第七章 誘惑の眼差し(007)

 

  夕方、海の近くのタワーにのぼり、遠くに続く海を眺めていた。
 小さく見えるのは遊覧船と漁船。キラキラとした海がもうすぐ今日が終わりだと告げている。それは私と遠野の時間の終わりのこと。それを思い、少し寂しくなった。だけど寂しく感じる理由はそれだけ今日が楽しかったからで……

 遠野に感謝しなくちゃ。
 一人になりたくなくて無理矢理仕事を手伝ったのに、そのお礼でドライブに誘ってもらった。もしかすると遠野は私のそんな気持ちを察して誘ってくれたのかもしれない。休日に家の中で一人ぼっちでいる苦痛を和らげるために。

「ありがとう。本当は私のこと慰めるために誘ってくれたんでしょ?」
「何のことだよ?」
「昨日、私が瀬谷課長にドタキャンされたのを知っていたくせに」

 いつもと違って浮かれながら仕事をしていた私の態度に隣にいる遠野が真っ先に気づいていたじゃない。

「そんなの俺が知るわけねえだろ」

 と言いつつ、昨日早退した瀬谷課長を睨むように見ていた遠野の握り拳が震えていたこと、私は知っていたよ。私なんかのために瀬谷課長に怒りを覚えてくれて、あの時すごくうれしかったんだ。

 もし、瀬谷課長との関係がバレたら私は会社にいられない。だけどせめて仕事だけはちゃんとやろうと決めていた。後ろ指を差されても仕事での文句は誰にも言わせないと、残業だって快く引き受けてきた。男の人に囲まれて負けられないと意地を張ってもきた。
 そうやって、もしもの時のために毎日一人で乗り越える準備をしてきたのに……
 遠野は生意気だった私を結局、嫌うことはなかった。それに不倫している私を軽蔑することなく接してくれて、最後に私の味方になってくれた。

「本当は未来のない恋なのは分かっていたの。なのにどうしても抜け出せなかった」
「佐々木はいつも考え過ぎなんだよ。もっと力抜けば? 張りつめ過ぎるから瀬谷課長にちょっとやさしくされたくらいでぐらついたんだよ」
「それはあるかもね。そもそも土俵が違うのに遠野に負けたくないと思っていたし、部署の中で女として見られないように鬼みたいになってた」
「無駄なあがきだな」
「だよね。遠野に敵うわけないのにね。笑ってもいいよ。今日は許すから」
「違うよ。そっちじゃねえよ」
「そっちじゃないって?」
「佐々木は女だよ。俺から見たらどうしたって女にしか見えねえよ」

 海風が吹き荒れる中、乱れる髪を押さえながら遠野の熱い眼差しを感じていた。だけど私からどうしても遠野を見ることができずに顔を正面に上げることができない。
 そこに、ふいに遠野の指が近づいた。その気配にハッとして遠野を見ると瞳と瞳がぶつかって、そのまま口元にまとわりついていた髪をすくわれる。

「髪が大変なことになってる」
「……うん。海はやっぱり風が強いね」

 感情を表さないように気をつけて答えた。
 さっきから遠野は私を惑わせる。やさしい声が頭上から降ってきたあとに微かに触れた指先の感触が今も強く残ったまま……
 もしかしてわざと? そうやってからかっているの?

 相変わらず風が吹き荒れている。押さえても乱れる髪が顔を覆って、またしても唇に絡まってしまう。

「ほら、また」
「……あ、うん」

 でもすでに髪を押さえこんで両手が塞がっていたからどうしようもなくて困っていたら、遠野の手がまた伸びてくる。フッと笑みを浮かべる顔は、直視できないくらい魅惑的な表情。
 会社の中でさんざん憎まれ口をたたき合っていた二人とは思えないような、繊細な時間が数秒ほど流れた。波の音さえもかき消すような風の轟音の中、聞こるはずもない遠野の吐息が鼓膜の中でこだまして強烈な存在感が私の中で暴れていた。

「口紅、はみ出てるぞ」
「うそ……。はぁ、サイアク」
「あっ! おまえっ!」
「もう、諦める」

 この雰囲気を打破するかのように、私は手の甲でルージュを拭っていた。せっかく丁寧に塗っていたんだけど、この際、仕方がない。

「もったいねえだろ」
「あとで塗り直す」
「だけど佐々木は色白だからそういう色、よく似合うよ。なんつーか、桃っぽい」

 突然何を言い出すのかと思ったら。

「……」

 桃って……こっちが恥ずかしくなるよ。
 現に私はカチカチに固まってしまって、目を見開いたまま。すっかり乾いてしまったコンタクトレンズの入った瞳に痛みを感じ、ようやく思い出したように瞬きをした。
 今日、いや、最近の遠野は変だ。妙に色気を醸し出して私を煽ってくる。二人きりの残業の時もそうだった。
 何かが変わろうとしていることを嫌でも自覚させられる。

「……遠野?」
「なんだよ?」

 おかしいよ。腹黒かと思うと清新になったり、意地悪かと思うと温和になったり。髪に触れられただけで全神経がそこに集中しちゃうし、急に色っぽく見つめてきちゃうから、どうしていいのか分からなくなる。
 ころころと変わるから、その度にドギマギさせられて……ドキドキが止まらなくて遠野を思いっきり意識してしまう。
 最近の遠野はおかしいと思っていたけど、このままだと私までおかしくなっちゃうよ。その胸に飛び込みたくなっちゃうんだよ。

 瀬谷課長のことが大好きなはずなのに、今日一日、恋しいと思うことはなかった。
 私が求めているのは遠野なの? 遠野は、瀬谷課長を忘れさせてくれる人なの?
 だけど自分の心が分からない。私は、今、誰を見ているのか。それとも自分が思っている以上に、私は弱っているのかな。だからこういう太陽の下の普通のデートだけで心が傾いてしまうのかな。

「あの、えっと……」

 もうすぐ太陽が沈む。力強い光線が地平線から空に向かって伸びていた。最後の最後まで、煌めきを精一杯放っていて、思わず手を合わせたくなるような感謝の気持ちが溢れてくる。

「……お腹空いた」

 だけど出てきたセリフは我ながら陳腐なもの。こんなこと、言うつもりなかったんだけど、空気を変えるために焦っていたら、とりあえず夕ご飯の時間だよねとそんな言葉を口にしていた。
 それにしてもこの時、いったい私は、遠野に何を言おうとしていたのだろう。呆れ顔の遠野を前に一生懸命考えたけど、自分でもそれが分からなかった。

「色気ねえ女だな」
「し、仕方ないじゃない! いっぱい歩いたんだから」
「歩ったから腹空いたなんて、子供かよ?」

 夕陽をバックに遠野が少年ぽく笑っていた。その笑顔が私の中にやさしく響き、あれこれ悩んでいたことがすうっと消えていくようだった。
 今日、一緒に過ごしたことを振り返る。心から楽しくて学生時代に戻ったみたいだった。瀬谷課長とは感じることができなかった無邪気な心。こういうのに憧れていた。普通のことが一番の幸せだと感じていた。そのことを遠野が思い出させてくれたのだ。
 どうして不倫なんてしちゃったんだろう。いくら好きでも、それは間違いだったんだ。犯してはいけない罪だった。遠野を目の前にしている今、そんな激しい感情が生まれていた。


 ◇◆◇


「今日はありがとう」

 あのあと海の見えるレストランで食事をしてアパートまで送ってもらった。
 また行きたいな、なんて言ったら笑われるかな。でも、こういう時に素直に言える女の子だったら、不倫なんてしていないんだろうな。やっぱり私は可愛くない。

「あさって、月曜日にね」
「ああ。月曜日に。会社でな」
「運転疲れたでしょ。月曜日に備えて明日はゆっくり休んでね」
「そこまで衰えてねえよ。二個しか違わないのに、オッサン扱いすんな」
「分かったわよ。でも月曜日に遅刻したら思いっきり笑ってやるからね」

 車を降り、私の部屋のドア前まで送ってくれた遠野。他の男の子もしないようなことをあっさりしちゃうものだから、かなりびっくりした。
 でも、遠野は最後の最後まで私をちゃんと普通の女の子として扱ってくれて、だから私も遠野を一人の男性として見ることができた。会社の同僚のままだと、きっと喧嘩のひとつやふたつくらい、していただろうな。

「帰り、運転気をつけてね」
「佐々木も、鍵、閉め忘れんなよ」

 遠野は意外に心配性なのかな。こういう気遣いまでしてくれると、照れくさくて、くすぐったい気分になる。

「ありがとう。気をつけるよ」
「じゃあ、行くな。おやすみ」
「うん。おやすみ」

 離れがたい思いを感じていた。遠野はどうだったのだろうか。やっぱり私だけかな。
 そんなことを考えながら、遠野の車が見えなくなるまで部屋の玄関から見送った。

 それから一人暮らしの部屋に戻る。
 いつもだったら虚しくなる時間。瀬谷課長と別れた直後に感じていた激しい孤独感は、遠野とは感じない。
 この気持ちの変化は何なのだろうと自分に何度も問いかけてみる。そして返ってきた答えは満たされた気持ちということ。いつもだったら寂しさが入り込む隙間には、今日は大切な思い出が広がっていた。

 胸に手を当てると群青色の大海原と潮風の感触とともに、遠野の笑顔とやさしさを含んだ声が思い出される。
 そして思うのは、これからのこと。向き合わないといけないのかもしれない。自分に負けちゃいけないんだと、私の本能が私の弱さと必死に戦っていた。
            



[2013年1月14日]

 
 
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