第三章 傷つくカラダ

 

 それから一週間後。いつものように瀬谷課長から誘いのメールが届いた。

「ふふっ」
「気持ち悪い声出すな」
「ごめん」

 仕事中に隣のデスクの遠野に睨まれた。
 だけど、いいの、いいの! 私は笑顔でかわすのだ。こんなことぐらい、どうってことないの。だって今日は瀬谷課長との久しぶりのデートだから。

 車通勤の瀬谷課長と仕事帰りに落ち合って過ごすふたりきりの時間はほんの数時間。だけど、それだけでもいいの。忙しい合間をぬって会ってくれるのだから、ワガママは言えない。言ってはいけない。そんなことを言ったら、きっと瀬谷課長は私を誘ってくれなくなるかと思うんだ。
 だって、瀬谷課長が一番大切にしているものは……きっと家族だから。
 けれどそれは最初から分かっていたこと。それを承知で関係を持ってしまったのだから、何も言う資格はないんだ。

「はぁー……」
「変な笑い声がおさまったと思ったら、今度は溜息かよ?」
「あれ? 溜息なんてついてた?」
「ああ。うっとうしいくらいな溜息だったよ」

 どうも無意識だったみたい。

「ごめんね」
「今度から気をつけろよ」

 もう、いちいちうるさいなあ。溜息くらいつかせてよ。どうしても考えちゃうんだもん。瀬谷課長のこと……

 時々、この状況が私にとっての幸せなのか分からなくなる時がある。
 追い続け求め続けても、いつまでも一方通行。振り向いてくれないのは、分かっているのに、振り向いてもらうことを期待している自分。どうしようもなくて泣きたくなる時もあって、恋がこんなに辛いものだとは思わなかった。?

「気をつけますよ。だけど、ちょっとくらいいいじゃない。考えごとしてたら、つい無意識に出ちゃったんだから」
「考えごと? どうせ、くだらないことだろ」
「まさか。仕事のことです!」
「違うだろ。男のことだろっ」

 遠野がわざと声の音量を上げた。

 今の声、みんなに聞こえちゃうじゃない。

「ちょっと! 声が大きいっ!! それに男のことじゃないからっ!」
「おまえの声の方がでかいんだよ。ああ、耳が痛てぇー」

 怒りに震えるとはこのことだ。
 酷過ぎない? どうして遠野は私の嫌がることをするのだろう。いいじゃない。仕事中に好きな人のことを頭にチラッと過らせても。それとも他の人はそんなことを微塵も考えずに、常に仕事に没頭しているとでもいうの?

 ──と、表立って言えない思いを心の中でぶつくさ言っていたら、周りの様子がおかしい。見ると案の定、みんなが私たちに注目していた。そればかりじゃない。一番痛く響いてくるのは、田中部長の怪訝な目。しかもなぜか私に一点集中。
 な、なぜ? 遠野だって大声出していたのに。
 だけど、隣を見るとクールに仕事をしている遠野。
 もう……誤魔化すの、うまいんだから。はー、睨まれちゃったよ。遠野のバカヤロウ。

 田中部長は我が営業部の部長でもあり、同時に東京営業所長でもある。つまり役職を兼任している。
 普段は気さくで温厚。学生時代にはラグビー部だったらしく体つきはなかなかいいのだが、最近はちょっとメタボ気味。毎日、奥さんに手作り弁当とダイエット茶を持たせられていた。
 そんな田中部長の機嫌を損ねさせるなんて……私って……

「遠野のせいで田中部長に睨まれた」

 いまだに私を狙う田中部長の鋭い視線。私はそれから逃れるように視線を落とし、小声で言ってやった。

「だから、佐々木の声がでかいんだって」
「すみませんね。声がでかくて。この部署でおしとやかにしろという方が無理な話なの」
「……」

 だけど遠野からの返事はなかった。

 あれ? てっきりまた嫌みのひとつでも返ってくるかと思ったんだけどな。
 チラッと目だけ隣に動かすと、さっきと同じように何事もなかったかのように仕事をしている遠野。
 まったくこれだよ。さんざん人に攻撃しておいて、自分はあっさりと引いてもの分かりのいい大人ぶるんだから。

 社内でも私と遠野の仲が悪いのは有名だった。遠野の得意技は外面の良さ。最初こそ、遠野の本性を知らない遠野狙いの女の子たちに陰口を叩かれていたけれど、私と遠野が仲が悪いと知れ渡ったおかげで今ではそれも皆無。
 でもまあ、これはこれでよかったのかなあ。
 陰口を言われていた頃は、他の部署の女子社員に会うのが怖くてトイレにすらなかなか行けなかった。胃がキリキリするほど身も心も疲れてしまっていた。

 それに比べれば今は清々しいくらい、思いっきり会社の中を歩ける。
 そう思うと気分も軽くなるもので……
 少しくらい意地悪なことを言われても、今日は笑って許してあげる。うん、そう思い直すと気分が良くなってきた。今日は残りの時間、張り切って仕事ができそうだよ。
 それから軽快にパソコンのキーボードを打ちながら今日も怒涛のように鳴り響く電話応対も同時にこなす。おそらく、声はいつもよりも高めになっていることだろう。

「佐々木さん。平成電気向けの取説なんだけど、種類別にそれぞれ五部ずつ作成しておいてくれる? 明日、昭和商事に持って行くから今日中によろしく」
「……分かりました」

 忙しい最中(さなか)、営業部の男性社員の先輩に急に大量の仕事を頼まれた。電気工事店に提出する取扱説明書の作成だ。
 こういった書類は代理店を通して工事店に提出される。メーカーである我が社は代理店契約をしていない企業には製品を販売することはできない。そのためうちの会社の場合、書類関係もよほどのことがない限り、代理店を通して配布してもらう。この場合、昭和商事が代理店である。
 だけど、参ったなあ。結構なボリュームだよ。
 こういう仕事はいつものことだけど、夕方までに間に合うかなあと心配になった。いつもだったら今日中と言われれば、時間を気にせずに間に合わせればいいんだけど、今日は定時の17時30分までになにがなんでも終わらせなきゃ。私はいつもよりもハイスピードで仕事を片づけた。ただ黙々と印刷をかけ書類を仕上げていった。

 そして夕方の慌ただしい時間帯がやってくる。外線や内線がひっきりなしだ。他のデスクに用事があったり、コピーのために席を外したりしていても電話の音が聞こえたらすぐさま反応しなくてはならない。この部署は、事務職といっても体力が必要な職場。
 でもあと少しで定時。この時間を乗り切れば、瀬谷課長に会える。頼まれていた取説の書類は完了する目処もたち、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 でもそう思ったのも束の間。私は不幸の嵐に襲われてしまった──

「大変だろうけど明日までに提案書を頼むぞ」
「分かりました」

 ああ、可哀そうに。

 夕方のこの時間に田中部長に仕事を頼まれている遠野を見て少し同情した。
 でも、そんなことを思った私が間違いだった……

「今の時間に頼んで悪いな。なんとか間に合わせてくれ」
「ええ。大丈夫です。その代わり誰かに手伝わせてもいいですか?」
「ああ、そうだな。いくらなんでもひとりでは大変だろう。いいぞ、遠野の好きなようにしろ」
「……じゃあ、佐々木に頼みます」

 はぁ!? 何を言っちゃってるの!? 今日はデートの予定があるのに! 無理です、無理です! 残業はできませんから! 遠野、今日は見逃してってば!
 わざとらしい爽やかな顔で仕事を引き受けている遠野を私は思いっきり睨んで“絶対にヤダ!”と意思表示してみせたけど。

「それがいいな。聞こえたか、佐々木。そういうことだ」

 ええ!? 田中部長までそんなむごいことを。
 田中部長も爽やかに賛成する始末で……「残業になるけど頼んだぞ」とすっかり安心したように言う。
 そんなぁ。今日はいつもより気合いを入れて仕事をこなしてきたのに。もう十分過ぎるくらいに働きましたよ、田中部長……

 だけど……マズイ。このままではマズイ。
 私はオロオロしながらも、なんとか席を立ち、口を開いた。

「あの、私、今日は用事がありまして……」

 田中部長にそう言いかけたけれど。

「ん? 何だね?」
「あ、いえ……」

 日中、田中部長の前で遠野と派手な喧嘩を披露してしまった手前、強気にでることができず……
しかもギロッと睨まれたし。いまだに田中部長の機嫌が直っていないみたいだ。

 とおのぉー、お願い、今日だけは見逃して! 頼みの綱の遠野に心の中で必死に叫んでいた。

 だけどそこは遠野。

「何でもするって言ったよな?」

 デスクに戻って来て小声で私を脅した。

 あさましい男。こういう時に“見返り”を持ち出すなんて、卑怯だ。

「今日は無理だよ。約束があるの」
「なーんだ。ザンネン。約束があるなら仕方ないなぁ」

 脅すとは正反対の軽い言い方。だけどその意味を知っている私にはとてつもなく重い言葉に思えた。声色とは裏腹の企みが見え隠れしていて、私を不安に陥れる。

「あの、ほんとに今日断って構わない?」
「別に」
「ほんとに、ほんと?」

 気まぐれな遠野のことだから、信じていいのかな?

「だって約束あるんだろ。別にいいよ──」

 だけどそのあとにつけ加えられた言葉に絶句した。

「……うっ」

 それはダメ! 絶対に断れない。断ったら大変なことになる。つまり“約束があるなら仕方ないなぁ”ではすまされないんだ。

 ──俺に言いふらされてもいいんなら、断れば

 こんなことを言うなんて、遠野の奴、性格悪過ぎだよ。私が瀬谷課長とデートの予定があると知っていてわざと残業を押しつけたんだ。私が浮かれていたから。それで遠野は勘づいたのだ。
 だけど、どうもしっくりこない。“見返り”といいながら、遠野はこんな程度のことでいいのかな。遠野にとってそれほど得することではないような気がする。頼まれていた仕事だって、きっと遠野の力量だったら私が手伝うほどのことではないはずなのに。
 それよりも私の損する率が高すぎるんだけど。遠野がたいして得をしない代わりに、私が泣きたくなるほどのことを仕向けられるだなんて……
 あれ? それって、まさか……
 私が落ち込む顔を見てほくそ笑むことが“見返り”に匹敵するほど価値のあることなの?
 悪趣味過ぎる。だとしたら、私は遠野にどれだけの恨みを買っているのよ。そこまで嫌う理由は何?

「どうせ、俺が言わなくても田中部長は佐々木を指名していただろうよ」
「……」
「どう考えても佐々木しかいないだろ。俺の手伝いの役割ができる奴は」
「そう、だけど……」

 どうしても、いまいち納得できない。このまま、遠野の言いなりになっていいのかな。

「さっさと観念しろよ」

 椅子の背もたれにふんぞり返って偉そうな態度。それも悔しくて返事ができないでいた。
 そんな私の煮え切らない態度がしばらく続き……

 その後……空気が一瞬にして張りつめたものに変わった。

「ならさあ……」

 遠野の声が聞いたことのない妖しい声色に変わる。さらに、いつもの冷たくて口の悪い嫌味な男ではなく、野獣のような攻撃的な色気をまとわせていた。そして私の目に飛び込んでくるのは企みをもった深い色の瞳。なぜか吸い込こまれるように見入ってしまい、それにハッと気づいた途端、身体中が熱くなって汗が滲んだ。

「……なに?」

 恐る恐る訊ねる。その先の言葉は想像できるようで、できない。何を言われるのか、さっぱり分からなかった。でも次の瞬間、聞かされた言葉に私の心は思いっきりかき乱された。

「俺を悦ばせるワザ、持ってんのかよ?」

 ……は?
 ニヤリと微笑まれて、あり得ないほどにドキドキと心臓が激しく波打ってしまう。呼吸が乱れて息苦しい。それに、何よ、この雰囲気は。妙な色気、醸し出しちゃって。
 私は、このままこの雰囲気に飲まれてたまるかと力を振り絞って訊ねた。

「“よろこばせる”ワザ?」
「俺を満足させられるかってことだよ」
「……意味……分かんないんだけど?」
「例えば……カラダで奉仕するとか、そういうことだよ」
「カ、カラダ?」
「あ、そういえば、あの時の、アノ声、なかなかだったよな」

 さっき、滲んだ汗が滴っていくようだった。
 どうして私をそんな目で見るの? 遠野ほどの男なら他に言いよってくる女の子の数はひとりやふたりじゃないはずでしょ。

「俺としてはそっちの方が得なんだよな。だから別に構わないぜ。今日の残業を断ってそっちに変更しても。どうせ、この仕事、やろうと思えば俺ひとりでもできるから」

 遠野は怯える私を嘲笑いながら言った。
 私は机の下で拳を作る。ぎゅっと握りしめて沸き上がってくる怒りをどうにかおさめていた。だけど、許せない。こんな“見返り”を求めるなんて。

「……冗談じゃない」

 そんなこと、死んでもイヤ! ありえない、ありえない!

「言いふらしていいんだな」

 遠野とそんなこと……絶対にありえないからっ!

「ダメ!」
「じゃあ、どうすんだよ?」
「……分かったわよ」
「どっちだよ? 手伝うのかよ? 手伝わないのかよ?」
「手伝う方に決まってるでしょ。手伝うわよ、手伝います」

 遠野がこんな奴だとは思わなかったよ。ここまで腐っていたなんて……
 怒りと悔しさと、それから襲ってくるのは虚しさ。私は泣くのを堪えて今日の残業を引き受けた。

「最初から素直に従っておけばいいんだよ。だいたいな、俺が佐々木なんかにその気になるわけないだろ」

 くるっとパソコンの画面に向き直し、私に興味がないかのような冷めた言い方。

 ──その気になるわけない

「……え?」

 この時、遠野の言っていることがどういうことなのか分からなかった。ぽかんと、頭に中でその言葉をリフレインしていた。

「自分のカラダ、そんなに価値があると思ってんのかよ?」

 だけど、そこまで言われてようやく気づく。

 はぁ? それってつまり、からかわれたってこと!? ふざけないでよ! 遠野!私のカラダ、知らないくせに。そりゃあ、芸能人やモデルさんみたいに自慢できるほどではないけどさ……だからって遠野なんかに判断されたくないよ。人の価値を勝手に決めないで!

「あのねえ、そうやって人のこと馬鹿にするのもたいがいにしなよ。何なの? どうして私のことをそんなに目の敵にするの?」

 イライラがマックスとなって、仕事中だというのに、遠野に身体ごと向けて気性を荒げて言った。

「目の敵? 言いがかりだよ。そっちが先にそういう態度をとってきたくせに」
「違うもん!」
「そうなんだよ!」

 そして再び始まる喧嘩の声に、田中部長が目を光らせたのは言うまでもない。それに気づいて「すみません」と小さくなる。諦めて、おとなしく仕事を再開した。?

 すごくすごく傷ついた。
 私には価値がないの? からかわれるような存在価値なの?
 唇を噛みしめた。感情を痛みに変えて、どうにか堪えていた。
 そしてなんとか思い直す。……いや、違う。そんなことない。
 瀬谷課長は私をそれでも好きだと言ってくれる。綺麗だとも言ってくれる。何度も裸を愛された。そうだよ。私だってこれでもちゃんと愛されるカラダなんだ。自信、持たなきゃ。もう、これ以上、遠野の言うことに振り回されてたまるか。
 目尻に滲む涙を指先で拭って、そう自分を励ましていた。

 それからパソコンの画面を見ながら考えていた。遠野の仕事を手伝うことは、はっきり言って苦痛以外の何ものでもない。だけど、落ち着いてよく考えたらすごくまともな“見返り”のような気がした。これで妥協しておいた方がいいだろう。仕事で返せるのならそれに越したことはない。ここで引き受けておかないと、次に何を言われるのか。考えただけでも恐ろしい。

 こうして今日の瀬谷課長とのデートは白紙になった。
 不倫とはいえ、社内恋愛はこういう時に便利だ。瀬谷課長もこの場にいるので事情を理解してくれていた。つまり、デートを断っても瀬谷課長は事情を知っていてくれるから、浮気などを変に疑われることもない。それに私からデートを断わってしまうと二度と誘ってもらえないのではないかという不安がいつもつきまとっていて、今まで何が何でも都合を合わせていた。そんな不安も今はない。

 瀬谷課長を見ると、私の目を見て苦笑いしていた。仕方ないね、とその目が言っているような気がした。そしてあっさりと仕事モードに戻る。まるで何事もなかったかのように。
 ねえ、瀬谷課長? 今日の夜、私と会えなくなって寂しいとは思わないの?

 心に落ちた硝子の欠片はチクチクと痛めつけながら傷を作り、私の中に膿を増やしていく。
 この真っ暗な道にはゴールも目印もない。
 それでも手探りで傷だらけの重い身体を引きずりながら歩き続けなくちゃならないのは、何のため? 自分のため?
 けれど結局、その答えは見つからないまま、時間だけが過ぎていき、定時をとっくに過ぎても仕事は続くのであった。
            



[2012年09月23日]

 
 
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