値もない。
 奪おうとしたのは私のほうなのに。手に入らないと分かった途端、愛も信頼も薄汚れていった。

「もう疲れた」
「明日香……」
「もっと普通の恋愛がしたかったよ」
 とうとう言ってしまった。自分ですべてを否定しまったらもう最後。玲はたぶん私を追うことはしない。離婚の目処がたっていないからできないのだ。
「俺には明日香を縛りつける権利なんてない」
 ほらね。やっぱりだよ。玲はこの数ヶ月間、その答えを抱きながら私と生活をともにしてきたんだよね。
 急にクリスマスプレゼントをあげたいと言い出したのだって、私たちの間になにも無さ過ぎたから、せめて形に残るものをと思ったんでしょう?
 私たちが終わりを迎える時──例え、いがみ合って別れても玲の気持ちを形として残してくれようとしたんでしょう?

「明日香。今まで、ごめんな」

 最後の最後で謝るなんて卑怯だよ、玲。謝られたら、涙を我慢できないじゃない。
「俺なんかのために泣くなよ」
 玲から言われた別れの言葉。最初に切り出したのは私のはずなのにこんなに傷つくのはなぜ?
 最後の玲の言葉にどん底に落ちた私はその言葉を黙って受け止めるしかなかった。言葉の代わりに押し流される涙を玲は拭ってくれなくて、これで本当に終わりなんだと思い知る。
 こんなはずじゃなかったのに。私はただ安心させてくれる言葉をかけてもらいたかっただけだったのに。

 私の頭にぽんっとやさしく手を置いたあと、玲は部屋を出て行った。
 ──荷物はあとで取りに来るから
 そう言い残して。
 ドアの向こうから鍵がかけられ部屋の郵便受けに金属音がした。一緒に住むようになって渡した合い鍵だった。
 こんなにあっけないものなんだ。生涯、これ以上人を愛することなんてないと言えるぐらい大好きだった人との別れが…──


 次の日になり、冷たい部屋に今日も朝の陽射しが差し込んでいた。
 泣き続けたせいもあって頭が、がんがんする。
 夕べは一睡もできなかった。今も目を瞑り、眠ろうと努力するけど、とても眠れそうになかった。

 そして、いつしか陽が陰り、辺りは薄暗くなっていた。
 静寂の中、部屋のインターホンが鳴る。
 玲かな? ううん、そんなはずない。
 私は布団から這い出て恐る恐るドアスコープから来客者を確認した。
 そこから見えたのは若い男性の姿──壱也がどうして?

 昨日から泣き通しで酷い顔だからこのままドアを開けることはためらわれる。
 どうして突然に来るの? 今までそんなことなかったのに……
「いるんだろ? 明日香」
「……」
 返事をしなかった。諦めてこのまま帰って欲しい。だけど今度は何度もドアを叩く音がする。
 どうやら私がここにいることは壱也はお見通しのようで、このまま居留守を使うわけにもいかず観念するしかなかった。

 そっとドアを開ける。玄関先で用が済むならそうして欲しい。顔をあまり見られないようにドアをわざと少しだけしか開かなかった。
 なのに……
「あっ!」
「大丈夫か?」
 開口一番に私を心配する声と一緒に、勢いよくドアが全開になる。
「どうしたの? 別に私は大丈夫なんだけど?」
 昨日の大学でのことを言っているのかな? なにに対しての大丈夫なのかよく分からないけど、取り敢えずそう返す。
「なに強がってんだよ。泣き腫らした目をしやがって」
 そう言って俯き加減だった私の顎を持ち上げる。
「やめてよ!」
「とにかくここじゃなんだから入るよ」
「え!? ちょっと勝手に入らないでよ!」
 だけど嫌がる私の言葉は完全に無視され壱也が玄関の中に入り込んだ。壱也がこの部屋に来るのは私が風邪をこじらせた時以来だ。

「せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」
 昨日そのまま化粧も落とさずに布団に入ってしまった。しかもかなり泣いたから、さぞかしおぞましい顔になっているはず。お願いだから、見ないでよ。ていうか、帰って欲しいんだけど。
「私のことは放っておいて」
「そんな顔して放っておけるわけないだろ」
 今の私はぼろぼろ。顔も心も醜くてなにも悪くない壱也にまであたってしまう。昨日の今日なのに壱也はいつも通りの余裕の態度で、私と言い争いをしたとは思えないほど落ち着いていた。それが余計腹立たしい。
「壱也の言った通りだったよ。玲に離婚のこと問いただしたら困ってた。今すぐは無理だって……ざまあ見ろだよね……これでよかったんでしょ!?」
 悔しさと悲しさがごっちゃになって、我慢していた涙が再び漏れだす。もうどうでもいい。どうせみっともない姿を晒し済みなのだから、今さら泣いている顔を見られてもどうってことない。
「そんなこと、思ってねえよ。俺はただ……」
「ただ……なに? 奥さんや子供のことを考えろとか言わないでよ。そんなことできるんだったらこんなに好きになったりしない」
「だから違うんだって!」
 泣きじゃくる私の両肩を壱也はがっしりと掴んで私を落ち着かせようとなだめる。壱也ってこんなに情熱的だった? 私なんかのためにどうしてそこまで構うのよ。なんでそんなにやさしくするの?
「玲さんから話を聞いて、最終的に傷つくのは明日香だって思ったから……俺も昨日あんなこと言っちゃったけど玲さんは玲さんなりに明日香のこと考えていたと思うよ。だけどやっぱり男としての責任もあるから、明日香と別れることを選んだと思う。玲さんはそういう男だから」
「壱也……なんで……?」
 どうして壱也はそんなふうに思えるの? 壱也はこれほどまでに玲のことを認めている。それなのに……私は玲のことを分かっていたはずなのに、いざ自分が見捨てられると乱されてしまう。
 だけどいい加減、私も認めないといけないのかな? 玲は、私が罪悪感と愛情の狭間で葛藤して苦しんでいたことを知り、私のためを思って身を引いたんだってことを──

 不思議なことに、私の肩を強く掴むその痛さがやさしさとなって私にしみていく。私を非難しているんじゃなくてまわりが見えなくなっている私を導こうとしてくれている。そしてそこには私の嗚咽だけ残り、壱也の腕はすでに私の身体を包んでいた。
            


 

 
 
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