16.上司との濃密な時間 (037)

 

【7月】Asuka[社会人二年目]


 玲のお店は無事にオープンにこぎつけ、私も玲と関わることはなくなった。もう現場で偶然会うこともない。
 季節も7月に入り、暑さも厳しくなってきた。だけど社内のエアコンは遠慮なく稼働し、環境のことを考えなくてはならないこのご時世なのに現在の設定温度は23℃。外回りが多い男性が中心のこのフロアは外気との温度差が半端ではない。
 やばい……くらくらする……
 最近は真鍋課長と一緒に現場調査に出かけたり打ち合わせに行ったりと外回りも増えたけれど、この冷房は身体にこたえる。
 そのためか最近バテ気味の私は今日もお昼ごはんはコンビニのサンドイッチのみ。胸の中にたまっている鬱憤は吐き出されることもなく今日もサンドイッチとともに飲み込まれた。

「片瀬、打ち合わせ行くぞ」
「はい」
 午後一に真鍋課長と一緒に客先に向かう。今度のプロジェクトは大型書店の改修移転工事。一気にステップアップしたこのプロジェクトに私は毎日翻弄されていた。
「顔色が悪いけど大丈夫か?」
 車の中で真鍋課長がちらっとこちらを見た。
「はい、大丈夫です。この暑さで少し夏バテ気味なだけです」
 強がっていたけど実はかなり気分がすぐれない。それでも気合いを入れて姿勢を正した。

 客先に着き、打ち合わせが始まった。
 相変わらず真鍋課長は颯爽としていて流れるように話が進む。一方、私は打ち合わせ内容をノートに書き留めるだけ。
 はあ……いまいち、ついていけない。
 今日も成長のない自分に落ち込む。

『やる気がないんだったら、置いて行くからな』

 今までも真鍋課長からさんざん注意を受けていた。
 私ももっと専門的な知識を身につけないとな。
 真鍋課長は現場も経験しているし当然それなりの資格は取得済。一級建築士や施工管理士の資格も持っていて私とは雲泥の差。
 それにしても、いつ勉強していたんだろう?
 ああ見えて真鍋課長は堅実に自分の道を歩いている。

「それでは明日までに新しい見積もりをお願いします」
「分かりました。では今日はこれで失礼します」
 そうこうしているうちに三時間近くの打ち合わせがやっと終わった。先方に挨拶をすませると、ふらふらとする身体をなんとか支えながら駐車場まで歩く。さっきよりも不快感が増していた。
「おい、大丈夫か?」
 車の前まで来て真鍋課長がそう言いながら私の肩を抱いた。今にも倒れそうになって、それを咄嗟に支えてくれたのだ。
「すみません。少し気分が悪くて」
「お前、身体が熱いぞ。もしかして熱があるんじゃないか?」
 少し焦った声がして私のおでこに真鍋課長の大きな手が重なった。三時間もクーラーの効いた部屋にいたせいかその手はひんやりとしていて気持ちいい。
「やっぱり、熱があるぞ」

 助手席のドアが開けられて私の身体がやさしくシートに沈められた。
 家まで送ると言われ、当然断ったけどそれを聞き入れるような人ではなく、私は諦めて従った。だけど、熱があると言われると無駄に意識して、ますます具合が悪くなる。
 余計なことを考えることはよそう、そう思い、助手席からぼんやりと外を眺めていた。

「片瀬、起きろ」
 囁くような声が耳元で聞こえ目が覚めた。目の前には真鍋課長の心配そうな顔。窓の外を見ると私の住むマンション。
「もしかして寝てました?」
「ああ。それより歩けるか?」
 真鍋課長は車から降りて助手席のドアを開けてくれた。そして私の肩を抱く。
 そのまま歩いて部屋の前に着くとお礼を言った。だけど中に入ろうとすると……
「着替えとか必要なものを取ってこい」
「はっ?」
「今から俺の家に行く」
 意味、分かんない!
「なんで、ですか?」
「お前、ひとり暮らしだろ」
 それはそうだけど。だからといって真鍋課長の家に泊まりに行くのはできれば、いや、絶対に避けたい。なんて言って断ろうと熱で朦朧としてきた頭で考えるけど、こういう時に限って頭が真っ白になる。
「早くしろ。俺はこれからすぐに会社に戻るんだから」
 病人の私に浴びせられた命令口調。
「でも別にひとりでも大丈夫ですから」
 だけど私への威圧は容赦ない。ドアを強引に開けたかと思うと「早く中に入れよ」と、そのまま部屋にずるずると引きずられるように連れ込まれた。
 ここ、私の家なんですけど!
 心の中で軽く突っ込んでみるけど、傍には仁王立ちしている真鍋課長がいて慌てて視線を逸らすしかなかった。

「分かりました。支度します」
 私は観念して小さめの旅行バッグに着替えやクレンジングなどを無造作に詰め込んだ。
「できたか?」
「できました」
「じゃあ、行くぞ」
 主導権は完全に真鍋課長。私は言われるがままについて行った。ただ歩調はさりげなく私に合わせてくれるところは一応、病人として気を遣われているみたい。

 辺りは薄暗く、おそらくもう定時を過ぎている。
 車に乗せられた私は予定通りそのまま真鍋課長のマンションに。そして部屋に通され寝室へ促された。
「なるべく早く帰ってくるからおとなしく布団に入ってろよ」
「はい。でも私のことは心配しないで下さい。ひとり暮らしも長いですし、病気の時はいつもひとりでしたから」
 そう言って平気なふりをする私もさすがに限界に近づいている。それを分かっているかのように真鍋課長は座り込む私のおでこの前髪をかきわけて手をあてた。
「無理するな」
 そう言ったあと、真鍋課長がいったん寝室を出て行った。
 そして、再び戻って来ると、手には水の入ったグラスと風邪薬。
「飲めるか?」
 私に視線を合わせるように屈んでグラスを手渡す。頷いてグラスを受け取ると薬を流し込んだ。
 その間も真鍋課長はこちらを心配そうに見ている。たかが風邪なのに、それは異常だと思うほどだった。
「真鍋課長は、心配性なんですね」
 私の手からグラスを取り上げる真鍋課長に向かって言うと、機嫌を損ねたような顔つきをされた。
「ほっとけないんだから、仕方ないだろ」
「……」
「だから、黙んな」
 ストレート過ぎる言葉が乙女心に突き刺さった。時に鬼のようになる上司にそんなことを言われてしまうと、どうしても返事に困る。
 今日はアルコールも入っていない。軽く受け流す状況でもなくて、唯一の救いは熱のせいで鈍くなっていく思考。おかげで思ったより深く考え過ぎなくてすんだ。
「すみません」
「別に謝ることじゃないから」
「はい」
 相変わらず冷静さを失わない真鍋課長は、微かに笑みを浮かべている。
「別に急かすつもりはない。聞き流したい時はそうすればいい。こういう経験、片瀬だったら何度かあるだろ?」
「な、ないですよ!」
「ほんと、お前は見かけによらない女だよな」
「……すみません」
「だから、謝ることじゃないんだよ。もういいから。片瀬はゆっくり寝てろ。俺は会社に戻るから」
 そう言って立ち上がる真鍋課長。玄関まで見送ろうとした私はその場で静止され、仕方なく寝室のドアから見送った。
 ドアが閉まる音が聞こえた。なんとなく寂しさを感じながら、私は持ってきた部屋着に着替え、おとなしくベッドに潜り込んだ。
 上司の部屋。こともあろうにベッドを占領していることに多少違和感も覚えるけど、前にも酔っぱらって泊まったことがあったなと思い出すと、幾分気は楽になる。それから熱に侵された私の意識はだんだんと遠のいて、さっき飲んだ薬の効果もあって深い眠りについた。


 どれくらい眠っていたのだろう。ふと、目が覚めた。
 今、何時だろう?
 そう思いながら耳を澄ますと、リビングの方で物音がしていて、その音で目が覚めたのだと分かった。ガサガサとビニール袋の擦れる音。そして人の足音も聞こえる。
「真鍋課長……」
「起きてたのか?」
 寝室のドアが静かに開いて真鍋課長が顔を覗かせていた。
「さっき起きたところです。ずっと寝てました」
「どうだ? 少しは楽になったか?」
 ベッドサイドまで来ると私のおでこに手を当ててその熱を確かめている。
「まだ熱はあるな」
 眉間に軽く皺を寄せ、心配そうに顔を覗き込む表情は仕事している真鍋課長とは違うひとりのオトコ。
「でもだいぶ楽になりました」
 なんとなく視線を逸らしてしまう。すると真鍋課長はクスッと小さく笑った。
 あ、気づかれた。悔しい。
「おかゆぐらい食えるよな」
「……はい」
 なんとなく負けた気がした。私だけ意識してしまう。真鍋課長はどうしてこんなに余裕なのだろうか。
 私は再びおとなしくベッドの中に潜り込み、まだ残っている熱を感じながら再び目を瞑った。静まりかえった部屋の向こうで、生活音が遠慮がちに響いていた。
            


 

 
 
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