第十一章 切なくて苦しくて(011)

 

 遠野たちと別れ、ひとり電車に乗り、最寄駅に着いた。もちろん遠野の言いつけ通り、ちゃんと駅前でタクシーに乗った。

「五千円でお願いします」

 アパートに到着すると遠野からもらった五千円札を差し出す。本当は自分のお金で支払いをしたかったし、千円札も小銭もあったけど、遠野のことだからちゃんとお金を使わないと怒ると思った。それにお金を使わないことは、遠野のプライドを傷つけることにもなる。
 だけど五千円札を見た運転手さんは、今にもチッという舌打ちが聞こえてきそうな顔をした。
 運転手さん、感じ悪いんですけど。

「おつりね……。千円札、あったかなあ。前のお客さんの時に使っちゃったんだよねえ」

 ぶつくさ言いながら、おつりを準備する運転手さん。千円札三枚を手にしているので、あと千円足りないらしい。
 どうしよう。千円札で払った方がいいのかな。でも今さら「千円札で払います」と言うのは勇気がいるなあ。ていうか、別に、おつりは小銭で払ってくれてもいいんだけど。
 すると「あった、あった」と言いながら、ズボンのポケットからよれよれの千円札を取り出した運転手さん。
 うっ、……。なんか複雑な気分。だけどお金はお金だしね。

「四千円と、あと290円ね」
「お手数かけて、ごめんなさい」

 ぺこぺこと恐縮しながら、おつりを受け取った。
 私が謝る必要もなかったとは思うんだけど、ま、いっか。
 運転手さんのことを、まるで遠野みたいだなと思いながら、タクシーを降りた。どうも、遠野のおかげで耐性がついたらしい。ちょっとやそっとのことではイラつかなくなったようだ。


 アパートに帰ると、ちょうど遠野から電話がかかってきた。あまりのタイミングの良さに笑ってしまいそうになる。でも、このタイミングも遠野がしっかりと計ってくれているものなのかなと考えてしまうのだから、私はおめでたい人間だ。居酒屋で冷たくされたことも、すっかり忘れていた。

『無事に帰れたか?』
「うん。ちゃんとタクシー使ったよ。明日、お釣り返すね」
『ああ』
「それよりさ……」
『ん?』

 遠野はどうだった? メールではなく、わざわざ電話をよこすということは今は一人なんだよね?
 竹ノ内さんとあれからどうなったのか聞きたかった。

『何?』
「……竹ノ内さんは無事に帰れたの?」
『ちゃんと送ったよ。何だよ? 俺が部屋に上がり込んでいると思ったのかよ?』
「そうじゃないよ。ただ、竹ノ内さん、すごく酔っぱらっていたから、大変だっただろうなと思ったの」
『ケロッとしていたよ。酔いが醒めたって言っていたけど』
「へえ……そうなんだ……」

 だから、そのあとのことが聞きたいんだけどな。まさか告白されたとか、そういう展開になっていたらどうしよう。
 電話越しに聞こえてくる声からなんとか悟ろうとするけど、いつも通り過ぎてさっぱり分からなかった。

『とにかく佐々木が無事に帰れたんならいいんだ。それだけだから』
「……うん。ありがと」
『じゃあな』
「……うん。おやすみ」

 淡白な遠野に対して力なく返事をして、寂しく終話ボタンを押した。
 ああ。なんか、もやもやする。それで竹ノ内さんとはどうなったのよ?
 けれど結局何も聞けずじまい。私から訊ねるわけにもいかないし、そんな権利も資格もない。
 所々落ちかけたマニキュアは今の自分をあらわしているみたい。恋も仕事もどれをとっても不完全な自分がもどかしくて仕方がない。今の私は心の裏側がぐちゃぐちゃだった。

 そして数分後に再び着信を知らせる電話の相手になんのトキメキも感じないと改めて気づいて、電話に出るのをためらってしまう現状に溜息が出た。

『麻衣?』
「うん」
『今、どこ?』
「家だよ」
『そっか。ならいいんだ』
「電話して平気なの?」

 おうちに奥さん、いるんでしょう?
 潜めた声が逆に痛々しい。瀬谷課長が夜、私に電話をかけてくるなんて、よっぽど大変なことだと思うんだけど、ちっともうれしくない。

『少しだけなら。うちの奴、今、風呂に入っているから』
「無理しないでよ。メールでもよかったのに」
『声が聞きたかったんだ』
「そんなこと言うなんて珍しいね」
『いつも思ってたよ。今もすごく会いたい』

 奥さんが入浴中の電話。その生々しい状況がこの上なく私を貶(おとし)めていた。自分がなんて汚らしいのだと、思った。今までしてきたことに対する罪の意識が私を苦しめる。

『一人で帰ってきたのか?』
「そうだけど」
『遠野たちは?』
「竹ノ内さんが酔っぱらっちゃって、それで遠野が彼女を送って行ったの」
『あの子、遠野のことを狙っていたからな。わざと酔っぱらったのかな』
「……」
『もしかして気になるのか?』
「別に。そんなの、どっちでもいいよ」
『どっちでもいいねぇ……』

 瀬谷課長の疑いの声は続く。
 もう遅いよ。そうやって束縛しようとしても。どうせ悔しいからなんでしょ? 今まで一途に思い続けていた私の気持ちが揺れていたから。
 だけど、もう遅いの。私の気持ちはもう、あなたにはない。

「もう、切るね。奥さん、そろそろお風呂から上がってきちゃうんじゃない?」

 一刻も早く電話を切りたかった。すぐ傍にお子さんもいるのに、こんなこと……

『麻衣……もしかして本気なのか?』
「……違うよ。だけど、もう、瀬谷課長とは──」
『麻衣、その話は今度ゆっくりしよう。今は無理だ』
「……分かった」

 遠野への気持ちを誤魔化してしまった。だけど今はその方がいいと思った。二人の関係が私のせいで変わってしまうのが怖かった。

『また連絡するから』

 瀬谷課長はそう言い残すと慌てたように電話を切った。

 その話は今度か……
 思いもかけず私たちの関係の亀裂が明るみになった。今日の展示会の会場で無理矢理言わされたとはいえ、自分から『好き』と言っておきながら、この状況。
 いったい何だったのだろう。あれだけ好きで好きでどうしようもなかったのに、壊れる時はあっという間。砂の城のように脆く、儚い。


 ◇◆◇


 翌日となり、出社早々、竹ノ内さんに捕まった。彼女の目的は、昨夜のタクシーでの遠野と私の会話のことを問いただすため。

「どうして遠野くんは佐々木さんの近所のことに詳しいのよ?」
「うちの近所を車で通ったことがあるみたいなんです。だから、じゃないでしょうか」
「ほんとに?」
「ほんとですって」

 ──駅に着いたらタクシー使え。あの辺、暗くて危ないだろ?

 遠野は、竹ノ内さんが酔っぱらったフリをしていたことに気づいていないものだから、油断してあんなことを言ったのかもしれない。挙句、タヌキ寝入りしているとも思っていないから、私にタクシー代を渡した。
 ああいう状況でタクシー代を渡す人は多くはないよね。実際、他の人からタクシー代をもらうのは初めてだったし。ここ最近、遠野の言動にはドキドキさせられてばかり。思い出すだけでも胸が熱くなる。
 他人から見たら、私の態度は怪しく映るのかもしれない。そんな様子を竹ノ内さんはしっかりと目撃していた。おそらく相当ヤキモキしていたと思う。

「でも、タクシー代を渡すなんて、遠野くんはやさしいよね……やっぱり佐々木さんだからかな?」

 竹ノ内さんの声が急に沈む。溜息まじりの切なそうな顔。その様子がいつもと違って弱々しい。
 でも落胆している竹ノ内さんを見て、どこか安心している自分がいる。二人の仲に進展はなかったのだと、直感した。微々たる優越感。私の中で貪欲な卑しさが顔をのぞかせていた。

「はぁ……だけどその“やさしさ”がよかったりするんだよねぇ。いつもはクールな感じなのにハートは熱いのかなって、きゅんとなっちゃうんだよね」

 竹ノ内さんの表情が柔らかくなる。それを見て、さっきの優越感は覆されてしまった。逆に私の中の貪欲な卑しさが、強烈な息苦しさとなって襲いかかってきた。人の不幸を望むような行為。そんなふうに思うなんて最低だ。
 思いもかけず、そのことを竹ノ内さんに教えられた。

「たぶん、特別な意味はないんだと思います。相手が誰であれ、遠野はその人を心配すると思います」

 私は真剣に言葉を選んだ。遠野の身になって一生懸命考えた答え。
 それを自分で言って改めて気づく。今さらやさしくされたくらいで何を勘違いしているのだろう。決して特別なことをされたわけではない。きっと、私でなくともそうしていたはずだ。

 その後、私はトイレに立ち寄って気持ちを切り替える。それから鏡の中の自分に言いきかせた。
 うぬぼれちゃダメ。そもそも今の私は遠野に向き合っていけない立場。気持ちを伝えることはもちろん、気づかれることも避けなければいけないんだ。だから、いつも通りに接しないと……


 その後、ようやく営業部に辿り着いた私は、さっそく遠野に昨日のおつりを返す。

「どうして一枚だけきったねーんだよ」

 案の定、よれよれの千円札を見て遠野が言うので、昨日のことを説明した。

「げっ。オヤジの尻の下にあったやつかよ」
「ごめん。気持ち悪いなら、取りかえるよ」
「いいよ。どうせ、すぐに使うから」
「え?」
「佐々木。コーヒー買ってこい」
「はぁ? どうして?」
「いいだろ、それくらい。佐々木もこれで好きなの買ってきていいからさ」

 そう言って、傲慢な顔して、よれよれの千円札を私に渡す。だけど、今日はなぜか素直に従ってしまう私。

「分かったわよ」
「おっ。やけに聞き分けがいいな」
「ちょうど私も飲みたいと思ってたとこなの」

 からかわれたので、捻くれた言い方をしてしまう。
 でもね、本音は構ってもらうのがうれしかったんだ。こうやって、言いたいことを言い合って会話をかわすことが、乙女心を刺激するんだよ。私と遠野の間の関係に変化が生じたおかけで、いつものやり取りもそんなふうに思えるようになったんだ。
 瀬谷課長のことになると、ぎくしゃくしてしまうから余計にこの遠野との掛け合いがうれしくて堪らない。秘めた想いはそのままにするから。日常の中から小さな幸せをみつけることぐらい、いいかな。



「もう、出かけるの?」

 コーヒーを飲み終えた遠野がバタバタと机の上を片付けて席を立ち上がったのを見て、声をかけた。

「ああ。例の、客んとこ」

 急遽、遠野が見積もりを得意先である代理店に一人で届けに行くことになった。見積もりとは金曜日に一緒に残業して仕上げた案件で、昨日の午前中にその見積もりを提出したあとに客先からの要望で追加事項が発生し、今日もまた得意先に赴くことになったのだ。
 一緒に行くはずの担当者である瀬谷課長に他の予定が入ってしまい、田中部長も見積もりの内容を把握している遠野なら任せられると思ったらしく遠野一人で行くことを了承した。

「行って来る」
「行ってらっしゃい」

 スーツの上着を着て、颯爽と事務所を出ていく遠野。土曜日の海沿いデートの無邪気さは微塵もなく、少し寂しいなと思いながら見送った。

 でも遠野が出かけてすぐに、デスクの上に置いたままの携帯電話に気づいた。
 これ、遠野の電話だ! 忘れていったんだ!
 電話がないときっと遠困るはず。私はデスクの上の電話を手にして遠野を追った。
 まだ間に合う!
 だけど急いでエレベーターで一階に降りた瞬間、その光景に唖然としてしまった。
 受付のカウンターで遠野の姿を見つけたのはいいんだけど……
 何よ、何なのよ……これって何かの冗談?
 それは受付嬢と満面の笑みで話をしている遠野だった。

 何よ、遠野の奴、デレデレしちゃって。鼻の下なんていつもより2割増しで伸びているんだけど。
 だけど感情を表に出してはいけない。なんとか心を鎮めながら遠野と受付嬢に近づいた──つもりだったんだけど。

「遠野、忘れ物!」

 私は震えそうになる手を誤魔化すために、持っていた携帯電話を投げつけるように遠野に押しつけた。

「おっと!」

 遠野は焦りながらも、うまく受け取って手の中におさめていた。

「佐々木、乱暴に扱うなよ。落として壊れでもしたらどうすんだよ」

 そんなこと言われても仕方ないじゃない。突然、あんなシーンを見せつけられたら、動揺しない方がおかしいよ。

「……ごめん、つい」
「何、怒ってんだよ?」
「別に怒ってなんかないよ」
「そのわりには顔が怖いんだけど?」
「……これは生まれつきだから。愛想がなくてごめんね。それじゃ、戻るから」

 私は遠野に目を合わさずに営業部に戻って行った。

「いったいどうしたんだよ? 変な奴だな……」

 そんな遠野の不安そうな呟きは聞こえなかった。というより、聞く余裕がなかった。
 どこかで期待していたんだ。遠野にとって私は他の女の子たちとは違う存在なのだと。でも違った。そんなこと、考えるまでもないのに。私はとんだ勘違い女だ。


 自分のデスクに戻ると、ふらふらと椅子に落ちていった。

 柏木聡子さん。さっきの受付嬢の名前。
 聡子さんは名前の通り、聡明そうな女性。彼女は派遣の人で、年齢は私よりも少し上くらい。私とは正反対の悔しいくらいに可愛い容姿で、うちの会社の男性社員にも人気があった。
 派遣会社から支給されている制服は淡いピンクのAラインスカート。ベストはスカートと同じ色でホワイトとライトグレーのラインが控え目に織り込まれている。エレガントな制服はお客様にも評判がよかった。聡子さんはそんな淡いピンク色がよく似合う。

 私はあの時──
 聡子さんと一緒の時の遠野の笑顔を見ながら騙された気分だった。そんな資格なんてないのに、私は遠野と聡子さんに嫉妬していたんだ。
 遠野が普段見せない笑顔を聡子さんはいとも簡単に引き出している。この間の遠野の笑顔は私だけに向けられた笑顔ではなかったんだと、あの目尻の下がった目を見て悲しかった。そんな遠野を見つめる聡子さんの笑顔もとても可愛らしい。私はあんなに可愛く笑えない。

 やっぱり神様はいるんだね。さっそく罰があたったんだ。一瞬でも浸ってしまった優越感。私はそれすら許されない存在。横柄な自分を消し去りたくてもできなくて、ひたすら反省と後悔の思いで、身体ごと崩れそうだった。
 本命は聡子さんなんだね……
 二人のために私はこの先も遠野に想いを告げてはいけない、混乱する頭の中でそれだけが浮かんでいた。


 一時間後、遠野が営業部に戻って来た。

「はあ、疲れた」

 溜息をつきながら席に座る遠野を無視して、私はひたすらパソコンの画面を見ていた。一時間前の乱れた心は落ち着くことはなく、もう一度出かけてくれないかなとそればかり思っていた。

「そういえば、さっきのことなんだけど?」
「……」
「無視すんなよ」

 横目でチラリと遠野を見たけど返事ができなかった。うまく声がでるか不安だし、真正面から目を合わせたら泣かない自信がない。実際、キーボードに触れる指は震えていて、さっきからミスタッチばかりだ。ほとんど挙動不審状態の私は、じっとしていることしかできなかった。

「まったく。何なんだよ」

 遠野はわけがわからないという様子。それから不服そうに仕事を再開した。
            



[2013年3月10日]

 
 
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