第八章 気まずいシチュエーション(008)

 

 月曜日になり瀬谷課長がいつものように出社してきた。

「瀬谷課長。大丈夫だったかい?」

 田中部長が瀬谷課長のお子さんを心配していた。

「はい。おかげさまで入院には至りませんでした。今はもう大丈夫です」
「そうか。よかったな」

 田中部長が瀬谷課長の肩に軽く手を置いて穏やかな声で言った。
 私は気になって仕方がない気持ちを隠し、見ないふり、聞こえないふりをしてパソコンに向かい、頼まれていた書類作成をしていた。その後も、自分の仕事だけに集中し、視線も合わせないように努力した。
 どうせ今日もほぼ一日、瀬谷課長は外出の予定が入っている。それまでの辛抱だった。

 今日は午後から瀬谷課長と遠野は東京国際ホールで行われる展示会に立会いの予定。『未来住宅への提案』というテーマで5日間開催される展示会は我が社だけでなく、他のメーカー企業も数十社参加する大きな展示会だ。
 来訪者は事前に案内を出していた招待客の他に一般のお客様も事前予約さえしていれば無料で気軽に入れる。期間中の来訪者は10万人規模の予想で、他のメーカーのブース見学の目的のお客様も囲い込める絶好のプレゼンテーションの機会なのだ。

「あとはよろしく。もしかすると直帰するかもしれないから、なんかあったら電話よこして」
「了解。行ってらっしゃい」

 時間になると遠野がバタバタと支度をして、瀬谷課長とオフィスを出て行った。ぽっかりと空いた席がなんだか寂しいと思う私はやっぱり遠野にいい意味で毒されているのかな。

 しかしここで予定外の事態が起こってしまった。

「佐々木。悪いが今日、展示会の会場に行ってくれないか?」

 遠野たちが出かけて一時間ほどたった頃。電話の受話器を置いたばかりの田中部長が私に指示を出してきた。そういえば、さっき内線がかかってきていた。それと関係がありそう。

「私が、ですか? でも現場で何をすればいいんでしょう?」
「何もしなくていい」
「はい?」
「客のフリをしてうちのブースをうろちょろしていればいいから」
「はぁ……つまり、サクラですか」
「そういうことだ。本社の女子社員が行く予定だったらしいんだが、一人しか出せないらしい。だから佐々木、おまえも一緒に行け」

 つまり、さっき田中部長にかかってきた内線は、本社の人間は忙しくて無理だから東京営業所の女子社員を一人貸してくれ、という内容だったんだ。
 どうやら私は本社の人間から見たら、暇な人間と思われているらしい。

「はい。分かりました」

 まったく、私だって仕事がたんまりあるんですよ。特に月曜日はとんでもない忙しさなんだから。
 だけど断れない。忙しいからといって『行けません』とは言えない立場なのだ。

「それで経理部の人間が行くらしいから、途中、経理部に寄って行ってくれ」
「はい」
「会場の場所は分かるよな?」
「東京国際ホールですよね。去年も行きましたから。サクラとして」
「そうだったな。去年も頼まれたんだったな。なら安心だ」
「……ええ。……ははっ」

 もはや乾いた笑いしか出てこない。去年同様、今年もそんな扱いをされるとは思わなかったよ。サクラだなんて。


 そして向かった先はもちろん経理部。
 相変わらず、この部署は他のフロアとは少し雰囲気が違う。圧倒的な女子の数は華やかさを生み、男性だらけのうちの部署のようなむさ苦しさというものがまったく感じられない。この一年半、男性社員のなかで闇雲に働いてきた私にはどうも敷居が高く感じられた。
 なんだか怖いな。
 遠野狙いの女の子に陰口をたたかれていた頃が蘇った。オフィスの女同士の結束というのは悪口で繋がっていると言っても過言ではない。ターゲットを絞り、その人の噂話をすることで仲間意識を強めるのだ。

「あのぅ、営業の佐々木ですけど。今日、経理部の方と一緒に展示会に行くように言われたのですが」
「佐々木さん、待っていたよ。急に頼んで悪かったね」

 一緒に行けと田中部長に言われたが、その相手の名前を聞かされていない。経理部の部長に相手を訊ねると、まさかのあの人の名前だった。

「竹ノ内美恵さん、ですか……」

 派手ネイルの彼女だ。

「今、更衣室に着替えに行っているみたいだから、ちょっとそこで待っててよ」

 経理部長に言われて、好奇な視線の中だけどそこで待つしかなかった。
 竹ノ内さん、まだかなあ。たぶん、今頃、メイク直しに必死なんだろうな。時間かかりそう。
 彼女とは会話をかわしたことはない。いきなりこんな事態になって不安だけど、会場には瀬谷課長と遠野以外にも本社の担当者がいるので、なんとかなるかなと思った。

 そして待つこと十数分。ようやく竹ノ内さんが姿を見せた。

「お待たせしちゃって、ごめんなさい」
「いえ」
「えっと、名前は確か……」
「佐々木です」
「そうそう。佐々木さん。私は竹ノ内です」
「はい。知っています」
「ほんと? うわっ、なんかうれしい」

 初めて話すけど竹ノ内さんは想像と違ってとても気さくな人だった。もっと気の強い人かと思っていたから拍子抜け。
 でもよかった。このあとずっと彼女と一緒に行動しなくちゃならないから、気が合わないとかなりキツイからね。

「そろそろ行きますか」
「あれ? 佐々木さん、その格好で行くの?」
「ええ。それが何か?」

 今日のスーツの色はライトグレー。いつものスタイルなんだけど。
 一方、竹ノ内さんのファッションは雑誌でよくある『OLの着まわし度UPワードローブ』みたいな見出しの特集に出てきそうな二重丸なセンス。フロントにレースがほどこされた薄いピンクのラウンドネックのブラウスにウエストにリボンがついた紺のシフォンスカート。派手な服装かと思いきや、思いっきり清楚でそれまでのイメージとギャップがあった。

「そっか。佐々木さんは、事務服じゃないんだもんね」
「そうなんです。営業だから支給されていないんです。でも実際は事務の仕事しかしていないんですけどね」

 でもこれはこれでいいんだよね。服は自前だけど、毎日何を着ていくか悩まなくていいから、すごく楽。それに似たようなスーツを揃えて適当に着まわしているから、洋服代はそんなにかからない。
 時々、可愛い服で通勤している総務部や経理部の女の子たちを見ると、真似しようかなと思う時もあるけど、どうせうちの部署の人たちは私の服装なんて興味ないに決まっているしね。
 だけど、私と竹ノ内さんの服装のギャップは一緒に行動するにはちょっと変かもしれない。電車に乗っている間も“地味かな”とそのことが気になってしまった。

 そしてようやく辿り着いた会場。
 見上げるほどの大きさの建物は数年前にできたばかりの日本でも有数のコンベンションセンター。こういう場所に来る機会は滅多にないので、かなり興奮していた。

「どのあたりだろう?」

 会場に入ると広すぎてうちのブースを見つけるのも困難なほど。とにかく思ったよりもたくさんの見学者で賑わっていて、マスコミ関係のカメラマンの姿もあった。

「あ、あった! 佐々木さん、あっちだよ」

 竹ノ内さんがうちの会社のブースを見つけてくれたのだけれど。

「嘘!? やったぁ! 遠野くんだぁ。ラッキー!」

 彼女は遠野が会場にいることを知らなかったらしく、うれしそうに瞳を輝かせていた。
 さすが、遠野。やっぱり人気があるんだなあ。だけど、遠野は竹ノ内さんのネイルが気に入らないって言っていたんだよね。まさか、竹ノ内さんも自分がそんなふうに言われているなんて思ってもみないんだろうな。


「遠野くん、こんにちはぁ」

 さっそくお目当ての遠野に話しかける竹ノ内さん。
 さらに、その後ろにいる私にも気づいて遠野はかなり驚いているようだった。

「何で、佐々木まで?」
「本社の総務や経理の人たちが忙しくて人を出せないから、私が行くように言われたの」
「人使いが荒いよな。うちの部署だって忙しいのに」

 うちの会社は総務部や経理部の組織力が割と強い。
 事務服だって少し高めのものでも稟議が通るし、総務や経理部に所属していると、女性でも意見を聞きいれてもらいやすい。例えば自販機の飲料水のリクエストなんかもそうだ。彼女たちの好みのジュースやお茶が優先されている。

 しかし、それは決して悪いことではない。総務部や経理部の組織の力が強い会社はいい会社だと言われており、実際、うちの会社の離職率はかなり低いし、業績もなんとか現状維持を続けている。
 それもこれも経理部にはベテランの社員が揃っており、原価管理のチェックは事細かく、少しの数字の異常も見逃さない。また総務部の意見には社員一同従わされて、社内の省エネ提案書を部署ごとに作らされたほど。

「ねえねえ、遠野くん。これってどうやって使うの?」

 唐突に遠野を呼ぶ声。竹ノ内さんがいつの間にかブース内の展示品を指さして、少し離れた所から私たちを見ていた。
 彼女、遠野のこと、かなり気に入っているみたいだからな。私が遠野と会話をしていたのを邪魔したかったのかもしれない。

「いいよ。彼女のところに行ってあげて」
「悪いな」

 なんだかんだ言っても遠野は女の子に冷たくできない。私はあくまでも例外で、基本、遠野は女の子にはやさしい。
 取り残された私は仕方なく、一人、ブース内をぶらぶらしていた。周りにはお客様はちらほらといたけど、うちの会社よりも大手の企業に人が集まっているらしく、そこに比べるとだいぶ寂しいブースだった。
 だから私たちが呼ばれたわけだけどね。サクラとして。

 ところで瀬谷課長はどこにいるんだろう?
 会うのが気まずくて、できれば会いたくなかったんだけど、その姿はすぐに見つけられた。瀬谷課長はブースの端の方で知らない男性と談笑していた。
 一緒にいるのは誰だろう? 他の出展企業の人かな?
 展示品には目もくれずに話し込んでいたので、そうかなと思っていると、瀬谷課長と目が合ってしまった。
 あ、まずい……
 思わず視線を逸らしてしまった。さらに、クルっと振り返って反対方向に歩きだす始末。それがまた、自分でもわざとらしい思うほどで……
 私って馬鹿だ。避けたところでどうしようもないのに。どうせあとで嫌でも顔を合わせるんだから。

「あれ?」

 えっ?
 瀬谷課長のことを考えながら展示品をぼーっと眺めていたら、ふいに男の人に声をかけられた。振り向くと、そこにあったのは見覚えのある顔。
 この人、名前なんだっけ? 顔はもちろん知っているんだけど。この人は本社の……?

「えっと……お疲れさまです……」
「佐々木さん、だったよね?」
「はい……」

 向こうは私の名前を知ってくれていたので失礼だと思って一生懸命に思い出そうとしたけど、なかなか出てこない。ついでに、会話も続かなかい。

「もしかして、僕のこと覚えてない?」
「いえ。もちろんよく覚えてますよ」

 覚えているんだけど名前が思い出せないだけなの。喉まで出かかっているんだけどなあ。

「三浦だよ」

 あ、そうそう。販売推進部の三浦さんだ。去年も展示会で会ったんだよね。そのあと会社でも見かけることはあったんだけど、話すことはなかったんだ。

「……はい。三浦さん、ですよね」
「いいよ。無理しなくても。少しか喋っていなかったから。名前を忘れられても仕方ないよ」

 バレてたか。でも三浦さんは、去年、緊張いっぱいの新人の私にも気軽に話しかけてくれた、やさしい人。今もきっと一人ぼっちでつまらなそうにしている私に気を遣ってくれたんだ。

「あんまりおもしろくないよね。ごめんね。今日の午前中の様子で、客の入りが悪かったもんだから、会社に電話をして人を寄こすように頼んだんだ」
「だから急に……。でも結構おもしろいですよ。今年は住宅関連の製品なので身近なものですから。屋内用のソーラータイプのLED照明は興味深いです。去年のデマンドコントローラ装置はさすがにハテナマークしか浮かびませんでしたから」
「そうだよね。新人だったもんね。でもまさか今年も佐々木さんが来るとは思わなかった。僕は総務と経理部に応援を頼んだんだけどな」
「皆さん、忙しかったみたいです」
「だから佐々木さんが? もう、しょうがないなあ。人員が不足している部署じゃないはずなのに。逆に佐々木さんの部署の方が忙しいでしょ?」
「平気です。あとで挽回しますから」

 三浦さんて、いい人なんだなあ。一緒にいてもリラックスして話せるし、こういう接客の仕事に向いていると思う。
 思いもかけず三浦さんと話が盛り上がっていると……

「どういうことだ?」
「え?」

 またまた声をかけられた。だけど今度は少し声色がきつい。明らかに不機嫌な声の主は、私のすぐ背後に立っていた。
 じわじわと忍び寄ってきたかと思うと途端刺すような空気。初めて感じる威圧感のある気配にゾクッと全身が粟立った。
            



[2013年3月7日]

 
 
inserted by FC2 system