12.大好きだった人 (031)

 

【4月】Asuka[社会人一年目]


 大学を無事卒業した私たちはそれぞれの会社に就職をした。慣れない環境に翻弄されつつ、それでも新たな夢を持ち、もみくちゃにされながら毎日仕事をしていた。
 明日、壱也はニューヨークに発つ。かろうじてメールのやり取りだけはあったけど、卒業式以来、壱也とは会っていない。
 あの時、私は『見送りに行かない』と強がった。その言葉の通りだったら、もうこれでサヨナラだけど……でも、どうしても最後に直接言いたいことがあった。

「あの、……真鍋(まなべ)課長。明日、午後から早退してもよろしいでしょうか?」
 怖々と告げる。
 入社したばかりで有給休暇も発生しない私が病気でもないのに早退を申し出るなんて、かなり勇気がいることだ。
「理由はなんだ?」
「成田空港まで友人を見送りに行きたいんです」
 どうしても明日、壱也の見送りに行きたい。旅立っていく最後の姿をこの目に焼きつけたかった。
「片瀬。お前、自分の立場を分かっているのか? 新人の立場で……」
「分かっています。お給料は日割り計算で構いませんから」
「そんなの余計に面倒臭いだろ」
「……すみません」
 やっぱりダメなのだろうか。
 しばらく無言のまま了承してくれない上司に半ば諦めかけていたのだが……
「あー! まったくしょうがねえなあ。行ってこい!」
 ……え? いいの?
「はい! ありがとうございます!」
 ぶつぶつと文句を言いながらも真鍋課長は了承してくれた。
「その変わり、今度の土曜日はその分俺の手伝いな」
 だけど私の出した早退届を突っ返してきて、意地悪そうに言ったのだった。
「……分かりました」
 しぶしぶ返事をして返された早退届を握りしめた。
 休日出勤。やっぱりそうきたか。
 それにしても、あの態度──間違いない、真鍋課長は、絶対にSだ。

 現在、私は『長谷川コーポレーション』の営業部に配属され、主に商業施設を担当している真鍋課長の部下としてしごかれている。
 仕事の内容は真鍋課長の指示で図面を直したり簡単なプランを作ったりという初歩的なこと。今は言われるがままにしか動けないけれど、これから先、自分がステップアップしていくことを目標に充実した毎日。
 そして私の上司である三十代半ばの真鍋課長はなかなかのやり手。さらにいまだに独身を貫いているので女子社員注目の人でもある。
 営業部に配属が決まった時、同期の女の子たちからはうらやましがられたけれど、実際、仕事を教わっている立場として言わせてもらうと、あれは、ただの鬼にしか見えない。


 次の日になり、急ぎの仕事をなんとか片づけると時刻は14時を過ぎていた。
 壱也の出発は18時頃だということは1週間ほど前のメールで知った。ここから空港までは乗り換え時間も含めて二時間以上は軽くかかる。
 会社を出ると、急いで空港に向かった。そして電車を乗り継ぎ空港に着いたのは16時半。私は、急いで搭乗手続きのあるロビーへと走った。
 5月の大型連休前ともあって見渡す限りの人、人、人。
 壱也、どこにいるのよ?
 これだけの人の中から壱也を見つけることはかなり難しい。見送りに行くこと、ちゃんと言っておけばよかった。携帯電話に電話をしてみたけどやっぱり解約されていてひとり途方に暮れていた。

 でも出発までまだ時間がある。きっとまだこの辺りにいるに違いない。そして出発ロビーへ向かい、フロア中を懸命に探していると……
「明日香!」
 一ヶ月振りに聞く壱也の声。
「よかった。会えないかと思った」
「どうしたんだよ。見送りには来ないって言ってたくせに。それより仕事は?」
「早退してきた。どうしても最後に壱也に会いたくて」
「すげえうれしいこと言ってくれるじゃん。そんなこと言われると離したくなくなる」
 そう言って私の背中にまわされた腕。こんな人混みの中なのに恥ずかしいなんて思わなかった。こんなふうにされるのも、本当に最後。これからはお互い別々な場所で違う夢を追いかけ、そして違う人とまた恋をする。私は恋なんて当分考えられないけど、十年後ぐらいにお互いが再会した時、きっと壱也の隣には別の誰かがいるんだろな。
 私は、どうだろう?
「壱也、今までありがとう。大好きだったよ」
 最後に言いたかった言葉。
 俯いて壱也の胸におでこをくっつけると床にぽたぽたと雫が落ちていった。
「俺も……」
 そう放った言葉の続きを聞くことができなかったのは、壱也が言葉につまっていたからで……
「……やべえ。俺、泣きそうだよ」
 堪えるような声が私の涙を加速させた。
「壱也……」
 今日でお別れ。もう、しばらくは会えない。その姿も、その声も、この温もりも、この匂いも、全部、忘れないように……
「泣くなよ」
「そんなの、無理……」
 私たちはそのままの状態で別れを惜しんだ。もうそれ以上の言葉はいらない。ただ互いの存在を確かめ合って感じていたかった──


 出発の時間。
「じゃあ、そろそろ行くな」
 見送りはここまで。この先は私は立ち入ることができない。
「壱也」
「ん?」
「体には気をつけて」
「ああ。明日香も早くいい男見つけろよ。俺も向こうでブロンドの女の子を口説いてやる」
「その前に女の子を口説けるぐらいに英語を上達させなくちゃね」

 搭乗口に消えていく壱也は凛々しかった。
 私は一生忘れない。壱也のすべてを。一緒に過ごしてきた時間は決して多くはないけど、それでも深く濃密な時間だった。
 全部大切にするよ──

 こうして壱也はニューヨークに行ってしまった。
 壱也の携帯電話は解約されていたしニューヨークの連絡先も敢えて訊いていない。だけど、それでもきっと大丈夫。同じ業界で仕事をしていれば、きっとどこかでまた巡り合うはず。
 いつか壱也が設計した建物を目にすることがあるよね。
 壱也。私、目標ができたよ。いつか壱也の設計した物件に携わりたい。壱也が日本にいつ戻ってきてもいいように、私はもっともっと仕事を頑張るよ。
            


 

 
 
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