16.上司との濃密な時間 (039)

 

 シックなブラックのピンストライプのスーツにグレーのワイシャツ。着替える時にちらっと見えたスーツのロゴは予想通りの有名ブランドだった。
 身支度を整えると「行ってくる」と言葉を残し、真鍋課長は機嫌よく会社へと出かけて行った。
 参ったなあ。仕事の関係を完全に超えちゃっているよ。私たち、このままどういう方向に行くんだろう。つき合っちゃうのかな? いやいや、まさかね。
 それにあれだけかっこよくスーツを着こなして仕事もできれば女子が放っておかない。私が真鍋課長のマンションで看病されていることをみんなに知られたら、女子社員を全員、敵にまわしてしまうのは間違いない。気をつけないと。
「はー……。やばい。頭使ったら気持ち悪くなってきた」
 ネガティブになっていたらまた熱がぶり返したかのように気分が悪い。やっぱり会社を休んでよかったかも。

 そのあと真鍋課長の言うとおり一日中、部屋でおとなしく過ごした。おかげで夕方前には熱も下がり、身体は正常さを取り戻していた。
 久しぶりにゆっくり過ごし、身体だけでなく心も軽くなったよう。たぶんひとりで自分のマンションで寝込んでいたらこんな気分にはならなかった。
 いいものだな。
 誰かに心配されて守られていると感じると人間というものは心に余裕ができるもので。部屋でずっとひとりだったけどなぜか気持ちは満たされていた。
 長い間、忘れていた人の温もり。いや、もしかすると誰かにすがるのを恐れていたのかも知れない。その誰かを身代わりにしてしまうのではないかと。

 真鍋課長、仕事、大丈夫かな?
 今日は早く帰ってくるとは言っていたけど、昨日も仕事を持ち帰ってくるほどだったし、実はそんなに余裕もないのも薄々は気づいている。だけど私の心配をよそに、今朝見送ったスーツ姿の真鍋課長が夜の7時頃に帰ってきた。
「お疲れ様です。早かったんですね」
「お前、起きてたのかよ」
「熱ならすっかり下がりましたよ。気分も良好です」
 得意気に言ってみた。
「だからってなあ……はっ? なんだよこれ?」
 そう言いながら私とキッチンを交互に目をやって驚いている。それもそう。今日はお礼のつもりで手料理を用意して待っていたのだから。
「冷蔵庫のもの、勝手に使っちゃいました」
「別にいいよ。どうせ腐らせるだけだしな。それより病人のくせして──」
「まあ、いいじゃないですか。もう作っちゃったんですから」
 ダイニングのテーブルの上にはナスとトマトのひき肉炒めとサラダとお吸い物。ご飯はレンジで温めるだけのものですませた。だってあまり料理をしなさそうなのでお米を買っても余ってしまいそうだったから。昨日のおかゆのご飯もレンジものだったみたい。
 普段は外食ばかりと聞いていたので野菜中心で献立を考えた。足りない食材は近くのスーパーで調達。前にここに来た時にスーパーがあった場所を覚えていた。

「抜け出したら、向こう三ヶ月間、雑用係に格下げする話、忘れたのかよ?」
「覚えていますよ。でも、どうせ今も一人前ではありませんし、ほとんど雑用係みたいな感じですから」
「仕方ない奴だな」
 呆れ顔の真鍋課長だったけど、どうやら観念したようだ。
 スーツから部屋着に着替え終わった真鍋課長が席につくと、私も腰を下ろしてふたりで食卓を囲んだ。
 こうして、誰かと向き合って食事をするのは久しぶりだ。最近はほとんど料理らしい料理をしていなかったし、誰かに食べてもらうこともずっとなかった。
「なかなかうまいな。料理できそうにないのにな」
「ひとこと多いです。これでも料理はひと通り勉強したんですから」
「霧島さんのためか?」
 軽く目を細め、意味ありげに私に訊いてきた。
 その答えは真鍋課長の想像通り。
「そうですよ。文句あります?」
「そんなもん、ねえよ。こうして、うまい飯が食えるんだから、逆に霧島さんに感謝してるくらいだ」
「えっ?」
 私がすっかり驚いていると、真鍋課長はうっすらと笑みを浮かべ、ひとり納得したように再び箸を動かしていた。
 相変わらず余裕綽々の様子は悔しいくらいだけど、そんな上司だから私も普通に仕事ができる。

 モテる理由も分かる気がする。公私混同しないタイプだから、そのギャップにやられるのだ。
 食事を終え、真鍋課長が後片づけを手伝ってくれた。
「真鍋課長はずっと彼女いないんですか?」
「三ヶ月前に別れた」
「つい最近じゃないですか!」
 知らなかった。彼女いたんだ。そんな片鱗ちっともなかったのに。
「俺がこんなんだから他に男作って去っていったという感じだけど」
「それは真鍋課長の仕事が忙しいのが原因ですか?」
 よくある話。真鍋課長ほどの仕事熱心な人だと彼女ができてもすれ違いだらけに違いない。常に自分のペースで相手に悪びれる様子は基本的に存在しない。現に今回のことだって逆らうことも忘れてしまうような展開の早さで従わされている。
「いや、そもそも原因はお前」
 さっきの質問の答え。お皿を食器棚に戻しながら流れるように言った。
 顔色一つ変えずに言うものだから聞き流しそうになったけど、それを引き止めて、そのとんでもない発言に手が止まった。
「はい?」
「気づいたら、片瀬に心変わりしていたんだよ」
 えっと……あの……私の、せいなの?
「そういうの、さらっと言わないでください!」
「基本、素直なんで。俺」
「そういう問題じゃないです」
「事実なんだから仕方ないだろ。それに片瀬が責任を感じることなんてないんだから。あ、でもどうせなら責任、取ってもらおうか。片瀬のせいなんだしな」
「もう、いいです……」
 これ以上この話題はやめよう。真鍋課長の口元が緩みはじめたその表情は、真っ赤になっている私をからかいはじめている証拠。
「どうした? 急に黙り込んで?」
 とうとう笑い声も聞こえはじめ、身体を震わせていた。
「からかうのはやめて下さい」
「片瀬が真面目過ぎるんだよ。反応がいちいち面白い」
 私に負担をかけないような配慮なのかもしれない。真鍋課長は、愉快そうに私をからかっていた。

 こんなふうに緩やかに時間が経過していくなんていつ振りだろう。いつも切羽つまっていた私の心は少しずつ溶きほぐされ、人の温もりに触れ、うしろめたさのないこの関係も悪くないなあと思いはじめてもいた。

 熱も下がり、ようやく帰宅のお許しが出た。その日、真鍋課長の車で送ってもらった。途中、コンビニに立ち寄り、煙草と飲み物を買い再び夜の道を走る。さながら夜のドライブといったところ。
 車体が高いから夜の景色が少しだけ違って映る。ゆったりとシートに身体を埋め、爽快に駆け抜ける車は、やっぱりすごく乗り心地がいい。もちろん安定感のある車のせいもあるけど、それに加えて真鍋課長のスムーズな運転さばきもその理由のひとつ。コンビニの駐車場に車をとめる時も車線を変更する時も、軽やかに車が動いていた。
「明日から仕事かあ」
「そのセリフを上司の前で言うなよな」
「あ、そうでした」
「明日から厳しくいくからな」
「よろしくお願いします」
 今、手がけているプロジェクトは我が社の他に三社と競合している。すでに設計図は出来上がっていて、あとは見積金額の調整のみ。たまたま、客先の担当者が系列事業で真鍋課長と昔からつき合いがあり、我が社を優遇してくれているが、そう簡単に仕事を取れるとは限らない。とにかく今回みたいに足手まといにならないよう気をつけよう。

「着いたぞ」
 あっと言う間に車はマンションの前に到着した。
 長い二日間だった。しかも濃密だったな。いろいろな真鍋課長を見ることのできた二日間だった。
「いろいろお世話になりました。ベッドまで占領してしまって。今日はゆっくり休んで下さいね」
 車を降りてお礼を言った。
「ああ。片瀬の風邪菌がたっぷりついたベッドでゆっくり休むよ」
 毒舌はやっぱり健在のようだ。困っている私を面白がるような目つきをしている。
「そ、そうですよね。風邪がうつったら困りますよね」
 本気でどうしようと心配した。
「ばぁーか。俺はそんなにヤワじゃねえよ」
「そういえばそうですね。真鍋課長が風邪をひいているところ、見たことないですもん」
「でももし風邪がうつったら今度はお前が看病する番だからな」
「はい。もちろんです」
 苦笑いを浮かべながら最後にもう一度お礼を言って、私は車のドアを閉めた。

 相変わらずストレートな真鍋課長。一癖も二癖もある鬼上司。
 だけど、どことなく玲に似ている。仕事にかける情熱もそうだけど、玲が時折見せていた無邪気な仕草や表情に似ている。それから、ふいに表す強引さ、魅惑的なところも。
 そんな上司と社内恋愛?
 想像してみたけど、どうもピンとこない。それともタイミングの問題なのかな。
            


 

 
 
inserted by FC2 system