14.私の心を乱す男 (034)

 

【5月】Asuka[社会人二年目]


 最初の打ち合わせから二週間後、設計図面と見積りが完成した。その後の金額交渉も上手くいき、無事契約にこぎつけ、あとは細かな図面の修正のみ。たくさんの段取りを経て工事業者も決まり、いよいよ工事がスタートする。
 そして工事の段取りのために今日は現地での打ち合わせだった。ショッピングモールのメンテナンス担当者と設備の下請業者との工程の確認。今日は真鍋課長は一緒ではない。私と建築部の工事担当者のふたりで赴いた。

 メインの打ち合わせは工事工程だったので、主に同行していた担当者のリードで打ち合わせが進む。その迫力ある話し合いにやっぱり私は口を開くこともできず次々にさまざまなことが決められていくのをじっと聞いていた。
 今回は施主側がデザインにとてもこだわりをもっていて何度も設計内容が変更になっていた。その度に修正を繰り返してきたが、工事が始まるギリギリになってもその要望に対応できるよう、私も工程を把握する必要があった。
 そして打ち合わせが終わり、会社に戻った夕方の5時過ぎ。
「片瀬さん、1番にAKホールディングスの霧島さんからです」
 私宛に一本の電話が入った。玲からだった。真鍋課長がパソコンのキーボードに手をかけながらチラリとこちらに目を向けた。

「お電話変わりました。片瀬です」
『実は急遽、壁紙のデザインを変えることになったから見本を持って来て欲しいんだ。明日の夕方は時間ある?』
「はい、大丈夫です」
『ならよかった。16時半にうちの社に来てくれないか?』
「分かりました。16時半ですね」
 受話器を耳にあてながら手帳に時間を書き記す。いたって事務的な会話にいささか驚きながら、相反して、書き記した文字は緊張のため、小さく歪んでいた。

「霧島さん、なんだって?」
 受話器を置くと真鍋課長がさっきの電話の内容を確認してきた。
「壁紙を変えたいそうなので明日の16時半に先方の会社に見本を持って行きます」
「そうか。いろいろ変更が多いから大変だけど頼むぞ」
 見本を持って行くだけなので明日は私ひとりでも大丈夫だと思う。真鍋課長もそう判断したらしく、同行するとは言ってこなかった。


 そして次の日、先方を訪ねるために支度をしていると
「片瀬、俺も行くから少し待ってろ」
 真鍋課長はどこかに電話をしている最中で片手で受話器を押さえながら言った。私ひとりでも大丈夫だとは思ってはいたけど、やっぱり不安もあったし、なにより玲とふたりきりで打ち合わせをすることに抵抗があったのでかなりほっとした。
 そして電話を終えた真鍋課長は上着を持って私に近づく。
「じゃあ行くか」
 颯爽と事務所を出て行く。その華麗な動きに目を奪われ、変に感心しながら私もあとを追った。

 社有車の助手席に乗り込みシートベルトを締める。
「お忙しいのについて来て頂いて、ありがとうございます」
「たまたま時間が空いたからだよ。それに片瀬ひとりで行かせるのは心配だからな」
「はー、確かに」
「やけに素直だな。てっきり“失礼な! 私ひとりで大丈夫です!”なんて言われるのかと思ってたけど」
 いつもの私ならそれくらい突っかかっていたかも。でも今回は事情が違う。
 ハンドルを握った真鍋課長は素直な私に軽く視線を送り、柔らかく笑う。私はただ黙って窓の外を眺めていた。

 玲の会社に到着し受付に立ち寄ると、この間と同じ会議室に通された。ここに来るのはもう何度目だろう。それでも毎回緊張を覚え、身体が強張る。
「お待たせしました」
 会議室のドアが開き、玲が私たちの前に座った。一瞬、目が合ったけど私は気づかないふりをして視線を落とした。
「真鍋課長までわざわざお越し頂いてすみません」
「いえ。時間が空いたもので」
「何度も変更があって申し訳ありません。それでは壁紙の見本を拝見させて頂きましょうか」
「はい。それでいくつかお持ちしました。お勧めはこのあたりなんですが……」
 打ち合わせは結局一時間程続いた。
 壁紙の変更に伴い照明器具のプランも再検討されることになった。打ち合わせの間、私も壁紙の色合いを見ながら、持ち歩いている照明器具のカタログを照らし合わせて顧客の意向を訊き出していく。すると思っていた以上に大きな変更がかかり、真鍋課長が一緒でよかったと心から思っていた。

「それでは今週中にもう一度変更プランをお持ちします」
「では金曜日の15時でいかがでしょう? その時に金額の確認を再度したいと思っていますが……」
 玲と真鍋課長が次の打ち合わせの段取りを進めている。その時、真鍋課長の胸ポケットから電話が振動する音が微かに聞こえた。
「どうぞ。電話に出てください」
「すみません。失礼します」
 玲に言われて真鍋課長が廊下へ出て行った。ドアがバタンと閉まり会議室はまさかのふたりきり。今まで何度か顔を合わせているけど、ふたりきりになるのは初めてだった。
 取り残された空間は玲と初めて会ったあの日のよう。玲を目の前にやっぱりなにも言えないでいる。あの時は、私がどうしようと思っていたら玲の方から声をかけてくれて、思えばそれが始まりだったんだ。

 そんな中、先に声を発したのはまたもや玲の方だった。
「綺麗になったな」
「そんなことないよ」
 首を大きく振って否定すると玲が小さく含み笑いをした。
「最初、びっくりしたよ」
「私もだよ」
 意外に普通に会話が流れた。
「元気だったか?」
「うん」
「壱也と……」
 壱也?
 玲はきっと知らない。私が壱也と一年以上前に別れたことを。おそらくニューヨークへ行ってしまったことも。
 その時、会議室のドアが開き、電話を胸ポケットにしまいながら真鍋課長が入って来た。

「すみませんでした」
「いえ、大丈夫ですよ」
「では、霧島さん。今日はありがとうございました。金額についても見積もりをご用意させて頂き、金曜日の15時にまたお邪魔させて頂きます」
 今の電話のせいなのか、真鍋課長は急いでいるようで会議室に戻って来るなり、そう言った。
「お待ちしています」
「では、我々はこれで失礼します」
 頭を下げて、真鍋課長は会議室を出て行った。私も慌てて資料を持って真鍋課長のあとを追う。
「失礼します」
 でも、そう言って会議室を出た私の後方から……
「明日香!」
 私を呼び止める声がした。
 一瞬、固まってしまった。下の名前で呼ばれたことで先を歩いていた真鍋課長も驚きを隠せないでいる。私は玲と真鍋課長との間でどう動いていいのか分からなくなってしまった。
「あとでゆっくり話がしたい。電話する」
 玲はそう言うと、そのまま私を追い越してエレベーターホールの方向に歩いて行く。その先には真鍋課長がいる。ふたりがすれ違う瞬間、玲が真鍋課長に軽く会釈をして通り過ぎて行った。
 私は玲の後ろ姿を黙って見つめていた。

「行くぞ」
「は、はい」
 すたすたと真鍋課長が歩き出した。私の歩調なんてお構いなし。どんどん私は置いていかれてしまう。
「もう少しゆっくり歩いて下さいよ」
 駐車場に着き、思わず口をついて出てきた。
「ああ、悪かったな」
 乱暴にバタンッと運転席のドアが閉まる。
 ちょっとなによ、その態度!
 私も乱暴に助手席のドアを閉めた。
            


 

 
 
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