第五章 寂しさの紛わせ方(005)

 

 金曜日、週末はそれだけでテンションはあがるもの。しかもデートの予定で埋まっていたらなおのこと。
 私は朝からハイスピードで仕事を片づけていた。

「遠野。物流部に行って来るね」

 頼まれた書類を届けに行く私の足取りは、さぞ軽快だっただろう。
 そして用事をすませて営業部に戻り再び自分の席に座ると「随分と機嫌いいじゃん」と遠野が話しかけてきた。

「いつも通りだけど」

 だけど私は軽くそう返し、目を合わせずクールに仕事を再開した。

 昨日、あんな形で会社を飛び出しちゃったけど、今朝の遠野はいつも通り。逆に私の方がガチガチで……だけど何事もなかったかのようにスマートに仕事をこなす遠野を見ていたら、悩んでいた自分が何だったのだろうと思うくらい。

 この人の感情は、いったいどんな仕組みになっているんだ? 一晩たてばリセットがきくのだろうか? ほんと、変な男。
 ──と、こんなこと考えている場合じゃなかった。仕事、仕事! 時間内に終わらせないと! それで定時になったらダッシュで帰ってやる。今日は遠野に邪魔させないんだから。

 時計を気にしながら焦りつつ、ますますテンションも上がってくる。あと一時間で定時だ。すぐに帰れるように仕事をしながらさりげなくデスクを片づけ始める。
 するとポケットで私の携帯が震動した。メール? 送信元は瀬谷課長だった。
 何だろう? 期待と不安が入り混じりドキドキしてメールの内容を読むとそれは私を落胆させるものだった。

【ごめん。今日駄目になった。また来週にでも時間をつくるから】

 驚いて瀬谷課長の方を見たけどなぜか視線を逸らされた。
 何で? 無視された? 嘘……今の、気のせいだよね?

 すると瀬谷課長は私から視線を逸らしたまま、口を開いた。

「遠野、ちょっといいか」
「はい」

 遠野は立ち上がると瀬谷課長のデスクへ向かった。そして何やら深刻そうに話をしていた。
 しばらく打ち合わせが続き、それが終わると瀬谷課長は田中部長に小声で挨拶をしている。それから周囲の人たちに「今日は先に帰るな」と言い残し、足早にオフィスを出て行ってしまった。

「珍しいな。瀬谷課長がこんな時間に帰るなんて」

 営業部の先輩がそんなことを言っていた。

 確かにそうだ。早退するなんて珍しい。
 心がざわつく。胸が締め付けられるように苦しくなって、動悸が激しくなっていく。
 こんなこと、そして、こんな気持ちも初めてだ。急用みたいだったけど、いったい何があったのだろうか。

 嫌な予感が頭から離れなくて、だけどそう思いたくなくてあれこれ理由を考える。
 だけど考える必要もなかった。

「瀬谷課長のお子さんが肺炎で入院になるかもしれないそうだ」

 田中部長が先輩にそう言っていたのが聞こえた。それを聞いて、瀬谷課長が遠野と打ち合わせをしていた理由はだいたい察しがついた。

 そっか……お子さんが病気なんだ……。なら、私との約束なんて放り出して当然だよね。
 私の視線を逸らした瀬谷課長を思い出していた。
 少なくとも私がどう思うかを考えてくれたから、あんな態度をとったんだよね? そうだよね? だから、私が傷つく必要はきっとないのだ。
 だけど加速していく鼓動がどうしてもおさまってくれない。……怖いよ、このままだととんでもないことを考えてしまいそうになる。私は必死に心を抑えつけていた。

 それからほどなくしてデスクに戻ってきた遠野。手にはたくさんの資料を抱えていた。

「手伝うよ」
「いいよ。昨日も残業だっただろ」
「それは遠野も同じでしょ」

 早退した瀬谷課長の代わりに遠野が仕事を引き継いでいたのだ。
 遠野は瀬谷課長と一緒に営業に出ることも多い。遠野に仕事を教えたのも瀬谷課長であって、この流れは当然のことだった。

「たいした量もないし一人で平気だって」
「でも二人でやった方がもっと早く終わるよ」

 でも本当は一人になりたくなかったから。一人で浮かれていた馬鹿な私はこんなことでしか寂しさを埋められない。
 それに、仕方のないことだと自分に言い聞かせても胸の中に渦巻く憎悪は否めない。それを誤魔化すためにも、一人になりたくないのだ。

「じゃあ、頼む」

 その気持ちを知ってか知らずか、承諾してくれた。
 昨日、一緒に残業をしてみて、遠野と二人で仕事をするのも悪くないと思った。遠野の仕事に取り組む姿勢はまっすぐで、正直、清々しい気持ちにもなれた。

「私の方の手持ちの仕事もすぐに片づくから、さっさと終わらせちゃおう」

 こうして昨日に引き続き今日も二人きりの残業が決まった。



 仕事はすべて遠野の指示通りに進められていく。見積もりの項目と単価を修正する作業なのだが、これが地味に大変。

「ここ、名称、間違ってる」
「ごめん、すぐ直す」

 仕上がった見積書を遠野に最終チェックをしてもらった。悔しいけど遠野はやっぱり仕事ができる。軽く目を通しただけなのに私の入力ミスをいくつも見つけてくれた。
 その度にどれだけ自分に力がないか思い知らされるけど、遠野を妬むことはなかった。今までの私だったら、相当悔しがっていたに違いないのに。自分の変化に我ながらちょっとびっくり。

「ん? これ、もしかして?」
「どうしたの?」

 遠野が見積書を見て眉間に皺を寄せている。でもこの項目は修正が必要な項目ではない。それなのにパソコンで検索をかけ何かを調べ始めた。

「この型番、製造中止になっているからこの代替品の型番に直して」
「型番を見ただけで分かるの?」
「前に製造部からの通知にあった型番と似ている気がしたから」

 すごいな、遠野の奴。型番まで記憶しているんだ。しかも修正の必要のないところまで目を通していた。
 少し、いや、かなり見直した。遠野は私とは違う。遠野だけじゃない。営業部のみんなと私の力量の違いは雲泥の差だ。
 私は未だに部材を把握できていないし、システムのソフトだってうまく扱えない。同期である遠野のことを何かにつけて妬んでいたけど、考えれば考えるほど自分の負けを認めるしかないようだ。

 それからも順調に仕事が進んだ。二人で一つの仕事をすると張り合いがあって思いのほかはかどる。
 最後に私が印刷をかけて……

「よし。これでOK」

 見積書をまとめるために鑑をつけてホッチキスで止めた。

「終わったあ」
「意外に早く終わったな。やっぱり二人でやって正解だったよ」

 時刻は夜の8時前。
 もっと時間がかかるかと思ったけど予定より一時間ほど早く片づいた。遠野とも妙に和み、達成感なんてものを味わっていた。

「コーヒーおごるよ。佐々木は何がいい?」

 遠野が席を立ち訊ねる。

「じゃあ、カフェオレ」
「りょーかい」

 それから遠野が買ってきてくれた冷たい缶コーヒーで軽く休憩。今日も二人きりのオフィスで、妙な時間が流れていた。

「不思議だね。遠野とこうしてお茶するなんて」
「変な感じだよな」
「だよねー」

 こんな会話は久しぶりだった。入社したての頃の私たちは、まさにこういう雰囲気だった。この距離感は友達とは少し違う。同期ならではの、不思議な仲間意識。

「懐かしいな。新入社員研修の時もこうやって休憩中にみんなでコーヒー飲んでたよな」
「そうそう。じゃんけんで負けた人がみんなの分のお茶を買ってくるの。あれ、大変だったなあ。両手でも抱えきれないくらいだったんだよね」
「佐々木、いっつも負けてたよな。だっせーの」
「何で負けてばかりだったんだろう?」
「だっておまえ、グー出す確率高いじゃん」
「へ?」
「気づいてなかったのかよ。みんなもそのこと気づいてたよ」
「だから、私が一人だけ、いつも負けてたの?」
「気づけよ、何回も負けてたんだから」

 気づかなかった。そういえば、アイコが何度か続いたあと突然みんなが示し合せたようにパーを出して、よく負けていた。
 私って昔からどこか抜けてるんだな。今もそうだ。頑張ってるのに、どこか空回り。ついでに誰も私を評価してくれない。

 そもそも、この会社、この部署でキャリアを積もうというのが無理な話で。他の会社もそうだけど、この業界は男性中心の世界だった。
 将来や自分のやりたいことをよくよく考えずに、ちょっと名の知れたところだからという理由で選んだ会社。最初こそ友達に羨ましがられたけど、今は羨ましがっていた友達の方が生き生きと仕事をしている。

 だからって今の私に何ができるかと考えたけど、営業ができるわけでもない。かと言って営業をやりたいかと訊かれればそれも違う。
 結局、何の目的もないままに働いてきた自分が悪いのだ。それを自分が女だからとか、学歴のせいにばかりしていたように思う。

 遠野が買って来てくれた甘いカフェオレは私のそんな荒んでいた部分に浸透していくように補われ、刺々しかった心が丸くなったような気がした。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
「それじゃあ、そろそろ、帰ろうか」

 そして、帰り支度をしていた時だった。

「佐々木、明日なんだけど予定あるか?」
「明日?」

 何の前触れもなく遠野が私を誘ってくる。
 明日は土曜日。会社は休み。不倫の身の私としては当然予定なんて……

「ないけど」

 悲しいけど週末の予定はめったに埋まらない。

「そうだろうと思った。じゃあ明日、つき合えよ」
「何で休みの日まで遠野につき合わなくちゃならないのよ」
「何でも言うこときく契約だろ」
「そうだけど休みの日までなんて契約違反。それに昨日、ちゃんと義務は果たしたでしょ」

 まったく冗談じゃない。そのことで一生、私を脅し続ける気?
 たった今、いい奴だと見直したところだったのに。

「契約なんて嘘だよ。今日のお礼だよ。どうせ暇なんだろ? だったらつき合えよ」
「お礼? 何よ、急に。らしくない」

 だけどなぜだろう。悪い気はしなかった。デートじゃないのに、昼間のデートなんていつぶりだろう、なんて考えてしまっている自分がいた。
 あんなに落ち込んでいたのに。
 卑屈になっていた自分もそこにいない。瀬谷課長のことをうじうじ考える私はいなかった。
            



[2012年10月18日]

 
 
inserted by FC2 system