16.上司との濃密な時間 (038)

 

「片瀬……?」
「あ、起きてます」
 しばらくして、私が寝てしまったと勘違いされて、小さく声をかけられた。相変わらず私を心配している面持ちで、逆に病人のこちらが大丈夫かと思うほど。
 慌てて布団から顔を出し身体を起こす。乱れた髪を手ぐしで直してベッドの上で座り直すとトレイにのったおかゆが差し出された。
「食べられるか?」
「はい。頂きます」
 真鍋課長が料理をするイメージなんてなかったから、ちょっと驚いた。出されたおかゆはいたってシンプルだったけど、久しぶりに人に作ってもらった手料理はすごくおいしいと感じる。
「まだ9時過ぎなんですね」
 ベッドサイドの時計を見ながら、あれから意外に時間が経過していなんだと知った。ということは真鍋課長は会社に戻ってもほとんど仕事をせずにここに戻ってきたということ?
「大丈夫ですか? 仕事」
「片瀬に心配されなくてもちゃんとやることやってるよ」
「そうでしょうけど」
 せっかく心配してあげているのにな。それに迷惑をかけて申し訳なく思っている。
「とにかく、早く食え。病人がいちいち気を遣うな」
「はい」
 食事の間も真鍋課長は私の傍を離れようとしない。まるで監視するように、こちらを見ていた。
 すごく食べづらいんですけど……
 でも、部屋を出て行って下さいと言えない私は、凝視されながらスプーンを口に運ぶ。そのおかげか、ここ最近まともな食事を摂っていなかった私も半ば無理矢理に身体の中に取り込むことができた。

「ごちそうさまでした。でも意外でした。お料理するんですね」
「料理は、一応な。ひとり暮らしが長いから必要に迫られて覚えたよ」
 心なしか真鍋課長の目じりが下がっている気がする。病人にはやさしいみたいだ。それに空っぽだった胃が温かいもので満たされたおかげで、気分も良くなった。
「ベッド、占領しちゃってすみません」
 寝室はひとつだから私がこの部屋を占領してしまうと真鍋課長が寝る部屋は必然的にリビングになる。
「片瀬に会社を休まれると困るのは俺だからな。早く復帰してもらわないと」
「私なんかいなくてもあのプロジェクトは真鍋課長ひとりで十分じゃないですか。私なんていまだに役立たずです」
「ばーか。心配で仕事が手につかないって意味だよ」
 さらりと女を口説くセりフを口にできるのは、きっと女慣れしているからだろう。さっきもそうだった。
 それよりも以前にもそんなセリフを言われているのに、本当にすぐに返事をしなくてもいいのかな。真鍋課長は“急かすつもりはない”とさっき言ってくれたけど、このまま甘えているわけにはいかない気がする。
「あの……私……」
「おっ! やっと向き合ってくれるようになったか?」
「それなんですけど、私はまだそんなふうに考えられないです」
 次の恋愛はまだ…──
「霧島さんは片瀬にとって、でかい存在なんだな」
「そうですね」
 素直に頷いた。この人に嘘をついても、持って生まれた千里眼できっと見抜ぬかれてしまう。
 だけど私の素直な頷きを軽く鼻で笑うようにそれは簡単にスルーされた。
「その方が落としがいがある」
 獲物を見つけたと言わんばかりの鋭い視線をこちらに向け、急に私の胸はドギマギとさせられた。
「こんな時に口説くなんて、なんて上司ですか」
「だからだよ。病気で弱っているからこそだ」
「でも私の気持ちはさっき言いました」
「上司が部下を口説いているのに簡単に振られてたまるか」
 いっそのこと口説き落とされてもいいかなと思うほどうれしい言葉。もっと自分を切り替えることが上手だったら、とっくにこの人に落とされているに違いない。

 『今でも気持ちは変わっていない』

 あの時の玲の言葉が頭の中を掠める。あのまま、あの胸に飛び込んでいたらどうなっていたのだろう。他の男性に口説かれているのに玲のことが頭をちらつく。けれど、次に進むためには玲を乗り越えなくてはいけない。
 壱也とはすんなりとつき合えたのに、真鍋課長をいまだに受け入れられないのは玲と真鍋課長がどことなく似ているからなのだろうか。玲と壱也は比べたことがなかったのに、玲と真鍋課長は比べてしまう。
 だから怖いんだ。真鍋課長の中に玲を求めてしまうことが。

「真鍋課長なら言い寄ってくる女の人がたくさんいるのに」
「それだけのイイ男をお前はバッサリだ」
「ふふっ。すみません」
 こんなふうに普通に会話が成り立つなんて不思議だけれど、大人になるとはこういうことなのかなと思っていた。恋愛での関係がうまくいかなくとも、それ以外は普通に接する。仕事でも普通に接して、私情は持ち込まないのが大人だ。

「俺はリビングにいるから」
 食器を持って寝室を出て行く後ろ姿は私にいつもガミガミ命令をしている人間だとは思えない。Tシャツに長めのハーフパンツ姿が私に妙な安心感を与えてくれた。
 ベッドに横になり私はまた目を閉じた。だけど、さっき思いっきり寝てしまったせいか、なかなか熟睡できなかった。
 時刻は夜中の12時。のそのそとベッドから這い出て寝室から廊下に出ると暗い廊下の向こうにわずかな光。ドアの隙間からこぼれるそれはリビングにまだ明かりがついている証拠。カチャっとドアを開けるとノートパソコンに向かう真鍋課長の姿があった。
 なぜドアを開けてしまったんだろう?
 自分でも理由が分からず、なんのためらいもなく開けてしまったドア。不意に開けたドアの向こうにいた真鍋課長の視線が動いた。
 あ、目が合っちゃった……
「のどが渇いて……」
 嘘じゃない。だいぶ汗もかいたし若干の脱水症状もあるのも事実。
「冷蔵庫に入ってるから適当にいいぞ」
「ありがとうございます」
 キッチンに入り冷蔵庫を開けると水と炭酸飲料が入っていた。
 迷わず炭酸飲料を取り出した。このぼーっとする頭を何とかしたい。食器棚から取り出したグラスに炭酸飲料を注ぐと爽快な音と香りが私を僅かに覚醒させた。

「仕事していたんですね」
「別に急ぎじゃないんだが、ちょっと気になって」
 私に気を遣わせないように言っているんだろうというのが手に取るように分かる。だってパソコンに映し出されているのは今日の打ち合わせで指摘のあった見積もりの画面。急ぎじゃないどころか明日の午前中までに作成しなくてはいけないもの。リビングに散らばった図面や資料を見ながら胸が締め付けられる。
「これ、今日の打ち合わせの指摘分ですよね」
「……ん、まあな。でもたいした修正じゃないしもうすぐ終わるから」
 きっと二時間以上もかかって見積もりに修正を入れていたのだろう。なのに私ときたら熱を出した上に看病までしてもらっている。
 何冊も積み重なった資料のファイルは真鍋課長がまとめたもの。ファイルにはきちんとタイトルが手書きで示されていて普段の真鍋課長とは違う几帳面さが出ていた。
 この人は人知れず努力をしている。普段デスクで涼しそうに仕事をしているイメージしかなかったけど、人一倍仕事に手をかけていて時間を惜しまない。
「手伝います」
「お前に手伝ってもらったら余計終わらない」
 素直に助けたいと思って口にした言葉も軽く拒絶され、でもその本心は私への労りから。
 だけどつい憎まれ口で返してしまう。
「私、これでも社内ではデキル女で通っているの知らないんですか?」
「それは上司の指導のおかげだから」
「自分で言ってるし」
「もう終わるからお前は早く寝ろ」
 まるで親に叱られた子供。仕方なく私は甘えることにした。今日の分のマイナスは必ず次に取り返すと誓って。


 次の日の朝になり少し熱も下がったようで身体も軽くなったような気がする。
「おはようございます」
「どうだ気分は」
「もうすっかり良くなりました。今日は会社に行けそうです」
 今から家に戻ると遅刻になってしまうけど、それでも今日の午後からの打ち合わせには間に合いそう。
「嘘つけ、まだ顔色が悪いぞ」
 仕方のない奴だと私に近づいて、おでこに手を当てた。
「今日も会社を休め」
「そういうわけにはいきません」
「他の奴に移されたら困るんだよ」
「あ、そうですよね」
「今日は昨日より早く帰れるから」
 今日もこの部屋にいることが前提の会話。昨日は熱のせいで観念したけど、さすがに今日もこの部屋にいるのは気が引ける。
「休むにしてもここにいるのは、できれば遠慮したいんですが」
 シャワーも浴びたいし、それにここにいては落ち着かない。それなのに真鍋課長はそんな私の気持ちをまるで分かろうとはしてくれない。
「却下だ」
 仕事でダメだしをするかのように一喝された。
「そんな」
 昨日まで心底心配そうにしていたのに今朝になっていつもの鬼上司に逆戻り。どうも諦めるしかないみたい。

 朝ごはんを食べシャワーを借り、再びベッドに寝かされる。
「冷蔵庫のものは勝手に食べていいから。飲み物も入ってる。それから、テレビが見たければ、見ていいから」
「ありがとうございます」
「だけど、いいか。熱が下がるまで外出禁止だからな」
「……はい」
「こっそり抜け出したら、向こう三ヶ月間、俺の雑用係に格下げだ」
 偉そうに命令されて、見下ろされた。
 今の真鍋課長は、会社の時と同じだ。厳しくて、意地悪で、俺様で、扱いにくい男。
 まったく、この、鬼上司め。
            


 

 
 
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