14.私の心を乱す男 (035)

 

 そのまま車は発進し会社へと向かう。その間も私たちの間には殺伐と言ってもおかしくないほどの静まり返った空気が広がっていた。
 なにをそんなに怒っているのだろう。まさかとは思うけど、玲が私を呼び止めたこと? それとも打ち合わせで失敗をしたのだろうか?
 いろいろ考えながら不安になってくる。でも思いもかけず最初に口を開いたのは真鍋課長の方だった。
「霧島さんとは知り合いだったのか?」
「はい……」
「そうか。でもなんで言わなかった?」
 真鍋課長の不機嫌な理由。それは私が玲と以前からの知り合いだということを隠していたからだったんだ。でも玲のことはできれば触れられたくない。
「……」
「昔の男か?」
 真鍋課長ははっきりとした口調でばっさりと私に斬りかかる。
「はい」
「マジかよ……じゃあ、あの寝言も……」
 そう小さく呟いた真鍋課長はそれ以上なにもしゃべらず、私たちは会社までずっと無言だった。

 会社に着いて、真鍋課長はすぐに別な客先に出かけて行った。
 20時頃に再び会社に戻って来たけど、デスクに戻っても真鍋課長はなにも話さずパソコンに向かったまま。パソコンに隠れて真鍋課長の表情までは見えないけど、静かな社内にカタカタとキーボードを打つ音だけがやけに耳についた。

 そして一時間程経過した。
 不景気のせいかこの時間になるとこのフロアに残っている人はいなかった。うちの部署もそうだけど、よその部署の人たちも帰宅したあとだった。
 この日、残業で残っていたのは真鍋課長と私だけ。私は変更プランの作成のために業者に連絡を取りながら仕事を進め、ようやく今日の分の仕事を終わらせたところだった。帰り支度をし、席を立つ。
「それではお先に失礼します」
 真鍋課長のデスクに向かって挨拶をした。
 だけど返事がない。
 もしかして、シカト?
 まあいっかと思い鞄を持ってそのまま事務所を出て行こうとした。
「片瀬」
「はい?」
「ちょっと待ってろ。俺もすぐ終わるから。家まで送る」
「いえ、大丈夫です。まだこんなに早い時間ですし電車で帰れますから」
「俺も帰るからついでだ。片瀬の家は通り道だから」
 真鍋課長は車通勤。私は電車通勤だけど、真鍋課長は残業も多く、時間も不規則なので車通勤をしていた。
 パソコンの電源を落として真鍋課長が立ち上がった。
「よし、行くか」
 事務所の明かりを消して鍵を閉め、最後に一階のセキュリティボックスへ鍵を納める。そして駐車場に着いて、車に乗り込んだ。

 真鍋課長の車に乗るのはこれで二回目。車体が高くて前はうまく乗れなかったけど、今回はなんとか上手く乗ることができた。
「学習したな」
「でも顔が笑ってますよ」
「ははっ、悪い。つい」
 打ち合わせの帰りとは打って変わり、和やかな雰囲気だった。

 車は夜の道を颯爽と駆け抜ける。乗り心地もいい。
「霧島さんは、なかなかのやり手らしいな」
「そうみたいですね。仕事のことはよく分かりませんけど」
 いきなり玲の話題を振ってきたのは驚いたけど、玲とはもうなんの関係もない。過去を知られるのは躊躇されるけど、例え知られても真鍋課長ならいいと思い直していた。
「海外に行った奴とは違うんだよな?」
「はい。その人は霧島さんと別れたあとにつき合った人です」
「でも霧島さんて確か……」
 少し言いにくそうにしている。
 きっと玲が結婚して子供もいるということを言いたいのかな。
「そうです。不倫でした。軽蔑しますよね」
 あの頃を思い出すとやっぱり辛い。私は唇を噛みしめた。
 真鍋課長は少し考え込んでいたようだったけど。
「片瀬もいろいろあったんだな」
 それだけ言って、あとはハンドルを握ったままだった。
「霧島さんとはもう関係ありません。仕事上のつき合いだけなので、あまり気を遣わないで下さい」
 無言になった真鍋課長に申し訳ないと思い、そう言った。
「でも霧島さんはそうじゃないみたいだけど」
「まさか。そんなはずないです」
「でも帰り際、電話をすると言っていただろ?」
「あれは、どちらにしても電話番号を変えたので霧島さんからは連絡できません」
「そっか。でも住んでいる場所は変わっていないようだな」
「え?」

 私のマンションの手前で車をとめてそう言った真鍋課長の視線の先には、見覚えのある懐かしい車。
 玲……
「片瀬のことを待っているみたいだな」
「今さらどうして……」
「どうする?」
 玲はまだ私たちに気づいていない。
「どうするもなにも、関わらないと決めたんです」
「会わないのか?」
 横目でちらっと私を見る真鍋課長。私はフロントガラスの向こうに映る玲を見ていた。
「会いたくありません」
「分かった」
 短くそう言うと車はすぐ手前の曲がり角で曲がった。
「すみません。巻き込んでしまって」
「別に片瀬のためでもないから。どっちかっていうと俺のため」
「あの……」
「そうだよ。そういう意味だよ」
 涼しい顔して、とんでもないことを言う。それに対してどう返せばいいのだろう。今はあまりにも混乱しているため、思いつかない。
「固まるなよ。俺の方がどうしていいのか分かんねえだろ」
「すみません。びっくりしちゃって」
 本気だったんだ。真鍋課長のマンションに泊まった夜に何気に言われたあの言葉。ほとんど冗談かと思っていた。
「それよりこれからどうする?」
 マンションには玲がいるからすぐには戻れない。だからと言ってこれ以上、真鍋課長ともいられない。
「ここでいいです。適当に時間を潰して帰りますから」
「それは却下。こんなところで降ろすわけにはいかねえだろ」
「でも、大丈夫ですから」
 必死にそう言ったけど……
「よし、少しドライブでもするか」
 結局、真鍋課長のペースになってしまった。

 車をあてもなく走らせ、途中、遅めの夕ご飯を食べた。
 そして帰りの車中。
「片瀬がそう決意をしているなら、霧島さんには仕事以外では関わるなよ」
 そう投げかけられた言葉の意味が重く胸に響いた。
「分かっています」
 やっとの思いで忘れたんだもの。今ここで油断したらその努力が全部無駄になる。
「なんだったら俺にしとけ」
 だけどそれに対する返事はできなくて……
 入社して一年。今までなにもなかった真鍋課長との間にまさかこんな急展開が訪れるとは。
 そしてこの日を境にずっと恋愛から遠のいていた私が再びその世界に足を踏み入れることとなる。関わらないと決めたのに、忘れたはずの感情が心の奥底からじわじわとわき起こり始める。
 それは無理矢理押し込めていたものだったから、きっとなにかのきっかけで爆発してしまうんじゃないか、とそれが一番怖かった。
            


 

 
 
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