15.誘惑の甘い瞳 (036)

 

【6月】Asuka[社会人二年目]


 真鍋課長から衝撃の告白を受けて数週間が過ぎた。玲とは仕事以外では会っていない。打ち合わせで会うことがあってもその時は真鍋課長が必ずついてきてくれる。もちろん真鍋課長とも相変わらずで、中途半端な関係を続けていた。
 中途半端というのは、残業があった日にたまに家まで送ってもらったり、夕ごはんを一緒に食べに行ったりという関係。何度断っても、いいからつき合えと相変わらずのペースに巻き込まれてしまっていた。
 真鍋課長はそれでいいのだろうか?
 最近そんなことを思うようになり、妙に意識してしまう。

 今日は建築部の担当者の頼みでショッピングモールの現場に届け物をしに行くことになっていた。
 工事は夜の8時から開始される予定。建築部の担当者は別な現場からショッピングモールに向かうため会社に立ち寄れない。そこで会社に戻れないその人の代わりに私が書類を届けに行くことになったのだ。
 ショッピングモールへは電車で向かう。そのため夜の7時に会社を出て、今日は直帰する予定だ。デスクの周りの人たちに直帰することを告げ、そのまま真鍋課長のデスクへ報告しに行く。
「これから書類を届けに現場に行ってきます。帰りはそのまま直帰しますので戻らない予定です」
「ああ、頼むな」
 工事は順調に進み、現場は私の所属する営業部の管轄から離れ建築部に移行していた。細かい打ち合わせも建築部がすべて行うので私たちの役目はもう終わっていた。
 だからもうここに来ることもないだろう。
 ショッピングモールに着き、工事用の囲いで仕切られた現場を覗くと内装はほぼ完成していた。自分が直接携わった現場を目の当たりにし、いいようのない感動を覚えた。小さな物件だけど私にとって一生忘れられないものとなるに違いない。

 なにかを造り上げる感動──

 この思いを壱也はニューヨークですでに味わっているのかな。
 そして、まさに同じものを造り上げてきた玲は、なにを感じているのだろう。

「渡辺さん、書類を持ってきました」
 中にいた建築部の担当者に、頼まれていた書類を渡す。
「ありがとう。今日中に提出しないといけなかったから助かったよ」
「なにかあったらいつでも言って下さい。できる限りサポートしますので。それよりだいぶ仕上がりましたね」
「そうだな。あとちょっとで完成だ。工程通りにいきそうだよ」
 その言葉を聞いて安堵する。
 それにしてもすごいな。私はパソコンの中の図面でしか表現できないけど建築部の人たちは直接それを形にできる。だからきっと私の何倍、いや何十倍もの苦労をしているのだと思う。それにこれを作り上げるには実にさまざまな人たちが携わっていて、長い時間をかけてすべてが融合されるのだ。
 この職業を選んで良かった。
 そんなふうに感慨深く思ったあと、届け物もしたことだし、担当の渡辺さんに挨拶をして帰ることにした。
「渡辺さん、それでは私は帰ります。お先に失礼します」
「あ、片瀬さん。今、AKホールディングスの霧島さんがちょうど来てるから挨拶していったら?」
 玲がここに来ているの?
 入口付近にいたので分からなかったけど、店の奥の厨房に人影があって、それは紛れもない玲の姿だった。
「……そうですね。それじゃあ、ちょっと顔出してきます」
 渡辺さんの手前、このまま帰るわけにもいかない。どうしようと思いながら恐る恐る奥の厨房に入った。
 こっそり覗いてみると玲は厨房で業者の人と話し込んでいてとても声をかけられそうにもない雰囲気だった。でもそれはそれで好都合。それを言い訳にしてこのまま帰ってしまおうかと考えていた。
 だけど、そんな考えも無駄になってしまう。こともあろうに厨房にいた業者の人が私に気づき、同様に玲の視線も私に向けられた。
 玲が黙ってこちらに近づいてくる。間違いなく私と目があっているわけだから当然その行先は私。
「ちょうどよかった。打ち合わせしたいことがあるんだ」
 なんだ、仕事の話か。
 一瞬なにを言われるのか緊張したけど、打ち合わせと聞いてほっと胸を撫で下ろした。
「分かりました」


 だけど、ここじゃなんだからと連れて来られたのはショッピングモールに併設されている立体駐車場だった。
「乗って」
 目の前には玲の車。
「打ち合わせって、ここで?」
「他に場所がないから。それから打ち合わせっていうのは嘘」
 私が困っていると玲が私の横で助手席のドアを開けようとしてくれていた。
「仕事の話じゃないなら帰る」
 私は玲を押しのけて、その場をあとにしようとした。
「明日香!」
 だけど、腕を掴まれて引き留められる。途端、忘れかけていたあたたかな大きな胸の中に閉じ込められた。
「玲、放してよ。こんなところを人に見られたらまずいよ」
 ショッピングモールはまだ閉店前。駐車場には数台の車が駐車している。
「明日香が逃げるからだ」
 私の背後には助手席のドア。そこに身体ごと押しつけられて身動きができない。
 だけど懐かしいこの感触にだんだんと思考が麻痺してきて……こんなことをしてはいけないのに身体がいうことを利かなかった。

 玲は私がおとなしくなったのを確認して小さく言った。
「番号変わったんだな」
「え?」
「携帯電話の……」
「……うん」
 やっぱり電話をくれていたんだ。
 この間、玲の会社で『電話する』と言われたことを思い出した。そして『話がある』と言っていたことも。
「前にマンションまで行ったんだけど会えなかった」
「あの日。玲がマンションの前にいるのには気づいていたの。だけどもう会うわけにはいかないと思って、わざと避けた」
「そんなことはどうでもいい。俺は明日香の気持ちが知りたいんだ。そのために会いに行ったんだ」
「私の気持ちを知ってどうするの? 私たちはもう終わっているんだよ」
「でも、俺は……」
 玲……なにを言おうとしているの? やめて。お願いだから。

「玲、私たちはもう別れたの。終わりにしたんだよ」
 玲を見上げる。
 なにを言われようとも、はっきりと拒絶しないといけない。薄々感じる玲の気持ちに気づきながらも、それでも……
「今でも俺の気持ちは変わっていない」
 その甘く滲んだ瞳に私の決心が揺らぎそうで怖い。だって、私だって今でも……今でも玲が好きだから。忘れたくても、どうしてもできなかった。
 壱也とつき合っている間も心の中にはいつも玲がいた。壱也もそれを知っていた。だから私との別れを選んだ。
 だけど、もう同じ過ちは繰り返してはいけない。私の返事ひとつで、きっと運命は変わる。周りを巻き込んで不幸にして、そうまでして自分の気持ちを押し通すわけにはいかない。
「私たちはもうあの頃に戻れないの」
「だから俺が聞きたいのは明日香の気持ちだよ」
 玲の必死な気持ちが切ない声となって届いた。その声に、私も必死に語りかけていた。私の気持ちはただひとつだよ。ずっと変わらずに、玲を……
 だけど私は玲の胸の中で心を決めた。伝えたい想いをここでしっかりと封印する。

「私の気持ちは玲にはないの。もう、好きじゃない。私は壱也と……壱也のことが……」
 私の決断はきっと正しい。これで最後だ。もう二度とこんなふうに抱き締められることなんてないんだ。
 そしてようやく、背中にまわされていた腕の力が弱まり、私の身体が解放された。行き場のなくなったお互いの存在が力をなくしてそこにただ留まったまま。
「そっか、そうだよな。ほんと今さらだよな。でも俺は……」
「もう、やめて!」
 いったい玲はなにをどうしたいの? 私の心を乱すのはやめてほしい。私たちがなぜ別れたのかを考えてほしい。私がどんな思いで別れを切り出したと思っているの?
「そろそろ仕事に戻った方がいいよ。私はもう帰るから」
 私たちは仕事上のつき合い。それ以上でもそれ以下でもない。そしてお店がオープンしたら私の役目も完全に終わり。もしかして玲と会うことも二度とないのかも。でもきっとその方がいいんだ。
「じゃあね、玲」
 まとわりついてくる未練を断ち切って、歩き出した。
 だけどそこへ落とされるもうひとつの言葉。
「壱也とはもうとっくに別れたんだろう?」
 すでに玲に背を向けていた私は思わず振り返ってしまった。
「知ってたの?」
 意外だった。まさか玲がそのことを知っていたなんて。
 前に玲が壱也の名前を言いかけたことがあった──玲の会社に打ち合わせに行った日。あの時、そのことを言いたかったんだ。
「一年前、壱也から電話をもらった。その時、ニューヨークに行くことになったことを聞いたんだ」
「そうだったんだ。ニューヨーク行きのことも知ってたんだね」
「あの時の壱也は辛そうだった。本当は明日香を一緒に連れて行くか相当悩んでいたらしけど」
「一緒に? そんなこと、ひとことも言わなかったのに」
「最終的に明日香の就職が決まって、それが決定打だったらしい」
「私のために……」
「明日香の夢を潰すわけにいかないと思ったんだろうな」
 私の夢? あの時の私の夢なんて壱也のように具体的なものではなかったのに。壱也はそんな私の将来を考えてくれていたんだ。
 だけど今はなによりも仕事が楽しい。こんなふうに仕事ができるのは壱也の存在が刺激になったから。
「そんなことを考えていてくれたなんて知らなかった」
 すると玲は少し目を細めて答える。
「そもそも稼ぎもないのに女を知らない土地に連れて行くなんて、そんな無責任なことは男としてはできないからな。稼ぎがあれば、無理矢理にでも連れて行こうと思えたのかもしれないけど。それに自分の意思よりも優先したかったのは明日香のことだったんだな」
 なんてやさしい表情なのだろう。壱也を語る言葉が私の心の中でくすぶっていたなにかを溶かしてくれる。

 壱也は自分の夢を叶えるためにニューヨークに行こうと決意した。私が壱也についていくことは壱也の重荷になるのは分かり切っていたことだったので、そのことは最初から選択肢になかった。恋人同士だったら普通、そんな話になるんだろうけど、私たちの間には不思議なくらいにそんな会話はなかった。第一、私が傍にいれば、ずっと壱也を苦しめ続けることになる。
 だから、ただ壱也の夢が実現することを心から願って私は見送った。
 だけど、壱也がひとりでニューヨークへ行ったのは玲に未練を残す私との関係にピリオドを打とうと考えていたのではなく、私の仕事、そして将来を一番に優先してくれていたから。それがなければ、もしかすると一緒に行こうと言ってくれたのかもしれない。
 壱也と100%で向き合っていなかった私なのに、壱也は玲との過去も全部ひっくるめて私の全部を好きになってくれていたんだよね。うしろめたさが拭えなかった私だったけど、もともと壱也はそれを覚悟して、玲を好きなままの私と一緒にいてくれた。それほどまでに深い愛情を惜しみなく注いでくれていたんだ。

「ありがとう、玲」
「別に礼を言われることじゃないよ」
「ううん。壱也の本音が聞けてよかったよ」
「明日香は俺と別れて、正解だったんだな」
「玲……」
「あ、いや、ごめん。こんなことを言うつもりじゃなかったんだけど。今の明日香が綺麗なのは、壱也のおかげなんだなって思ったから。それが悔しいな」
 駐車場の薄暗い蛍光灯だけが私たちを照らしていた。そこから見渡せる景色は中途半端な夜景。高層ビルというより低層のマンションや一般住宅が立ち並ぶ、いわば郊外と言われるこの場所にはロマンチックな彩りは期待できない。
 そしてここはとても冷めきっている。だけどここでじっと見つめ合っていると、あの頃の熱を帯びたふたりにタイプスリップしてしまいそうになり……
 だけどダメ。これ以上、一緒にいたら……
 今すぐ帰らなきゃという理性が必死に私を呼び戻していた。

「真鍋課長とは……」
「真鍋課長?」
「いやなんでもない」
 その先の言葉は聞けなかったけど、なんとなく玲の言いたいことは分かった。壱也と別れたことを知っていた玲だから、私と真鍋課長が、ただの上司と部下の関係に見えなかったのかもしれない。
 でも私は敢えて訂正することをしなかった。事実とは違うけど、そう思うのならそれで構わない。
 さっきの理性が今度はしっかりと私をセーブする。
「仕事中でしょ。早く戻らないと」
 すべてを払拭するように私が言うと玲も小さく頷く。
「玲、元気でね」
「明日香……」
「もう、会うこともないかもしれないけど。でも会えなくても、私、玲の幸せを願っているから。今までもずっとそれが気がかりだったの。だからお願い。自分の幸せを逃さないで」
 家族を大切にして。玲が幸せになってくれないと、心配でたまらない。別れた時は自分のことばかりで、そこまで思えなかったけど、今なら思えるの。壱也とつき合って、そんなふうに自分が変わることができたの。
「ありがとう。明日香も幸せになれよ」
 玲が歩き出す。私はその後ろ姿を見送った。
 自分の気持ちに再び蓋をして何重にもカギをかけてもうそれを開けることはしない。今度こそ、この関係を断ち切らなくては。
            


 

 
 
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