第四章 二人きりのドキドキ残業

 

 夜の8時になっても残業が続いていた。
 するとそこへ、帰る準備の整った瀬谷課長が近寄って来て話かけてくる。相手はもちろん遠野。

「大丈夫か?」
「はい。省エネプランでしたら、いくつか企業向けに作成していたので、あとは最新の型番に直してワット数を計算し直す程度です。なので今日中に間に合います」
「さすがだな。その様子だと大丈夫そうだな。でも何かあったら電話しろ」
「ありがとうございます」

 二人の会話を聞きながら、ドキドキが止まらない。遠野は私と瀬谷課長の関係を知っているのに素知らぬふりして淡々と受け答えしている。遠野の外面の良さというのはこういう時も遺憾なく発揮される。
 いいことなのか、そうでないのか。傍で聞き耳を立てながら、とにかく事を荒立てずにすべてうまく解決されて欲しいと願っていた。

「じゃ、俺は先に帰るけど。遠野、頑張れよ」
「お疲れさまでした」
「佐々木さんも」
「……お疲れさまでした」

 ひと通り会話が終わると瀬谷課長は私と遠野に挨拶をしてオフィスをあとにした。
 当たり前だけど帰る先は家族の元。その背中を悲しい気持ちで見送る。
 こんなこと、思っちゃダメだよね。こんな卑屈な心、瀬谷課長には知られなくない。面倒な女に思われてしまう。だけど本当だったら今日は一緒に過ごせたんだよね。一緒にホテルに行くだけだけど、すごく楽しみだったんだ。こんなにもどかしい気持ちは私だけなのかな?
 颯爽と帰る瀬谷課長の姿を思い出しながら、行くあてのない空虚感が私を苦しめ続けていた。



「さいてー」

 結局、あたる矛先はこの男しかいない。

「どの口がそんなこと言ってんだ? 契約を忘れたのかよ?」
「分かってるよ。けど、よりによってどうして今日なのよ」

瀬谷課長が帰ったあと、私は力任せにキーボードを叩いていた。悶々とした気持ちがいつしか不快に変わり、遠野に聞こえるようにわざとカタカタと音を鳴らす。怒りをそこにぶつけていた。
この時は、何に対する怒りなのかよく分からなくなっていて……

「こんな時だから言ってんだ。鈍感」

 …──そう呟かれた声も興奮状態の私には届いていなくて、とにかく何もかも嫌で仕方がなかった。

 こうなったら完璧な仕事をして、遠野にひとことも文句なんて言わせないんだから。意地とプライドが私を奮い立たせる。
 こうして時間だけが刻々と過ぎていった。



 この時間、営業部に残っているのは私と遠野だけ。二人だけのフロアは静かすぎるせいで空調の音がやけに大きく聞こえる。
 時計を見ると夜の10時近く。あれだけイライラしていたのにいつの間にか仕事に集中していたようだ。そして、ようやく提案書が完成し、私は得意のホッチキス止めで資料をまとめていた。

「すげーな」

 気持ちいいほどにパチパチと音が響く中、遠野が横目でこちらを見ながらぼそっと言った。

「何が?」
「ホッチキス止め」
「ああ、これ? 入社してからずっとこの仕事ばっかりだから。誰かさんと違ってね」

 ここぞとばかりにイヤミもつけ加えてやった。褒められたのに素直に受け止められない私はどこまで捻くれているのだろう。

「でも助かるよ。そんな手早く綺麗には俺にはできねえよ」

 それなのに遠野はいつもと違う態度を取るものだから、びっくりして作業の手が止まってしまった。

「そう? 誰にでもできる仕事だと思うけど」

 遠野が私を褒めるなんて初めてかも。なんか、変なの……
 それにこんな簡単な仕事を褒められてもうれしくないし。遠野がこなす仕事に比べたら、おままごとレベルだもん。それにこんな簡単な仕事を褒められてもうれしくないし。遠野がこなす仕事に比べたら、おままごとレベルだもん。こんな仕事、小学生にだってできますから!

「誰にでもできるかもしれないけど、スピードと正確さは佐々木だからだろ。書類作成も早いもんな、おまえって」

 急にしおらしくなるから調子が狂う。確かに仕事は早い方みたいだけど。それは瀬谷課長にも言われた。

「ブラインドタッチくらい今時、普通だよ」
「でも経理の女でいるだろ。パソコン打つのもとろい、電卓たたくのも超おせー奴」

 経理の女とは、本社経理部の竹ノ内さんのことだ。彼女、かなりのオシャレさんで社内でもかなり目立つ。毎日気合い入っているなあと、いつも思っていた。

「それはたぶん爪を伸ばしているからだよ。彼女、ネイルに凝っているみたいだし」

 私とは正反対の彼女の爪は、いつも色とりどりのネイルで、全体の容姿の印象も華やかな人だった。

「そうそう。電卓たたくのにボールペン使ってた。俺、ああいうの嫌いなんだよな。料理や掃除、ちゃんとやってんのかよって言いたくなる」
「慣れればいけるみたいだよ。私は仕事に差し支えるから爪は短くしているけど」
「佐々木の爪、いつも綺麗だよな」

 遠野がおもむろに、私のシェルピンクのマニキュアを塗っている爪を見て言った。
 今度は“綺麗”って言った? まさか、遠野にそんなことを言われるなんて……
 サクッと言うものだからなんだか信じられなくて、からかわれているのかなと思ってチラリ遠野を見ると、澄ました顔をしている。
 少し前までの憎たらしい態度は微塵も感じられず、その変わり様は私を混乱させた。脈が速まっていくのを感じたけれど、自分ではどうすることもできない。
 違う。きっと深い意味はないのだと、自分に言いきかせることが、私にできるせめてものことだった。

 オフィスは当然のごとく静まりかえっているので、この“間”が何とも言えず、私は次の言葉を必死に探していた。

「……そ、そうかな?」

 だけどこういう時に限って頭は真っ白になってしまうもので、間抜けな返ししかできない。さらに自分の爪を眺め、照れ笑いを浮かべた。
 綺麗と言われたんだよね。褒められたのは爪だけど、悪い気はしない。

「そう思うけど」
「私の爪、小さくて丸っこいんだよね。それがコンプレックスだったんだけど……」

 どうせ誰も見ていないと思っていたのに、遠野には気づいてもらえていたんだ。

「佐々木らしいよ」
「私らしい?」
「やっぱ男とは違うんだなって。それに媚びてない感じがおまえらしい。そういうとこに気を遣える奴、そうそういないから」

 気づくとほんのりとやわらかな視線を送られていて、それをちょっとだけ甘く感じてしまう。胸の奥の方は健気なくらい、素直に反応している。
 私が一番苦手なもの──それは人のやさしさ、なのかもしれない。相手は遠野なのに、私の乾いた部分にそっと甘い果汁を注ぎこんで潤してくれるから、ほろっと傾きそうになる。支えのない今の私はひとりで立っていることもままならなかった。?

「ありがと」

 短くお礼を言う。
 ちょっと素っ気なかったかな、なんて思いながら、私の中の遠野のキャラが定まらなくて自分でもどういう態度で出ていけばいいのかと戸惑っていた。いつも敵意むき出しな口をきく遠野とばかり接していたから。

「いや。前から思ってたことだし」

 “綺麗”とかそういうの、言い慣れているのだろうか。可愛くて綺麗な女の子をたくさん知っていそうだからな。きっとそうだよね。じゃなきゃ、遠野が私を褒めるなんてことするはずないもん。
 ……と思いながらも気分が良くなっていくのが女心というもので。ああ、なんて単純なんだろう。
 それまでの、ぴりぴりとした空気までもやわらかく変わっていく。急に遠野の存在を意識してしまって、ホッチキスを持つ指が少し震えていたかもしれない。

 いろんな葛藤の中、その後、ようやく最後の書類にホッチキスが無事に止められ、仕事を終えた。

「仕事、サンキューな。佐々木に頼んでよかったよ」

 またもや珍しくお礼を言われる。

「別にいいよ。たいしたこと手伝えなかったし」
「……」
「……」

 この時、私と遠野に微妙な空気が流れた。でもそれは私のせいじゃなく遠野のせい。遠野が私を見つめて急に無言になるからで。
 あの、……遠野? 急に黙らないでよ。私、どうすればいいのか分かんないよ。
 すると、遠野の目がわずかに見開く。それから覚悟を決めたように口を開いた。

「いったい、いつまで瀬谷課長と関係を続けるつもりだよ?」

 お説教をするわけでもなく、落ち着いた口調で言った。
 言葉を言い終えると、今度は真剣な顔がふっと近づいてくる。どちらが立てたものなのか、キィーッと椅子の軋む音が耳に届き、静かな迫力に気が遠くなりそうだった。
 時間が止まったみたいに私の表情は凍りつく。質問の内容も、訊かれて一番困ることだった。

 遠野は私をどうしたいのだろう? その話題、もう触れられたくないのに。だいたいこうして仕事を手伝ったんだから、その話題もできれば避けてもらえないかな。こちらが後ろめたい分、強く言い返せないんだから……

「いつまでって……そんなの考えたことないよ。……先のことを考えていたら、つき合っていけないでしょ」

 私は俯き加減でなんとか答える。
 いい加減だと思われたかな。だけどそうだから正直に答えた。
 そして感じる強い視線。じっと見つめられているようで、逆に私から遠野を見ることができない。
 やっぱり責めているの? いいよ。それでも。最低だと見下せばいい。私はただ遠野が約束を守って私と瀬谷課長の不倫を誰にも口外しなければ、それでいいんだから。なんと思われようと、それは当然の報いだと思っている。

「最後に泣くのは佐々木なんだぞ」

 なのに遠野は思ってもみないことを言った。
 私が泣く……?
 ますます変だよ。今日の遠野は。私のことを心配しているの? まさかね。だって遠野は私と瀬谷課長の関係をみんなにバラそうと企んでいてそれで今日はその口止めを条件に仕事を手伝わされたんだから。私のことをいいように扱って、ヒドイ奴なんだから……

「決めつけないで」
「俺はおまえのためを思って言っているんだ」
「余計なお世話」
「余計なお世話だろうと、言いたくもなるだろ。自分のしてること、よく考えろよ。佐々木は瀬谷課長の家族を傷つけているんだぞ」
「……」

 傷つけていると言われて、何も答えられない。
 だけど私も傷ついている。カラダがほんのひと時の悦び感じる度に心に黒い毒が浸食していく。深呼吸して毒を吐き出そうとしても、それはべっとりと張り付いて、どんどん溜まっていくばかり。

「聞いてんのかよ?」
「もうやめてよ。そういうのはたくさん」
「だけど、もしバレたら非難を浴びるのは佐々木なんだ。そこまでのことをしていることをちゃんと分かってるのか?」
「言われなくても自分の立場くらい分かってるよ。でも例えバレても遠野に迷惑はかからないでしょ。だからもう……私のことが嫌いなら嫌いでいいから……放っておいて……」
「佐々木。俺はただ瀬谷課長のことがどうしても信用できないんだ。それに瀬谷課長に佐々木はもっ──」
「やめて! もう、聞きたくない!」

 私はこの雰囲気にいたたまれなくなり、デスクの上のものを急いで片づけていた。乱暴にバッグに携帯を押し込んで、パソコンの電源をオフにする。そして帰り支度を終えるとバッグを手に取り……

「終電、間に合わなくなるから。お先に。お疲れさま」

 逃げるようにオフィスをあとにした。

「待てよ! 佐々木!」

 後ろで遠野が私を呼ぶけど、その時、すでに私は廊下を駆け出していた。



 駅に着き、息を整える。

「痛っ」

 ヒールの靴で走ったせいで足の指先がズキズキ痛んだ。遠野は会社の外まで私を追って来たわけじゃないのに、私は止まることなく走り続けていた。逃げるように。何から逃げようとしたのだろう。あのまっすぐな瞳からだったのだろうか。
 遠野に全部見透かされているようで怖かった。私が隠している心までも見抜かれているような気がして……
 こんな弱い私を見られたくない。本当の私は、瀬谷課長に捨てられないように必死に仕事をしているだけの、毎日怯えながら過ごしているただの臆病者なんだよ。このこと、遠野が知ったら、笑うかな?

 ようやく呼吸が落ち着いた頃、バッグから携帯を取り出す。
 帰りの電車のホームで私は携帯のメールに残された瀬谷課長からのメッセージを見て涙を拭った。
【明日、夜7時。時間空けておいて】

 ……分かってる。
 遠野、ごめんね。遠野が何を言いたかったのか、なんとなく分かっていたよ。こんなこと、続けている意味がないことぐらい自分でもよく分かっているの。瀬谷課長は奥さんと別れるとも、私と結婚するとも一度も言ってくれない。だからちゃんと分かっていたの。そんなの、嫌というほど自覚をしていたよ。
 瀬谷課長が私に本気ではないのは重々承知。それでも好きだから。私はその恋に溺れていた。だけど私はたったこれだけのメールでもこんなに大きく心が躍るの。それくらい私は瀬谷課長が好きなんだよ。この気持ちはどうしても止められない。止めたくても、止まらないの。
 今はこの道が正しいと信じるしかない。じゃないと途方に暮れる。戻り方が分からないから。
            



[2012年09月29日]

 
 
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