17.彼の真実 (040)

 

【7月】Asuka[社会人二年目]


 次の日、すっきりした気分で出社した。前日は憂鬱さもちょっとだけあったけれど、やっぱり仕事が好きなんだと実感した。
 だけど、出社早々、違和感が……
 それは私に対する好奇な視線。幾人かの女子社員がこちらを見ながら私に聞こえないほどの小さな声で会話をしていた。その陰湿な雰囲気はねっとりと絡みついて、自分のデスクに辿り着いた時には溜息がでるほどの疲労感だった。
「おはよう。片瀬。風邪はどう?」
 隣のデスクの大内さん。まん丸な目をした私の一つ上の先輩で童顔の男の人。でも本人はそれを気にして、シルバーフレームのシャープなメガネをかけている。
「おはようございます。もうすっかり良くなりました。休んでいる間、迷惑かけてすみませんでした」
「仕事のフォローは俺はしていないよ。そういうのは全部、真鍋課長がやっていたから。それよりさ……」
 言い難そうに目を泳がせているのがレンズ越しにも分かる。大内さんは私が新人の頃から仕事を教えてくれた先輩。先輩後輩の関係だけど、基本、なんでも言い合える仲だ。
「今朝から社内の雰囲気がおかしいのは分かっています。私、なにかしました?」
 ひとりで考えても拉致なんて明かないと悟った私は思いきって大内さんに訊いてみた。
「あのさ……」
 じっと耳を傾ける。
「片瀬、昨日の夕方、真鍋課長のマンションに行かなかった?」
「……」
 まさに絶句。
「真鍋課長の家の近所に経理の人が住んでいるらしくて。昨日、会社帰りに片瀬を見かけたらしいよ」
 昨日の夕方ということは料理をするために近くのスーパーに出かけた時だ。その時に見られていたんだ。
 経理の人か。私が真鍋課長の部下ということで、ただでさえひんしゅくをかっていたのに、これでますます分が悪くなった。パソコンの電源をONにして起動画面を眺めながら、朝だというのにどっと疲れが押し寄せた。
「嘘!? マジなの?」
 黙り込んだ私を見た大内さんが、まん丸な目をさらに大きくして身を乗り出してくる。
「違いますよ。そんなわけないです」
「ふーん。なんだ、前からふたりはデキてるっていう噂あったからてっきりそうなんだと思ってた」
 嘘? 知らないんですけど、そんな噂。真鍋課長はそのことを知っているのかな?
 目線だけこっそりデスクに移してみたけど真鍋課長はまだ出社していない様子。
「真鍋課長なら早出だよ。現場調査だって」
 うまく誤魔化したつもりの私の視線はあっけなく見破られていた。
「……そうですか」
「でも総務や経理の人間を敵にまわしちゃったね」
「そうみたいです。朝から視線が痛くて」
 独身の真鍋課長は特に総務や経理の女子社員には大人気だからなあ。当分、おとなしくしているしかないな。
 結局、解決策が見つからなくて、諦めることにした。


「殺人級だな、この暑さは……」
 お昼になり現場調査に出かけていた真鍋課長が愚痴りながら戻って来た。
 社内の噂、気づいていないのかな? どちらにしても、気まずいけど。
 いたって能天気な様子の真鍋課長。対して私はそわそわと落ち着かなくて、意識はその存在にあるけど、前だけを見据え、絶対に視線は移さなかった。
「片瀬、意識し過ぎだって。眉間、眉間」
「眉間?」
「皺、寄ってるよ」
 大内さんに笑われた。
 酷いよ、真剣に困っているのに。
 他のデスクの人たちはいつもと違う雰囲気を醸し出し、その視線はきっと私と真鍋課長に注がれているに違いない。
「お疲れ様です。早かったですね」
 みんながひっそりと見守る中、大内さんだけが汗だくの真鍋課長を労っていた。彼は空気を読めるタイプだ。
「今日は朝から酷い暑さだよ。ぶっ倒れそうだったから早々に引き揚げてきた」
 真鍋課長の手にはデジタルカメラとペットボトルのお茶。さっき会社の自販機で買ったらしくそのペットボトルには滴がついていた。

「片瀬!」
「は、はい!」
 急に真鍋課長に名前を呼ばれ、びくっと肩を揺らした。
「もう大丈夫か?」
「はい。おかげさまで」
 と言ったあとで、墓穴を掘ったことに気づく。言葉は慎重に選ばないといけない。
「そうか。なら、さっそくこれを頼む」
 じゃっかん苦笑いの真鍋課長が差し出してきたのは、さっきのデジカメと、新たに引出しから取り出されたUSBメモリ。
「中にある写真データをUSBに移しとけ」
「分かりました」
 昨日のことが嘘のように今は普通の上司。さっきまで炎天下の中にいたはずなのに表情ひとつ変えずに、むしろ涼しい顔で部下の私に命令していた。手渡されたデジカメは少し熱をもっていて私の手にその重さとともに、熱がじんわりと伝わってきた。

 真鍋課長は現場にも足を運ぶし、家でも仕事をこなし、管理職の職務も果たしてしまうタフな人だ。きっと、今、社内に流れている私との噂なんて気にしない人なのだろう。というより、そんな噂なんて笑い飛ばすんだろうな。
 それに私たちは人に後ろ指をさされるような関係でもない。例えそこに恋愛関係があったとしても玲の時のようにこそこそする必要なんてないのだ。
 いつも通りでいい。
 飲み込まれそうだった自分自身を奮い立たせる。
 そうだよ。周りの人のことを気にしても仕方がない。誰になにを言われようと気にしてはいけない。気にしないようにしないといけない。

「データ移しました」
「ありがとう」
 真鍋課長にさっき渡されたデジカメとUSBメモリを返却した。
「あっそうだ。片瀬」
 席に戻ろうとした私に、急に思い出したように声がかかり、なにかと思って待っていたら、引き出しから領収書の束を取り出した真鍋課長。
「これを経理に持って行って、代わりに精算を頼む」
 はっ? 今、なんて? 経理と言いました!? この私が真鍋課長の領収書を持って経理部に行くということ?
「でも、こういうのは自分で直接精算しに行かないとならないのではないでしょうか」
「俺はこれから会議なんだ。だから頼むよ。今日が今月分の領収書提出の締め切りだろ」
 確かに。領収書精算は期日が遅れると経理の人間がうるさい。だけどだからってこのタイミングでだなんて。
 この、鬼!
 目の前が遠のくような感覚。気づくと私の手には領収書の束。真鍋課長はさっさと会議室へ。
 さすがやることは早い。

 大内さんがいるのも忘れ、盛大な溜め息をつく。
「よりによって経理部かあ。敵の本陣に自ら乗り込まなくちゃならないなんて、大変だな」
 大内さんが私の気持ちを代弁してくれた。そうなんだよねえ。この状況に、まさに頭を抱えてしまう。他の部署ならともかく、平気な顔して経理部に行けるほど気を強く持てない。さっきの意気込みはすっかり消え失せていた。
「代わりに俺が行こうか?」
「いえ。自分で行きます」
 頼まれたのは私だし、真鍋課長にはお世話になったので、ちゃんと自分で引き受けることにした。
「経理部に行ってきます」
 私は意を決して領収書を握りしめる。そして心配そうに見つめる大内さんに見送られ経理部へ向かった。
「いってらっしゃい。気をつけて」


「あのう、領収書の精算をお願いしたいんですが」
 さっきの勢いは減退し遠慮がちに経理部の窓口へ立った。すると一斉に視線は私に注がれた。予想通り過ぎて、笑えてくる。
「真鍋課長の領収書ですね。でも、こういうの困るんですけど。お金の精算は本人に来てもらわないと」
「すみません。真鍋課長は会議に入ってしまって。今日中に精算しないとならないので代わりに私がきました」
 二十代後半の経理部の近藤さん。幾重にも塗り重ねられたマスカラとくっきりアイラインの目が怖い。
「今日は特別に許しますけど、今度から本人が来るようにと真鍋課長に伝えて下さい」
「はい。……すみません」
 別に私が悪いわけではないのに、近藤さんの気迫でしゅんとなる。
 待っている間もフロアの奥にいる女の子たちがこちらをちらちらと見る様子が視界に入った。
 怖い……女子率の高い部署は厄介だな。女の私ですら思う。同じフロアの別な部署にも女性はいるけど、ここまでの雰囲気にはならない。
「はい。これがお金です。金額を確認してください」
 緊張しながらお札と小銭を数えた。
「確かにあります」
「それでは、、真鍋課長には、さっきのこと、ちゃんと伝えておい下さいね」
「分かりました」
 そしてようやく精算を終えると、逃げるように自分の部署に戻った。


「はー……疲れたあ」
「お疲れ。どうだった?」
 大内さんがパソコンを操作する手を休めてこちらを見る。
「なんとか無事に精算できました」
「どうせ近藤さんにきついこと言われたんでしょ」
「よく分かりますね」
「近藤さんは真鍋課長を狙っているからね。かなり前から有名だよ」
 そんなこと初めて知った。 ん? ということは……?
「もしかして真鍋課長、それを知っていて私を経理部に行かせたんですか?」
「だと思うよ。避けられることはなるべく避けようという魂胆だったんじゃない? かなり迷惑がっている様子だったし。去年の忘年会の時もそうだっただろ?」
 去年の忘年会? 真鍋課長が酔っ払って私が家まで送り届けてあげたあの忘年会? あの時はやたら周りの人間に絡むし三次会までつき合わされて大変だった。記憶にないけど、あの時、近藤さんも近くにいたんだ。
 私がひとり百面相をしながら、昔の記憶を呼び起こしていると大内さんがあっさりと教えてくれた。
「三次会のあと、真鍋課長と片瀬がふたりで姿をくらましたせいで、近藤さんはあれ以来、片瀬のことを目の敵にしているって有名だよ」
「そんな! 誤解ですよ。あれはただ真鍋課長を家まで送って行っただけですから!」
 今さら大内さん相手に言い訳しても仕方ないけど。
 それにしても、真鍋課長と私の噂の根源はあの忘年会か。これはしばらく落ち着かなさそうだな。
「近藤さんのことは、あまり気にするなよ。少なくとも嫌がらせをするような人じゃないんだから」
「そうですね」
 厳しそうな人だけど、仕事の評判はいい人だから、そういう心配はきっとない。
 仕事モードに戻った隣のデスクの大内さんを見て、私も本来の仕事に戻った。仕事は山積み。決して大きくないうちの会社は、ありとあらゆる業務をこなさなくてはならない。もたもたしていたら朝になってしまう。

 そうして定時を過ぎ、気づけば外も薄暗くなりかけていた。長い会議を終えた真鍋課長が営業部に戻って来たのは、そんな頃だった。
「大内、図面直ったか?」
「もう少しで終わります。あとはレジ周りのレイアウトだけです」
「なら間に合うな。じゃあ明日の打ち合わせは頼むぞ」
 大内さんはある程度の規模であれば、ひとりで仕事を任せられている。真鍋課長との会話を隣で聞きながら正直ちょっと悔しかった。私も一年後にはもっと成長していたい。
「真鍋課長、経理部で精算してきました」
 預かっていた現金を渡す。
「ああ、ご苦労」
 なにが『ご苦労』よ。わざと私を経理部に行かせたくせにと心の中で思ったけど当然口には出せない。
 それに噂なんて、どうせ来週にはみんな飽きているはず。きっと、そうだよね。いや、そうであってくれないと困るよ。
            


 

 
 
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