17.彼の真実 (042)

 

『転勤も離婚が原因らしい。玲さんの奥さんが玲さんの会社の専務の親戚の人だったらしいんだ。中途半端な時期だし、要するに今回の転勤は“左遷”てことになるな』
「左遷だなんて……」
 人一倍仕事熱心で情熱を注ぐような人だったのに、そんな玲を会社は“左遷”させるの?
『でも会社はそういうもんだから』
「玲は会社に十分貢献していたんだよ」
 納得できない憤りをここで壱也にぶつけても意味がないのは分かっている。だけどこんな扱いなんて非情過ぎる。
『俺たちがここでそんなこと言っても仕方のないことだよ。明日香だって世の中がそういうもんだってことぐらい分かってるだろ』
 厳しい言葉だけど私を諭すように壱也は語りかける。
 壱也の言っていることは正しい。社会とは、案外、そういうところなのだ。
『玲さん、今週の日曜日の夜に転勤先に行くらしいんだ。引越しの荷物はそれまでに全部送っておくと言ってた』
「日曜日……そんなに急なの?」
 今日は水曜日。あと四日しかない。
『確かに急な話だな。しかも日曜日までみっちり仕事があるからって。ぎりぎりまで東京で仕事をしていくらしい』
 会社のためというより、現場の人のためなのだろう。最後まで責任を持って仕事に向き合っている姿は玲らしいと思った。
『明日香、玲さんに会いに行ってやれよ。俺を信じて。じゃないと、たぶん、お前、一生後悔することになるぞ』

 仕事に行かなくてはならない壱也とはそのあとすぐに電話を終えた。
 離婚したと聞いても、会いに行くなんて考えてもみなかった。今はなんのしがらみもなく会える関係ではある。
 だけど本当に会いに行っていいの? 私は玲にはっきりと別れを告げた立場なのに許されることなの?
 壱也が言ってくれた言葉を何度も思い出して自分に問いかけていた。
 時間がない。でも今は結論がでない。


 木曜になった。
 昨日よりも焦りが増す。出社しても仕事が手につかない。
 そんな時、聞き慣れたハリのある声がオフィスに響いた。
「片瀬!」
 驚いて顔を上げた。
「はい」
「総務部に行って俺の来週の出張分の新幹線の切符を取ってきてくれ」
「分かりました」
 今日は総務部か。昨日に引き続き今日も経理部のあるフロアへ行く用事を真鍋課長に頼まれた。憂鬱が増幅していく。
「なにをぼーっとしてんだよ。早く行って来い」
「すみません」
 心ここにあらずな私を真鍋課長が厳しく叱る。それを聞き、慌てて席を立った。

 総務部のフロアへ着き、担当の人を探すけど見当たらない。総務部の席には誰もいなかった。
「あの」
 とりあえず、近くにいた人たちに声をかけてみた。
「あら、片瀬さん」
 その中で、反応してくれたのが近藤さんだった。
「もしかして新幹線の切符を取りにきたのかしら」
 そう言って、こちらに向かって来る近藤さん。
 よかった。近藤さんが切符を預かっていたのか。
 だけど、昨日のことがあったので、今日はなにを注意されるんだろうと不安だった。
「はい、これ。京都までの往復切符。総務部の人から頼まれていたの」
「ありがとうございます」
 なにごともなく、切符を差し出された。
 近藤さんを前にすると緊張のせいか、変に構えてしまう。瞬きする数も自然と増える。そのため切符を受け取るために差し出した手もじゃっかんぎこちなくなってしまった。
「大変ね。今度は京都までなんて」
 珍しく近藤さんが話しかけてきた。

 近々、京都の大型ショッピングセンターのテナントの改修工事がはじまる。真鍋課長はその現場調査と打ち合わせに行く予定だった。今、手がけているプロジェクトと並行して遠隔地の物件も担当することになった真鍋課長。いったいどれだけの仕事人間なんだろうと手渡された切符の入った封筒を眺めながら思っていた。
「そうですね。いったい、いつ休んでいるんでしょうね」
「プライベートを犠牲にしてまで仕事に没頭してしまうほどあの人、仕事が好きなのよね。この業界はみんなどんどん逃げ出していってしまうようなハードな仕事なのに」
 まさか近藤さんとこんな会話をするとは思わなかった。しかも真鍋課長を語る近藤さんの声がやさしく聞こえる。
「そう言えば、昨日の件、ちゃんと真鍋課長に注意してくれました?」
「昨日のこと? あっ……」
 すっかり忘れていた。
「しょうがないわね。まあ片瀬さんも仕事忙しそうだものね」
「いえ。私はそれほどでもないです」
「でも女性なのに現場にも足を運んでいるんでしょう?」
「はい。最近はそういう機会が増えました。まだまだ分からないことばかりですけど」

 平面な世界ではピンとこないことも、現場に出るといろいろなことが分かってくる。立体的な世界となって頭の中で想像力がかき立てられ、まだ出来上がっていない建物が途端に脳裏に大きくそびえ立つ。雄大で壮大。希望と野望に満ち溢れたそこは完璧で美しい。その真新しい新世界に誰よりも先にこの足で立つんだ…──

 そんな世界観にトリップしていたのはほんの数秒。鼻で笑う声に意識が呼び戻された。
「似てるわね」
「誰がですか?」
「あなたよ」
「私が近藤さんと似ているということですか?」
「違うわよ。真鍋課長とあなたが、よ」
 近藤さんが思ってもみないことを言った。
 私と真鍋課長のどこが似ているの?
「仕事一筋なところがそっくりね。片瀬さんも家に仕事を持ち込むタイプかしら? 彼もそうだったから」
「たまに、ありますね。期日が間に合わない時は……」
 でも、自分でそう答えて、はっとした。
「あの! もしかして、真鍋課長と近藤さんて……」
「片瀬さん、声が大きい」
 信じられない。真鍋課長が三ヶ月前に別れた彼女って近藤さんだったの!?

 私は口をパクパクさせて近藤さんを思いっきり凝視した。
 大内さんから聞いた噂と違うんですけど。
「誤解しないでね。私は彼にもう未練なんてなから」
「でも別れたのはつい最近ですよね。なのにもう未練ないんですか?」
 ちょうど周辺の総務の人が席を外していた時だったので訊いてみた。
「正式に別れたのは三ヶ月前くらいだったけど、それ以前からずっとすれ違いだったの」
「真鍋課長、毎日残業でしたからね」
「そうなの。週末も出張でいない時が多かったでしょう?」
「ええ。北海道から九州まで飛び回っていましたね」
「そんな彼にうんざりだったし、彼の方もそんな私に気づいていたみたい。きっとその頃から彼の気持ちは片瀬さんに傾いていたのね」
 私の名前をそんな形で口にされて、立場がない。もちろん、三ヶ月前なんてそんな自覚はなかったのだけれど。

 そもそも経理の仕事をしている近藤さんにとって営業の仕事内容はなかなか分からないもの。ましてや真鍋課長は営業だけでなく、工事の工程管理もしてしまうような人なので仕事量は半端ない。
「普通の女性は真鍋課長の仕事を理解なんてできませんよ。同じ仕事をしている私ですら真鍋課長の仕事ぶりにはついていけませんから」
 近藤さんの寂しさは私がひとりで玲を待っていた時の寂しさに似ている。いつも置いてきぼりで、待つのはいつも私だった。受身でしかいられないことに不安以上に苛立ちがあった。
「彼が片瀬さんに惹かれた理由が分かるような気がするわ。片瀬さんはちゃんと自立している。それはひたむきに努力をしているからなのね」
 近藤さんは自分のありのままの気持ちを私に話してくれた。普通、私の立場は近藤さんにとって疎ましい存在。なのに逆に私を好意的な視点で見てくれる。厳しくて怖い人と思い込んでいたけど、それは裏表のない正直な人だからであって、人を恨むようなそんな狭い心の持ち主なんかではない。
 私は完敗だ。だから真鍋課長も好きになったのかな? 飾らない近藤さんの魅力を一番分かっていたのかもしれない。
「それと……」
 近藤さんが照れくさそうに笑っていた。
「私が片瀬さんに嫉妬しているという噂、あれも嘘よ。私、今、おつき合いしている人がいるから」
 すごい……
「もう、お相手が……」
 ……いらっしゃる。
 私の思考回路は破裂しそうだ。人の噂は、なんていい加減なんだろうと嫌というほど思い知らされた。

 衝撃的な事実を胸に、私は切符の入った封筒を握りしめ営業部へ戻ってきた。
「ご苦労」
「いいえ」
 さっき聞いたことは、知らない振りをしておこう。それに真鍋課長は私がその事実を近藤さんから聞いたと知ったとしても、おそらく動じないと思うから。きっと、それがどうしたと平然と私に返してくるに違いない。
 焦る顔を見られないのだから、やるだけ無駄。私の鬼上司はかなり手強いオトコなのだ。
            


 

 
 
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