7.崩壊する関係 (023)

 

「落ち着いたか?」
 腕の中で静かになった私を見て頭上からそっと声が落とされた。
「……うん」
 でもこの状況に自分がどう動いていいのか分からない。冷え切った玄関で私の身体は壱也の腕の中。体中が冷えるほどの空気の温度だけれど、開いていたマウンテンパーカーの胸元から感じる壱也の体温はあたたかい。
「寒くないか?」
 ずっとこうしていればきっと寒くなんてないと思う。友情でも愛情でもない、人の情が心地よい。
 だから私は頷いた。
「俺は寒いんだけど?」
 しんみりした空気を打破するかのような壱也のおどけた言葉。私の身体も冷えないように配慮してくれていた。
「今、エアコン入れる。あがって」
 それがきっかけで居心地の悪くない壱也の腕の中からスルリと抜け出した。
「よし。じゃあ、飯食うぞ」
 そう言って壱也は床に置いてあった袋を胸のあたりまで持ち上げる。
 そういえばさっきからいい匂いがしていると思った。見覚えのある紙の袋の中身は確認しなくてもなんなのかは検討がつく。
「冷めちゃったね、ハンバーガー」
 その袋を受け取り生ぬるい袋の底を確認した。
「でも食えるだろ?」
「うん。ぜんぜん平気」

 少しぺちゃっとなったハンバーガーをふたりで味わった。食べ慣れている味、しかも水っぽいバンズなのに不思議とおいしく感じる。
 そういえば昨日の夜から丸一日なにも食べていなかった。こうしてハンバーガーを食べるまで、さっきまでお腹が空いていたことすら気づかなかったのだ。だけどこんな時でも食欲はなくならないなんて。どれだけ神経が図太いのだろう。
 壱也は今の私をどう思っているのかな。私のしてきたことは軽蔑に値する。ましてや玲の奥さんとも面識があるから複雑なはずなのにこうして心配をしてくれている。
「いろいろとごめんね」
 玲との関係を黙っていたこと、八つ当たりしたこと、いつも心配かけていること。全部まとめて謝った。
「別にいいって。明日香は自分から人を頼らないから俺がこうして面倒見てやらないとな」
「こんなこと、初めてだね。だけど本音で話せてよかった」
 今まで本気の言い合いなんてしたことがなかった。いつもどちらか一方が引いてきたからうまくまとまっていたものと思っていた。だけど激しい感情をぶつけたり醜態を晒したりしてもこんなにもうまく落ち着いてしまう。
 例えようのないこの関係。私たちの関係は限りなく特別なものだった。


 ◇◆◇


 あれから一週間。
 また普段通りの生活に戻った。戻ったといっても傷が癒えたわけでもなく空虚感は残ったまま。
 もともと少なかった玲の荷物がやけに存在を主張するのが辛い。
 とりあえず紙袋に荷物をまとめておいた。ほとんどが洋服類、それと仕事の資料が少し。
 洋服はともかく仕事の資料は早く返さないと困るよね。
 玲からはきっと私に連絡しづらいと思い、夕方私からメールをした。いまだに消せないアドレスは荷物を返すためと自分に言い訳をして残してある。

 そしてその日の夜に玲が訪ねてきた。
 ドアを開けると前と変わらないスーツ姿。見覚えのないパリっと仕立てられたワイシャツがクリーニングのものなのか、それとも違うのか。どちらにしても夜遅くまで仕事をしている玲がクリーニング屋さんに行くことは考えにくい。
 目線は玲に合わせることはできなかった。

「悪かったな。洗濯もしてくれて」
 声だけが胸に響いてくる。もうこの声を聞くこともないのだと思うといたたまれない。
 それでもなんとか声を絞り出した。
「こっちに仕事の資料が入ってるから」
 二つ目の紙袋をそっと差し出した。
「ここに置きっぱなしだったんだな。助かったよ」
 やっぱり必要な資料だったのだとほっとするも、それが私の手から離れた瞬間に私たちの最後の繋がりが途絶えてしまった。
「もう会うこともないね」
 最後の強がりは自分への誓い。これで本当に最後ということを自分自身に植えつけるため。
「明日香……」
 悲しく私を呼ぶその声はふたりの間に落ちて消えた。
 元気でね、そう言い残しドアを静かに閉じると堰を切ったように溢れる涙。私は自分の携帯を手に取り、愛しい人のメモリを削除した。
            


 

 
 
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