11.最初で最後の囁き (030)

 

【3月】Asuka[大学4年]


 そして時は過ぎ……

 卒業を間近に迎えたある日。
 私の未来を大きく変える出来事が起こった。
 これが予想のつかなかった答え──

「別れよう」
「……壱也?」
 私の部屋でいつものように過ごしていた時に突然告げられた言葉。いや、正確にはそれは突然ではなく知らなかったのは私だけで壱也の中ではもうずっと前から選択肢の中にあるものだった。
 壱也の顔は悲しそうでもなく苦しそうでもなく。その表情が、軽く放たれた言葉に追い打ちをかけ私を酷く混乱させた。
 つき合って一年と三ヶ月。お互い向き合って努力し合って、順調にいっていたと思っていた私たちの関係が独りよがりのものだったのかと、その月日を思い返した。

「俺たちもう終わりにしよう」
「だから、……どうして?」
 震える声を止めることができない。私を離さないと言ってくれたあの言葉が呆気なく裏切られた瞬間だった。
「たぶん、俺たちもう無理だよ」
「意味、分かんないよ。他に好きな人ができたの? それとも私のことが嫌いになったから?」
「どっちも違う」
 必死な私にふと見せたやさしい眼差し。
「じゃあなんで? はっきり言ってくれないと分かんないよ!」
 考えても思いつかない。他に好きな人ができたわけでもないし、私を嫌いになったわけでもない。でも原因はやっぱり自分にあるんだと再び考えを巡らせた。
 だけど、次の言葉が私をどん底に陥れた。

「来月、日本を離れるんだ」
 日本を、離れる……?
 青天のへきれきとはこのこと。あまりにも突拍子もない事態が私に降りかかった。
 私だけ、激しく動揺している。壱也はいたって冷静。
「つまり海外に行くってこと、だよね?」
 考えても分かるわけなんてなかった。いきなり日本を離れるなんて誰が想像つくだろう。
「来月、就職して研修が終わったらすぐニューヨーク支社に行くことになってる」
 ニューヨーク、しかもそんなに急に……どうして今になってそんなこと言うの? もっと早くから分かっていたんでしょ? 納得いかない部分が多すぎる。
「ニューヨークに行っている期間はどれくらい?」
「それは分からない。二年か三年か……十年か……」
 十年……そんな簡単に言えてしまう壱也が信じられなかった。それとも理解できずにいる私の方がおかしいの?
「ニューヨーク支社に行くことはいつから決まっていたの?」
「内定をもらった時」
「そんなに前から?」
 壱也が内定している会社は大手の設計事務所。ニューヨークやバンコクに支社があり、そのニューヨーク支社に空きがでるために壱也に白羽の矢が向けられたそうだ。そして建築や設計を熱心に勉強してきた壱也を事務所の社長が見染めて、壱也をニューヨークで一から育てようと思ってくれたらしい。
「どうして、もっと早く話してくれなかったの?」
 すると壱也は改めて私に向き直して真剣な眼差しで言った。
「内定をもらった時、正直迷った。ニューヨーク行きを断っても内定は取り消さない約束はしてくれてはいたけど。でもこの機会を逃すともうチャンスがないかもしれないと思った」
 ニューヨークという洗練された土地で設計士として仕事ができるというのは、またとないチャンス。壱也がそれに賭けようと思う熱意も分からなくもない。
 ──応援したい
 壱也の夢を誰よりも応援したいと思っていた私だったはずなのに、その考えを受け入れようとする自分とそうじゃない自分が大きく入り乱れる。
 だってそんな大事なことを今、別れの言葉とともに言われても、納得できない。
 相反する自分がいた。


 長い長い沈黙が続いた。
 私は自分の頭の中を整理して、今までのことを振り返っていた。
 壱也に助けられた数々の出来事。私を大切にしてくれた日々。いろいろなことが思い出されるけれど、どれもこれも壱也が私に与えてくれたのは全部『幸せ』だった。こんなにも愛されていた。

 だったら私はどうするべきか…──

「壱也はこの一年、私と別れることを前提でつき合っていたんだね」
「そういうわけじゃない。俺だって別れたくな──」
「いいよ、別れよ」
 きっとそれが最良の選択。ニューヨークに私は行けない。例え壱也がついてきて欲しいと言ってくれたとしても。だからといって離れ離れになってしまっては、ただでさえ危うい私たちの関係は醜く崩れ去っていくことだろう。
 悲しいけど、どちらにしても結論は同じ。だから私は壱也の言葉を遮って別れを口にした。
 壱也もきっと同じように思っていたから別れることを選んだんだよね。だから、別れてあげる。引き止める権利なんてない。“行かないで”なんて言えるわけがない。
 大人になることは大変なんだね。世界が広がっていく分、自らの意思で選択を迫られる。たとえそれが悲しい選択だとしても。

「いつニューヨークに発つの?」
「4月26日」
 約一ヶ月後。短いな。すごく辛いよ、壱也……。でもこの思いを壱也はもっと長い期間、ひとりで抱え込んでいたんだね。最高のやさしさを、壱也は最後に私にくれたんだ。
「見送りになんて……行って……あげない…から」
 堪えていた涙が溢れだす。
 あと一ヶ月で壱也はいなくなっちゃうんだ。
「泣くなよ、明日香。俺だって本当は別れたくないんだ」
「いち……や……」
「好きだよ。今でもお前のこと、すげー好きなんだよ」
「……うん」
「本当は、お前のこと、誰にも渡したくねえんだよ……」
 フローリングの冷たさは、まだ訪れない春のせいでじんじんと私の体温を奪っていく。床に座り俯く私はそのまま壱也の温かい胸に引き寄せられた。壱也の足の間におさまった私はすっぽりと抱きかかえられ壱也のシャツの胸元を濡らす。
「だけど酷いよ。ずっと隠しているなんて……」
 壱也が泣いている私の背中をリズムよくやんわりと叩く。
「別れたくなかったから、ぎりぎりまで言えなかった。それに俺と別れたあとにすぐ明日香が他の男とくっつくところを見たくなかったから」
「すごい自分勝手」
「だろ? 俺は独占欲の塊なんだよ」
 やさしい声に包まれて、気持ちがどんどん落ち着いていく。背中の温もりも心地よくて、私たちの関係がもう終わりを迎えたなんて信じられなかった。
 壱也の温もり中にいると変な錯覚に陥る。いつも守ってもらってばかりだったから、それにあまりにも慣れ過ぎて、この先もそばにいてくれるんじゃないかと思ってしまう。
 だけど、それももう終わりなんだね。私は本当の意味で変わらなくてはいけない。

「明日香が玲さんと別れた時もそうだった」
「なんの話?」
 意味が分からずに訊き返す。
 見上げると壱也は唇をぎゅっと噛みしめて、遠い昔を思い出しているようだった。
「あの時、実は玲さんから電話があったんだ」
「え?」
「ふたりが別れた翌日、玲さんに『明日香のことが心配だから様子を気にかけてくれ』って言われたんだ」
 まさか玲が壱也に電話をしていたなんて。どちらかというと壱也と私の関係にヤキモチを妬いていたのに。
「なのに俺、それを利用して明日香のことを自分のものにした」
 そう言って自嘲気味に笑う。
「そんなことないよ。私はちゃんと自分の意思で壱也を選んだんだよ」
「でも玲さんは別れたあとも明日香のことをずっと想っていた。時々、電話がかかってきて俺に様子を訊いてきた」
「連絡を取り合っていたの?」
「向こうからかかってくるんだよ。でも正直、玲さんが邪魔だった。だから俺、玲さんに明日香とつき合うことになったことを言って、もう二度と俺と明日香の前に現れないでくれって頼んだんだ」
 玲との話を聞いても不思議と落ち着いて聞いていられた。
 玲のことを忘れたわけではなかったけど、壱也はいつも私の傍にいてくれて、ありえないほどの大きな愛情で包んでくれていたから日に日に玲のことを考えることが少なくなっていった。
「珍しいね。壱也がそんなふうに言うなんて」
「だからさっきも言ったろ。俺は独占欲の塊だって」
「でもそれが正しかったんだよ。だから私はずっと幸せでいられたの」

 そして最後に壱也がくれた幸せ──

 流れ落ちる涙にキスをくれて

「愛してた」

 最初で最後の『愛』を囁いた。
            


 

 
 
inserted by FC2 system