第十章 恋愛の駆け引き(010)

 

 一日目の展示会が終了し、瀬谷課長と遠野、そして竹ノ内さんと帰るところだった。

「遠野くん? このあとみんなで飲みに行かない?」

 ぎょっとする発言をするのはもちろん竹ノ内さん。嫌な予感というのはこのことだったのだと、がっくりとしてしまった。

「今日、月曜だけど?」
「いいじゃない。週末しか飲みに行っちゃいけない決まりはないんだから」
「俺はいいけど、瀬谷課長や佐々木の都合だってあるだろ?」

 何で私たちに振るのよ! 断るなら遠野が断ってよ。その方が早いんだから!

「佐々木さんはどうせ暇よね?」

 どうして決めつけるかな。暇じゃないかもしれないじゃない。

「まさか予定あるの?」
「……ないですけど」
「だよねー」

 この人にどうして従わないといけないんだろう。いい人はいい人なんだけどな。ことさら遠野のことになると見境なくなるからすごく困る。

「瀬谷課長もどうせ直帰予定だったんですよね?」
「まあ、その予定だったけど」
「なら、決まり! ほら、遠野くん。みんな大丈夫らしいよ」

 強引過ぎて誰も何も言えなかった。
 瀬谷課長は本当に大丈夫なのかな? お子さんの具合、まだ完全に良くなっていないはずなのに。

「帰らなくてもいいんですか?」

 瀬谷課長に小声で訊ねた。
 直帰予定というのだって、きっと今日はもともと早めに帰宅する予定だったのかもしれない。

「少しくらいないなら。平日だし、そんなに遅くまでどうせ飲まないだろ」
「そうですね。早めに切り上げるようにします」

 こうして妙な組み合わせで急きょ、飲みに行くことになった。

「どこに行くぅ? 遠野くんはどういうお店が好みなの?」

 一人はしゃいでいる竹ノ内さん。私たち三人は溜息まじりで見守っていた。



 駅の近くを適当に歩いて見つけたチェーン店の居酒屋。他にお店も知らないのでそこに入ることにした。

 私の隣には竹ノ内さん。目の前は瀬谷課長でその隣に遠野。営業部のみんなで飲みに行くというのは前にも何度かあったけど、こういう機会は初めて。
 ……正直、居心地悪いな。
 瀬谷課長と遠野の関係がぎくしゃくしてしまったらと心配の種が大きくなっていく。

 注文した飲み物が運ばれてきてきた。
 瀬谷課長と遠野は生ビールで、私は柚子サワー。竹ノ内さんはカシスオレンジという女性らしいチョイス。
 竹ノ内さんは私よりも3個上の25歳。大卒の入社3年目。でもとても25歳には見えない。実年齢より若く見えるのは、弾けた性格とその大きな瞳のせい。うらやましいくらいに化粧映えする整った顔立ちで、たぶんスッピンも相当可愛いと思う。
 こういう人は自分をプロデュースする方法をちゃんと知っている。

「とりあえず乾杯するか」

 瀬谷課長の言葉に、お疲れさまと乾杯すると竹ノ内さん以外の3人にとって気まずい時間が流れていた。
 今さら何をしゃべっていいのか分からない。遠野の前で瀬谷課長に愛想よく話しかけるのは気が引けるし、遠野とだってそう。瀬谷課長の目が怖くて……
 へんてこなトライアングルに竹ノ内さんが加わって、いびつに歪んだ形が形成されていた。

「みなさん、暗くないですか? 佐々木さんもさっきからひとこともしゃべらないじゃない」

 竹ノ内さんのセリフは私たち3人にとって耳が痛かった。それでも無難に仕事の話題を持ちだしながら、瀬谷課長と遠野の営業トークの技になんとか救われていた。
 刻々と時間が過ぎているのに、どうしてか、この場所だけ速度が遅いような気がしてならない。

 だけど時間がたつにつれて、そんな感覚も変化していく。

「あたしも営業部に行きたかったなぁ。佐々木さん、代わってよ」
「でもうちの部署、結構、仕事キツイですよ。力仕事も多いですし、埃かぶることもありますよ」
「それでもいいの。逆ハー、超うらやましいんだけど」
「逆ハーとはほど遠いですって。そういう色気ある部署じゃないですから」
「それでも経理部よりはマシなのは間違いないもの。経理部は女ばかりじゃない。辛気臭いっていうか、いろいろと面倒なのよね」
「女同士も大変ですよね」
「そうなの。佐々木さんなら分かるよね。昔、さんざん叩かれていたもんね」
「……はい」
「あたし、ああいうの、大嫌いなの。あたしはこそこそするのはイヤだから、基本、真っ向から勝負派」
「……なるほど」

 こうやって話してみると竹ノ内さんは裏表がなくて話しやすい人だなと思うようになっていた。
 彼女は経理部でも一人浮いていた存在。派手ネイルな彼女だけど、それを“こだわり”と捉えれば、私と考えはなんら変わらない。
 人を外見で判断してはいけないとはこのことだった。

 2杯目のお酒はファジーネーブル。竹ノ内さんを見習ってかわいい系のお酒にしてみた。その甘さを堪能していたら……

「ごめん、ちょっと……」

 瀬谷課長が急にもぞもぞと立ち上がった。
 電話がかかってきたらしく、スーツの胸ポケットを気にしながらテーブルを離れた。

「奥さんかな?」
「じゃないか」

 遠野と竹ノ内さんの会話を聞きながら、私も同じように思っていた。仕事の電話だったら、席を外さないと思う。
 やっぱり、お子さんのことがあるから早く帰ってきてという電話なのかな?
 それからほどなくして、私の電話が振動。メール着信を確認したら、それは急用のメールで……私は画面に見入ったまま電話を握りしめていた。

「トイレ行ってくる」

 そして私も席を外した。



「麻衣!」

 さっきのメールは瀬谷課長からだった。すぐにトイレの前に来るようにという内容で従ったのだけれど、その表情は深刻なものとはかけ離れていた。
 なにか重大なことが起こったのかと心配していたのに。違うの?

「どうしたの?」
「ごめん。今日はもう帰らないといけないんだ」
「やっぱり、まだお子さんの具合が悪いの?」
「いや、もうだいぶ良くはなってきているんだけど。でも遅くなるわけにはいかない」
「分かった。すぐに帰ってあげて。奥さんも不安なんでしょう」

 未婚で子供のいない私には、奥さんの気持ちはすみずみまで分かりかねるけど、体調が万全でない小さなお子さんと二人でいることは心細いのだろう。
 今、奥さんが一番頼りにしているのは夫である瀬谷課長。私もアパートの部屋で一人過ごすことがとても寂しかったけど、それは自業自得なこと。心細さや寂しさとは比べられないほど辛い裏切りという事実を知らずに背負っている奥さんの立場の方が、ずっとずっと悲しく、絶望と隣り合わせなのだ。
 そのことに今さら気づいても遅いのは分かっているけど、それでも気づけてよかった。

「ほんとにごめん。送ってやれなくて」
「平気だよ。どうせ一人で帰るつもりだったもん」
「ずいぶんと、物分かりがいいんだな」

 瀬谷課長が困ったように笑った。

「いけない?」
「少しは寂しそうな素振りもあってもいいだろ」
「そんな素振りをしたらしたで、私のこと、けむたがるくせに」

 この半年、ずっと心の中で思っていた本音をチクリ。その場の雰囲気を暗くしないように、笑顔を向ける。

「俺が麻衣をそんなふうに思うわけないだろ」

 少し怒ったような声。さらに、展示会の時のように私の手を取り、痛いくらいに強く握った。

「麻衣……」

 握られた手を必死に離そうとするけど、びくともしない。

「ダメ……人に見られるよ」
「ここは会社からだいぶ離れた居酒屋だよ。俺たちを知っている奴なんていない」

 違う。すぐ近くには遠野がいる。竹ノ内さんも。こんなところを、遠野には絶対に見られたくないの。

「好きだよ、麻衣」
「手を離して」
「麻衣は? 俺のこと、どう思ってる?」

 答えられなくて、口をつぐんだ。
 言えない。“私も好きだよ”なんて、嘘でも言いたくない。

「どうして黙るんだよ?」
「別に……」
「聞かせてくれないのなら、この手は離さない」

 見知らぬ男性がこちらをジロジロと見ながら、傍を通りすぎた。それでも瀬谷課長は動じない。その真剣さに恐さを覚えた。
 早く言わないと大変なことになるぞ、みんなにバレてもいいのか? ──そんな無言のプレッシャーに追い立てられる。

「……私も、……好き……」

 どうしても手を離してほしくて、なんとか吐き出した言葉だったけど、それでも瀬谷課長は満足したようだった。

「信じていいんだな?」
「……うん」

 そしてようやく、私の手が解放された。

「あとで電話する」
「別にいいよ。奥さんの隙をみるの、大変でしょ?」
「いや。必ず電話するから」

 瀬谷課長は頑なにそう言ったけど、その真意が分かるだけに、私は頷けなかった。


 瀬谷課長より先に席に戻ると、入れ替わりに竹ノ内さんがトイレに行った。
 私が腰を下ろす瞬間から感じる鋭い視線は、斜め向かいに座る遠野から。

「へぇ。なるほどね」
「何よ?」
「こんな時に密会か」
「……違う」
「瀬谷課長もずいぶんと大胆なんだな」

 冷たく浴びせられた言葉に俯くしかなかった。
 展示会の時のことまで……
 遠野はすべてを悟っていたのだ。その鋭い勘に瀬谷課長とのことを思い出し、遠野に顔向けできないくらい惨めな思いだった。

 それから瀬谷課長たちが席に戻って来ると、瀬谷課長は遠野にお金を渡していた。

「子供の具合がまだ悪いんだ。悪いけど先に帰るよ。今日は俺のおごり。これで足りるな」
「すみません。ごちそうさまです」

 そのやり取りを見ながら胸が痛くなる。遠野がどういう気持ちでお金を受け取っているのか。私と不倫している瀬谷課長を遠野は軽蔑しているのだろうか。
 仕事を教えてくれて面倒を見てくれる上司をそんなふうに思わせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「瀬谷課長。お子さんがご病気なのに無理に誘ってすみません。それに、あたしが誘ったのにおごって頂いて。ありがとうございます」
「いや、気にしなくていいよ。それより今日は楽しかったよ」
「また今度、ご一緒させて下さい」

 竹ノ内さんの声を隣で聞きながら、私はやっぱり何も言えずに黙って見送った。
 瀬谷課長が帰ったあと再び始まった飲み会は、そのあと一時間以上続いた。

 時刻は夜の10時近く。電車の時間もあるので、そろそろ帰ろうということになったのだけれど……

「大丈夫ですか?」
「うーん……」
「歩けます?」
「やだぁ……今日は泊まる」
「泊まるってどこにですか?」
「ここ!」

 そう言ってテーブルに突っ伏して寝始めようとする竹ノ内さんに、私と遠野は顔を見合わせた。

「仕方ねえなあ。タクシー呼ぶか」

 ダランとしたまま動かない竹ノ内さんを見ながら、遠野が呆れ声で言った。
 お酒弱いのかな? そんなに飲んでいないのに。
 お店の人に呼んでもらったタクシーが店先に到着すると竹ノ内さんをなんとかシートに押し込んだ。その隣に遠野も座る。

「佐々木も乗れよ。こいつのあとに送るから」
「私はいいよ。電車で帰る」
「いいから」
「でもタクシー代がすごいことになっちゃう」
「構わねえって。ほら、早く」

 でもどうしても乗れなかった。シートの奥に座らされていた竹ノ内さんがじっと私を見ていたから。
 邪魔しないで、と大きな瞳が訴えていた。

「竹ノ内さんだけ送ってあげて。私まで遠野に迷惑かけられない」
「迷惑なんかじゃねえって」
「ううん。ほんとにいいの。怖い目にあいそうになったら、ちゃんと遠野に電話するから」

 私の精一杯の答えに遠野は黙り込む。何か言いたげに私を見上げ、そのあと竹ノ内さんを見下ろした。そして……

「……なら、これ」
「え? お金?」

 差し出されたのは五千円札。

「駅に着いたらタクシー使え。あの辺、暗くて危ないだろ?」
「歩いて15分くらいの距離だからタクシー代、こんなにかからないよ」
「なら、お釣りは明日返してもらえばいいから。いいか、絶対に歩いて帰るなよ」

 そこまで言われて受け取らないわけにいかない。いつもは歩いて帰る道のりだけど、今日だけはタクシーを使おうと決めて、お礼を言ってお金を受け取った。

「気をつけて帰れよ」
「うん」

 そして二人が乗ったタクシーが走り出す。
 竹ノ内さん、遠野のことをかなり本気みたいだった。竹ノ内さんのことだから、これをチャンスに遠野に迫るのかな? それに対して遠野はどう返事するのだろう。
 もし二人がうまくいってしまったら……そんな心配をする羽目になるなら、遠慮しないでタクシーに乗ればよかったのかな?
 自分で手放したくせに、二人のことが気になって仕方がない。けれど、うしろめたさに臆病さがプラスされ、どうしても自分に素直になれなかった。
            



[2013年3月9日]

 
 
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