第九章 初めての束縛(009)

 

「……せや……かちょう」
「どうしてここにいる?」
「行けと言われて……」
「田中部長に?」
「……はい」

 いつもだったらもっと穏やかな口調なのに、今日の瀬谷課長は違っていた。ピンと張りつめた空気は止むことなく、委縮して言葉少なになってしまう。

「どうしてうちの部署に押しつけられるんだ?」
「みなさん、忙しいらしくて。経理部の竹ノ内さんしか手があいていなかったそうです」
「まったく、しょうがないな」

 冷淡な声が落ちてきた。そんなふうに言うなんて、瀬谷課長らしくない。

「すみません。僕が総務部長に頼んだんですけど、どうしてかそちらの部署に話がいってしまったみたいなんです」

 責任を感じた三浦さんがすかさずフォローしてくれた。

「それは構わないよ。あちらの部署は家庭を持つ人も多いし、残業代の削減を強いられている部署だから。俺が言いたいのは、佐々木さんの仕事のことだよ。自分の仕事は間に合うのか?」
「大丈夫です。仕事は残っていますけど、どれも急ぎではないので」
「佐々木さんは、ただでさえ残業が多いだろ」
「瀬谷課長、私の仕事は心配しなくても本当に大丈夫ですから」

 呆れたように溜息を吐く瀬谷課長を見て、私がここにいることが迷惑なのかなと思った。理由は分からないけど、要するに私の存在が邪魔……
 だから怒っているの?
 今日は会社では会話をかわしていないので、他に怒る原因が思い当たらなかった。強いて言えばさっき目を逸らして、避けてしまったことだけど。まさか、それが原因なのだろうか。

「大丈夫ならいいんだ。まあ、せっかく来たんだし、ここだけじゃなくて勉強がてらよそも見学してきたらいい」
「分かりました」

 はぁ……やっぱりここに私がいることが迷惑なんだ。追い出したくてあんなことを言っているに違いない。

「じゃあ、少しだけまわってきます。三浦さん、ひとまわりしてきたら、また戻ってきますね」
「うん。それはぜんぜん構わないよ。瀬谷課長の言うとおり、せっかくだから楽しんできてよ」

 三浦さんの了解を取ると他のブースを見学しに行った。三浦さんの了解を取ると他のブースを見学しに行った。


 私は目的もないままに歩いていた。
『楽しんできてよ』と言われてもなあ……
 ブースを追い出された挙句、ひとりぼっちではちっとも楽しくない。だけど、あれ以上あの場所にいることは苦痛だったので、返ってよかったのかも。
 瀬谷課長に私の仕事のことであんなふうに言われたことがショックだった。まるで能力がないから残業になるんだと言われているようで。それに、どちらにしても竹ノ内さんは遠野の傍を離れないだろうから、どちらにしてもひとりぼっちなのだ。
 竹ノ内さん、どうしているかな。今頃、遠野にベッタリなのかな。ふらふらと気力なく歩きながら、私は遠野のことを考えていた。

 しばらく歩いていると、一際賑やかなブースに辿り着く。そこは有名な旧財閥系の企業で、さすが、マスコミの取材も多い。
 それにしてもすごい人。そんなに面白いのかな? もしかすると、見ないと損かも。
 そう思った私は人混みをかき分ける。そして、どうにか紛れ込もうとしていたその時──なぜかいきなり腕を掴まれた。
 痴漢!?
 一瞬、焦ったけど、こんな場所でそんなことをする人なんているわけないと思い、そして期待したのは……
 遠野?
 だけど、思い違いだった。

「麻衣」
「瀬谷課長?」

 どうしてここにいるの?

「探したよ」

 どういう意味? だって自分で見学して来いって言ったんだよ。私が邪魔だったんでしょ?

「追い出すみたいで悪かった。ああでも言わないと二人きりになれないから」
「わざとだったの?」
「そうだよ。あとでちゃんと弁解するつもりでも、すごく辛かったよ」

 切なそうに顔が歪む。それからもう一度「ごめんな」と謝られて、やさしい眼差しを私に向けた。
 ほんの三日前の私なら、そんな表情に胸が鷲掴みされて夢中になっていた。ドキドキして涙が出そうになるくらい胸がきゅーんとなっていた。それなのに……

「気にしないで」
 自分でも驚くくらい冷静な反応。
 何が本当なのだろう。
 さっき私に見せた顔は、怪訝な表情だった。それがころっと変わって、こうして私の目の前にいる。

「このブースに興味があるのか?」
「人気があるみたいだから」
「確かにすごい人だな。よし! 少し覗いていくか」

 瀬谷課長はそう言うと歩き出す。私も隣に並んだ。
 人の多さに時々、私の肩が瀬谷課長の腕にぶつかった。その度に私は瀬谷課長と距離を置いて、ぶつからないようになるべく離れて歩く。だけどそれでもぶつかって、おかしいなと思い始めた時、彼の手が私の手をぎゅっと握りしめた。やわらかくて温かい感触に心が揺れた。
 だけど、それも一瞬のこと。瞬く間に我を取り戻す。上昇した温度も一気に下降した。

「あの?」
「どうせ気づかれないよ」
「でも……」
 いつもはこんなことしないのに、なぜだろう。
 私に向けられる気持ちがいつもと違うと感じるのは、気のせいだと思いたい。

「それにしても驚いたよ。こんなところで会えるなんてな」
「でも、迷惑そうだった」
「さっきは、ちょっと頭にきたから。俺を無視して、三浦と仲良さそうに話していただろ」
「あれは、ただの挨拶だよ。新人だった去年もサクラとしてここに見学に来ていたの。三浦さんとはその時に初めて話をしたの」
「そっか。だけど、今日の麻衣は朝から様子がおかしかったから気になっていたんだ。もちろん、それが俺のせいなのも分かっていたんだけど、俺の前で他の男とイチャつかれるとさすがに参るよ」

 どうしてあれを見てそう思うの? イチャついてなんていないのに。私のこと、そんなふうに思ったんだ。
 瀬谷課長に対して小さな反発を覚えた。そんな小さなこと、流しちゃえばいいのに。この時の私は変な引っかかりを感じてしまっていた。

「それより金曜の夜も遠野と二人で残業したんだってな?」
「そうだよ。田中部長から聞いたんだね」
「何でだよ? 最近、変だぞ。遠野と何かあったか?」
「どうして?」
「俺が質問してるんだよ」

 もしかして“ヤキモチ”なのだろうか。──機嫌が悪かった理由。三浦さんとのことではなく、遠野とのことに?

「遠野、毎日残業しているから。それでだよ。普通、金曜日くらい早く帰りたいじゃない?」
「それだけ?」
「そうだよ。他に何があるの?」
「俺への当てつけ、とか」

 それを聞いて悲しくなった。
 当てつけ──そういう女に思われていたなんて。そうじゃないのに。寂しかったからなのに。寂しさに負けて、今よりも落ちぶれた自分を想像して、そんな自分に絶対になりたくなかったからなのに。

「そう思いたかったら思えば」
「麻衣?」
「私……もう……」
「やっぱり遠野と何かあったんだな。なんとなくそんな気がしたんだ。今日の二人は朝から少し変だったよ」
「いつもと変わらないよ」
「変わったよ。表情が違う。前は遠野に笑いかけることなんてなかったのに、今朝はそうじゃなかった」

 自分でも気づいていないことを指摘されてしまった。私、そんなに表情が変わっていたの?

「まさか、もう抱かれた?」
「そんなわけないじゃない! なんてこと言うの?」
「そうだよな。麻衣に限って……。だけど先に言っておく。遠野だけはダメだ」
「え?」
「遠野は俺の直属の部下なんだぞ。仕事をする上で支障がある」
「……」
「麻衣には悪いと思ってるよ。俺の家庭のことで嫌な思いをさせてしまったから。だから怒るなよ」

 瀬谷課長は私が拗ねていると思っている。人混みの中で耳元で甘く囁いて、必死に私の気を引こうとしていた。
 だけどその囁きは私には届かない。私が今想う人は別な人──遠野は今、どうしているのだろう。
 そして私は気づいてしまった。こんなにも遠野が好きだということに。ずっと頭から離れない。嫌な嫉妬がぐるぐるしている。

 ──お願い、竹ノ内さんのこと、好きにならないで

 オシャレで華やかな竹ノ内さん。そしてイケメンでポジティブの遠野。誰がどう見たってお似合いの二人。遠野の隣にはああいう人が合っている。
 遠野は竹ノ内さんのネイルが気に入らないと言っていたけど、私はすごく彼女に似合っていると思っていた。華やかな彼女だからこそ、よく似合う。
 対して私は地味な色のリクルートスーツ。一人でいたらきっと就職活動中の学生と間違われてしまうに違いない。遠野の隣を歩く人間が私だと、みんなが納得してくれない。きっとブーイングの嵐だ。

「私、怒っていないから。お子さんが大変な時なのに、行かないでなんてとても言えないよ」
「麻衣……」
「そろそろ戻った方がよくない? 私が来た意味、なくなっちゃうよ」
「そうだな。俺も戻らないと。麻衣、先に行っててくれ」
「うん。分かった」

 その場をなんとかおさめた私は遠野の所に急いで戻った。ヒールを鳴らしながら足早に歩く。瀬谷課長に握られていた手の平の感触はとっくに消え失せていた。

 なのに、急いで戻って来てみれば先に見つかったのは竹ノ内さん一人。
 遠野はどこ?

「ちょっとぉ! 佐々木さん、どこに行っていたの?」
「ごめんなさい。他の企業のブースを見学していました」
「勝手にいなくならないでよ。心配したじゃない」

 そっか……遠野と竹ノ内さんは知らないんだ。じゃあ、もしかして遠野も心配してくれていたのかな?

「遠野はどこに行ったんですか?」
「遠野くんならお得意様が来たからあっちで接客してる」

 残念そうに遠野に目を向ける竹ノ内さん。遠野に途中で放り出されたようで、少し鼻息も荒かった。

「遠野くんも佐々木さんのことを心配してたわよ。迷子になったんじゃないかって」
「遠野も?」

 もう、また馬鹿にしてる。いくらなんでも迷子になるわけないのに。
 だけど気にしてくれていたんだ。それを知ってうれしいと思ってしまう。

「同じ部署だから親しいのは分かるけど……まさか二人はデキていないでしょうね?」

 竹ノ内さんが私に疑いの目を向けてきた。

「私と遠野はそういうんじゃないですから」

 複雑な気持ちで答える。
 遠野の気持ちは、私の手の届かないところにあるような気がするんだ。二人でデートはしたけど、あれをデートと思っていたのは私だけだろうし、遠野だって気まぐれで誘っただけだろうから。現に何もなかった。私たちの間には色恋なんてものはなかった。

「その言葉、信じているからね」
「……はい」

 圧倒させられるセリフに渋々頷いた。

 嫌な予感がする。
 竹ノ内さんがこの時、何を考えていたのか、まったく知る由もなかったけど。その予感は的中してしまうのだった。
            



[2013年3月8日]

 
 
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