18.深い愛に包まれて (043)

 

【7月】Asuka[社会人二年目]


 とうとう日曜になってしまった。
 今日、玲が東京を離れる。なのにいまだに私の答えは出ず、朝から掃除をしたり洗濯をしたり。とにかくまとまらない頭をリセットしようと関係のないことをしながら過ごしていた。
 気づくと陽はだんだんと傾き、焦りと反比例して無気力な自分にもなっていった。そんな時、電話の着信音が私の部屋に鳴り響いた。
「もしもし」
『ごめん、突然。今、大丈夫?』
「大丈夫。ぼーとしていただけだから」
『もしかして今、家?』
「そうだけど?」
『じゃあ、ちょっと出てこない? ドライブしようよ』
 電話の相手は要くん。私の返事も確認せずに今から迎えに行くからと一方的に電話を切った。
 どうして私の家を知っているんだろう? 大学の時に教えたこと、あったかな?

 三十分程して再び携帯の着信音が鳴り、私はマンションの下に降りた。
 それらしき車が目に入る。
 あれかな? 運転席を覗き込むとそこには要くん。ニコっと笑い、助手席を指差した。
「お邪魔します」
 初めて乗る要くんの車に少し緊張する。
「ごめんね、急に誘って」
「ううん。ちょっとびっくりしたけど」
 要くんの運転は想像通り安全運転。「クーラーきつかったら言ってね」と気遣ってくるあたりは、きっとたくさんの女の子を乗せているからなのかなと勝手に想像をふくらませている。
 カーオーディオから聞こえてくる音楽は意外にもハードロック。聞けば最近メジャーデビューを果たしたバンドだそうだ。
「インディーズの頃から目をつけていたんだよね」
 うれしそうに目を細める。それを横目で見ていたら、ほんの少し残っていた警戒心がなくなっていった。
「どこに向かっているの?」
 最初から目的も告げづに出発した車の行き先はいつの間にか首都高へ。遠くにはネオンに彩られた高層ビルが立ち並んでいる。
「大丈夫。いかがわしい所には連れて行かないよ」
「そんな心配、してません」

 やがて車は首都高を降りた。
「ここって……」
 インターを降りてすぐに気づいた。ここは東京駅。
 車をとめて要くんは口を開いた。
「壱也に頼まれたんだ。もし明日香ちゃんが迷っていたら背中を押してやれって」
「壱也が?」
 まったく壱也はどこまで人がいいのだろう。遠いニューヨークに行っても私のことを心配してくれている。
「いいのかな? 私の選択は間違ってないのかな?」
「正しい選択かはきっと誰にも分からないよ。完璧な人間なんていないし、間違ったらまたやり直せばいい」
 穏やかに微笑んだ要くんと壱也の顔が重なって見えた。
「早く行って。今なら間に合うから。たぶん22番線」

 ──俺を信じて

 壱也の声が聞こえたような気がした。

「ありがとう、要くん。行ってくる」
 玲の転勤先は仙台だと電話で壱也が言っていた。
 私は助手席のドアを開け、新幹線のホームへ走った。たくさんの人をかきわけながら案内板を頼りにとにかく全速力で。何時の新幹線なのかも知らない。でも急がないと後悔すると思って。
 入場券を購入し下りの22番線ホームへのエスカレーターをのぼる。息が上がり汗が滲んでいた。
 エスカレーターをのぼり切ると長いホームにはたくさんの人。これではすぐに見つけられない。だけど新幹線の最終まであと何本かある。諦めずひとりひとり目を向けた。


 そしてホームの端まで辿り着いた。
 そこには背の高いスーツ姿の玲の姿……
 私は立ち止まる。
 せっかく会えたのに何をどう伝えるのか考えていない。言葉が思いつかない。

 駅のアナウンスがホームに鳴り響く。もうすぐ下りの新幹線がホームに到着してしまう。時間がないのだけが頭の片隅で理解できた。
 止めた足を、再びゆっくりと歩み寄らせた。心臓が高鳴る。それは全速力で駆けてきたからというより、玲に会うことに対してで……落ち着けと心の中で何度繰り返しても一向におさまらない心臓の音に、このまま心臓麻痺で死んでしまうのではないかと思うほど。
 そして玲との距離まであと数メートル。

「玲」
 さほど大きくない声でその名を呼んだ。ホームの喧騒でもしかすると聞こえないかもしれない。でもそれが精一杯。
 少しの時間をおいて玲がゆっくりと振り返った。それはたくさんの人混みの中で時間が止まった瞬間だった。
 なぜ? という顔をした玲の驚きように私は、はにかむ。せっかく会えたのに真っすぐ玲を見ることもできずに私はそのまま下を向いてしまった。玲の顔を見た瞬間、うれしくて涙が溢れてきたから。こんな顔を見られるのが恥ずかしくて。
 涙で歪んだホームのコンクリートに私の目から零れ落ちた滴が次々とそのあとをつけていく。
 するとその視界に大きな黒い皮靴が映った。
 顔を上げると大きな手で私の後頭部が手繰り寄せられた。たくさんの人の前だというのに、私は再び俯いて玲の胸にもたれかかりその胸で泣いた。
 何も言葉も交わさず。だけど玲の気持ちが、やさしさが、嫌というほど伝わってきた。
 やがて轟音とともにホームへ新幹線が滑り込んだ。

 私はその胸の中から身体を離した。生暖かい風が吹き上がり、無情にも別れの瞬間を想像させられる。
「新幹線、きちゃったね」
 車体に目を向けながらぽつり呟く。
 ドアが開き、列を作っていた、たくさんの人たちがその中へどんどん消えていく。もう完璧タイムアウト。

 22番線ホームを、少しだけ静けさが覆う──

「早く乗って」
 今度は玲の目を見て言った。 明日は月曜日。今日中に仙台に行かなければならない玲を引きとめることはできない。
「玲?」
 だけど玲はそこを動こうとしない。発車までの数分の間、じっとなにかを考え込んでいた。
 それから、呟いた。
 「このまま連れて行きたい」
 やせ我慢して強がってた私に、願ってもない言葉が聞こえてきた。でもそんなの無理に決まっている。だけど玲は次の瞬間、私の手を引いた。

「まだ時間があるから」
 あまり人目につかない場所へ誘導された。
「涙……」
「ごめん、玲の顔を見たら止まらなくなっちゃった」
 玲の指がそっと涙を拭った。
「泣いた顔を見るのは、久しぶりだな」
「そうだね」
「前は明日香の泣き顔を見るのが辛かった。だけど、だんだんと泣かなくなった明日香を見ているのも苦しかった」
「玲……」
「笑わせるのはもちろん、感情のままに泣かせてやることもできなかったんだよな、俺は」
 未来に絶望していた日々。あの時、確かに涙は枯れ果てていた。それまでにたくさん泣いてきたけど、泣いたところでなにも変わらないんだって分かったんだ。
「でもやっと見ることができて、ほっとした」

 発車のアナウンスが響く。
「明日も仕事なんだよね? だったら早く家に帰って身体を休めないと」
 ずっと仕事続きだった上に、引っ越しの作業もあったんだから相当、疲れているはず。
「最終までまだある。一緒にいたいんだ。少しでも長く。そのほうが休まるよ」
 新幹線のドアが閉まり、ゆっくりと動き出した。乗るはずだったその新幹線にはもちろん玲は乗らず、駅のホームから見えなくなるまでふたりでそれを見送った。
 あとに残されたのは、最終の新幹線までのほんの少しの時間。

 改めて目の前にいる玲を目に焼き付ける。
 来てよかった。会えてよかった。私は玲の背中に腕をまわし思う存分抱きつく。ちょうど反対側のホームからも死角になっていて、そこはまるでふたりだけの世界。
「玲」
 愛しくて思わず呼んでいた。抱き合ったまま長い空白の時間を埋めるように。
 すべてが蘇り、辛かったこと、楽しかったことが記憶に溢れる。またこうして玲に触れられていることに有り余る幸せを感じた。
 幸せに浸っていると長い間、叶えられなかったこの感触が現実のものなのかよく分からなくなる。まるで仮想空間の中にいるよう。でも呼吸の度に揺れる胸元が現実だと教えてくれた。

 声にならない声、息使い。もう他になにもしたくない。一生、このまま抱き合っていることができたなら……
 叶わない願いを思いながら、まわした腕にさっきよりも力を込めた。
 それなのに、私から身体を離そうとしていく玲。不安になり見上げると、玲が身体を屈めてきた。
 少しずつ顔が近づく。私は目を閉じた。するとすぐに唇が重なる。何度も離れては重なり合う。止まらない想いとともに、何度も何度も、キスをした。滲んでいた涙が大きな粒となって零れ落ち、代わりに甘い蜜を含んだ愛が注がれていった。
            


 

 
 
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