18.深い愛に包まれて (044)
「壱也に聞いたのか?」
「うん」
私の頭に手を乗せ、やさしく髪をすくいながら語りかけられた。久しぶりにされるその仕草にあの頃を思い出す。玲はいつも私の髪を撫でてくれた。
「最後だからわざわざ見送りにきてくれたんだな」
玲は私が追いかけてきた理由に気づいていない。
最後だから、と。
でも最後にしたくない。違うの、玲。私の気持ちはそうじゃない。ここに来たのは自分の気持ちを伝えるため。
だけど、本当のところ玲が私のことをどう考えているのかは分からない。かつて、別れを告げたのは私の方。玲の気持ちが分からなかった。
「私、玲のこと──」
そう言いかけて言葉を止めた。
玲が離婚したからといって私が玲に気持ちを伝えていいの?
玲の元奥さんは子供とふたりきりで生きていくというのに間違っているのではないだろうか、と私の心がブレーキをかける。
「たぶん、しばらくはこっちに戻って来られないと思う。もう会えないかもな」
──もう会えない
その言葉を聞いて……
もう会えないなんて、そんなのやだ、絶対に。
譲れない想いが溢れ出し…──
じゃあ、どうして私を受け入れたの? どうしてキスしたの?
だけどそれを口にできない。
「最後にこうして会えてよかったよ」
だから私は言葉の代わりに首を振った。
違う、のと。
最後になんてしたくないから、こうして来たの。最低でもいい。この気持ちはもう誰にも止められない。
「自分がなにを言おうとしているのか分かっているのか?」
「分かっているよ。だからこうしてここに来たの」
やっと言葉にできた。たとえ玲が私を否定しても、これが最後のチャンス。
「ここで別れても、玲に会いに行くから。例え、玲に拒絶されても会いに行くから」
ここで諦めたら本当に最後だと思った。私から気持ちを言わなければ玲は本当に最後にしてしまう。
「明日香が俺に気持ちが残っていないといった時、そこで俺はお前を諦めたんだ」
仕事先で玲に抱き締められ、自分の気持ちとは正反対の言葉で玲を突き放したあの日。
「あの時は玲ときっぱり縁を切らないとまた同じことの繰り返しだと思った。奥さんとお子さんのことがあったから」
もう二度と会わないと誓った。私がしてきたことは重い罪。愛や恋を唱えて正当化してはいけなかった。
「……そういう意味だったんだな。俺たちはいつもタイミングが悪いよな。あの時もそうだった」
「あの時も?」
「実はあの時、もう離婚はほぼ決まっていたんだ。それを伝えようかとも思ったけど、中途半端な状態で明日香にそのことを言う権利は俺にはないと思ったから」
あの時に離婚が決まっていた……
でも例えそのことを聞かされていても、私は素直に受け入れられたかな。何度も別れると聞かされて裏切られた私は本当のことを伝えられても信じられなかったと思う。皮肉だけど、どちらにしても私たちはまだあの時は結ばれる運命ではなかったんだ。
大きな回り道は必要だった。時間はかかったけど、きっとあの時、別れたのは正解だったと思う。だから今こうして心が通い合えたんだよね。
「奥さんとお子さんは、今はふたりで?」
一度も触れることのなかった話題。お子さんはおそらく二歳半くらいになっているはず。
「実家に帰ったよ」
「……そう」
そして、これから聞かされる真実──玲がずっと抱えてきた責任の意味。私はそのことを聞いて、目の前の人の本当の苦しみを知ったのだった。
「生まれてきた子供は俺の子ではないんだ」
「えっ……嘘……でしょ?」
ふたりは子供ができて結婚した。父親が他の人なら、どうしてふたりは結婚する必要があったの? 子供の父親と一緒になるべきじゃなかったの?
「妊娠したと周りの人間に言えば、俺の逃げ場がなくなると思ったんだろう」
「玲の子じゃないのに?」
「あいつも、ひとりでどうしていいのか分からなかったんだと思う。思いもかけず妊娠して、相手の男に逃げられたんだ」
「それで自分の子供として受け入れようとしたの?」
「あいつを追いつめたのは俺だから。明日香とつき合う前にちゃんと別れるべきだったんだ。自分の立場しか考えられなくて、結局、俺は両方を傷つけた」
「なら、離婚することなかったんじゃない?」
「離婚はお互いに納得しての結論だったんだ。結婚した時は子供への責任はとろうと俺なりに努力した。けど、もともと夫婦関係は破綻していたから、このままだと子供が不幸になると思うようになった。そのことに、あいつもようやく気づいたんだよ」
重苦しい空気。感動の再会はドラマチックとはほど遠い。私たちの過ちを玲だけに背負わせていたのだと、この時になって初めて知った。私だけが壱也が与えてくれる幸せの中にいたのだ。
「本当のことを言っても明日香を傷つけるのは分かっていた。だから言うべきか迷っていた」
「ほんとだよ。今さらそんなこと言わないでよ。今さらそんなこと聞かされても……」
自分がしてきた罪の大きさを思い知るだけでしかなかった。でも、知るべき事実でもあった。
「ごめんなさい。私、自分ばかりが犠牲になっていたと思ってた。逆だったんだね」
「いや、悪いのは俺だったんだ。会社とか世間に縛られていた俺は、結局守ろうとしていたのは自分自身だった」
──自分自身を守るため
それは私も同じだった。全部自分のためにことが進めばいいなと企んでいた。だからずるずるとつき合って……でも結局苦しんで、そして壱也が救ってくれた。
「私たち、どうしてこうも間違った道ばかり選んでしまうんだろうね」
「でもやっと気づかせてもらえた。あいつや子供、それから壱也にも」
「……うん。そうだね」
周りを苦しめてきたのは事実。間違っていたのも事実。
だけど、玲の別れた奥さんが立ち直る時が来るまで、それが確認できるまで私は玲との将来は望まないから……
だから玲と一緒にいる権利だけをください。
「でも全部知った今、それでも私、やっぱり玲の傍にいたいよ」
「明日香……」
「ずっと忘れようと努力してきたけど、どうしても玲が浮かんできちゃうの。他の人といても、忘れられなかった」
「でも、これからは傍にいてやれないんだぞ」
「いいの。物理的な距離を考えるとすごく寂しいけど、きっと心は前よりも近くに感じられると思うの」
ただ繋がっていたい。気持ちを通い合わせた存在同士で、いつも相手のことを考えていたい。自分の気持ちに正直に生きていきたいの。
時刻は刻々と過ぎ去り、二本の新幹線を見送った。私たちはホームの柱に寄りかかり、繋いだ手でお互いを感じていた。
「まだ信じられないよ」
「なにが?」
「こうして明日香が戻ってきてくれたことが」
「私もだよ。夢みたい」
「でも現実になったらなったで、心配ごとが増えて困るよ」
「心配ごと?」
「傍に置いておけないから心配だよ。こうして触れることもできないんだ。仕事に身が入らないかもな」
繋いでいる手に玲が視線を移した。私も視線を移す。玲の大きなやさしい手を見つめながら、やるせなさを感じていた。
私も同じ気持ち。離れることが辛くて仕方がない。
「私、明日から毎日、玲のことを考えると思う。心配だし寂しい。だけど私は玲の仕事を応援している。それができるのは、私も仕事が大切だと思えるようになったから。だからね、玲と私は同じなの。玲がいるから私は仕事を頑張れる。玲もそうでしょ?」
「そうだな。明日香が前向きに頑張っているのに俺が情けないこと言っていちゃダメだな」
「私に励まされている程度じゃ、玲もまだまだだね」
「明日香には敵わないよ」
そう二人で笑い合って……
強がって……
そして最終の新幹線がホームに到着した。
「帰り、大丈夫か? 気をつけて帰れよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だって。仕事でもっと遅い時間になることなんてしょっちゅうだよ」
あまりにも心配するので笑顔で答えた。
「玲も体に気をつけてね。食事は外食ばかりじゃダメだよ」
「ああ。気をつける。それから向こうに行ったら今よりは仕事はセーブできると思うから週末はなるべくあけるようにするよ」
「うん。なるべく私も会いに行く」
静かに新幹線が定位置で止まった。とうとうこの時がきた。玲が新幹線に乗り込んだ。
ホームには私たち以外にも名残惜しそうに別れを惜しむカップルが数組。泣き腫らす女の子も。でも私は笑顔で見送った。やっと通じ合った気持ち。これ以上、幸せなことはない。
壱也、ありがとう。これもすべてあなたのおかげ。
あなたが私を愛してくれたからこうして玲とまた結ばれたんだよ。
「明日香、愛してる」
別れ際のキスのあとに玲が言ってくれた。
「私も、……ずっと愛してた」
心の奥底に隠していた真実をようやく口にできる喜び。その感動を噛み締めている中……
「明日香が初めてだよ、こんな気持ちになったのも、こんなことを言うのも」
そんなセリフが落ちてきた時には、ドアが二人を阻んでいた。
◇◆◇
真鍋課長には次の日にすべてを報告した。
「別れることになったら俺が引き受けてやる。まあ、それまで俺がひとり身だったらな」
憎まれ口のような強がりで返された。でもそれは少しでも私に負担をかけないようにするため。そんなところは相変わらず。
「別れませんので、心配しないで下さいね」
それからの毎日は週末に休むために猛烈に仕事をこなした。そんな私に大内さんがライバル心を燃やす。
「片瀬ごときに負けてたまるか」
独り言がぼそっと聞こえてきた。
「グズグズしていると追い抜いちゃいますからね」
私も独り言のように返した。
黙って私を睨む大内さん。
いや、そんなに睨まれても。冗談ですって。
そんなふうに週末に会いに行くために頑張っていた私だったけど、実際、そううまくはいかなくて、私自身、週末に仕事が入ることもしばしばだった。
もちろん玲も仕事のことも多く、会える回数は少ない。
「ごめんね、玲……」
『いいよ。でも次のチャンスは三週間後だな』
「ええ!? そんなに先になっちゃうの?」
『三週間なんてどうせあっという間だろ。一日が24時間じゃ足りないくらいなんだ』
「そうだけど……」
だけど私の心は満たされていた。かつてひとり寂しくマンションで玲を待っていたあの頃とは違う。私も自立して玲の仕事も十分過ぎるほど理解できるようになった。お互いの休みが合わなくて会えない時も、私が前向きに仕事を頑張れるのは玲が頑張れよと言ってくれるから。