第十二章 悲しい修羅場(012)

 

 そして、その二日後。
 受付嬢の聡子さんが遠野に告白したという噂が社内に広まっていた。

「とぉのぉー。いつの間に聡子ちゃんと仲良くなってたんだよ。あの子を狙っている奴、結構いたんだぜ」
「そうそう。しかも何でおまえが告られてんだよ? 普通、逆だろ?」

 営業部は朝からその話題で持ちきりで、先輩たちが遠野を囲んでからかっていた。

「いや……その話題は勘弁して下さいよ。仕事中ですから」

 実際、聡子さんの告白に対して遠野がどういう返事をしたのかは知らない。聡子さんのことでみんなにからかわれていた遠野は肯定も否定もしなかった。
 だけど、まんざらでもなさそうな様子を見て、きっとあの二人はうまくいった、そう思っている。

 おとといに見たあの光景は、告白されたあとだったのかな? カレカノの関係だから、あんなに仲よさそうに話していたのかもしれない。
 なんだ……嫉妬して携帯電話を投げつけた私は、かなり間抜けじゃないか。両想いのふたりに嫉妬して不機嫌になるなんて。

 ……涙もでやしないよ。

 遠野と聡子さん……
 お似合いだよ。二人はつり合っている。遠野にはああいう可愛い人が合っていると思う。
 それに受付嬢だけあって気も利くし、性格もやさしそうな人。いつも笑顔でおしとやかで、癒し系。きっと、働きづめの毎日の中で、受付に座る聡子さんを見ながら遠野も密かに恋心を抱いていたのかもしれない。

 車を動かしたいなら聡子さんを誘えばよかったのに。あの日の遠野は何を間違ったのかな。もう、私なんか誘わないでよね。聡子さんに悪いから、仕事は手伝うけど、ふたりきりの残業もパスだよ。

 遠野……
 それとも、あの笑顔も仕草も全部、嘘で、私をからかっていたのかな?
 それでも私はあの日のことを嘘だと思いたくないよ。例え嘘だとしても、知らないままでいさせて。だって海でのデートがすごく楽しかったんだもん。あの思い出は私の中でホンモノとして大切にしていきたいの……


「ちょっと佐々木さんっ! どういうことよっ!?」
「さあ……。私はよく知らないんです」

 その日のお昼休み。私は竹ノ内さんに呼び出されて会社の外でランチをしている。手作りのお弁当を持ってきているからと断ったんだけど、おごるからつき合いなさいと聞き入れてもらえず、渋々……

「あー、ムカつく! 派遣社員のくせして、うちの社員に手を出すなんて、許せない!」

 目の前で憤慨している竹ノ内さんだけど、私は彼女のように怒る気力はゼロに等しくて……

「遠野、ああいう人がタイプだったんですね」

 誰が見ても、絵になる二人を思い出していた。

「どうりで色気で迫っても素っ気なかったわけだ」
「竹ノ内さん、色気で迫ったんですか?」
「タクシーの中でさり気なく寄り添っても、あたしの必殺ウルウル眼差しで見つめてもちっとも動じないの」

 遠野、そういうあからさまなの、キライそうだからなあ。そもそも竹ノ内さんのこと、最初から興味なさそうだったから。
 ……とまあ、これも今だから言えることで、あの飲み会の時は気が気じゃなかったんだけどね。

「あの二人、いつからつき合っていたの?」
「だから私も知らないんです。仲がいいのは知ってはいたんですけど」
「何それ?」
「二日前にロビーで楽しそうに喋っていたので。いい感じに見えました」

 私がそう言うと竹ノ内さんはがっくりと項垂れた。
 その気持ち、よく分かるよ。力なくなっちゃうんだよね。あの遠野が特定の女の子とつき合うなんて初めて聞くから、きっと本気なんだろうなって思っちゃうんだよ。
 この一年半、私と遠野には何もなかった。毎日のように顔を合わせて、席も隣同士で。なのに何の進展もなかったのだから、そもそも期待するだけ無駄だし好きになること自体間違いだったのだ。


 ◇◆◇


 遠野と聡子さんの噂から数日後。久しぶりに瀬谷課長に呼び出された。
 私は彼の車に乗せられている。いつもだったら行先はラブホテル。私が一人暮らしをしているアパートだと誰が見ているか分からないので呼べないのだ。
 だけど今日はラブホ直行を断った。それなのに……

「行かないって言ったのに。勝手にこんなところに連れて来ないでよ」

 着いた先はラブホテル。その薄暗い駐車場に車はとめられていた。
 今日は会う早々、瀬谷課長に別れ話を切り出していた。だけど納得してくれない瀬谷課長は強引にラブホテルに私を連れ込もうとしていたのだ。

「話し合うためだよ」
「話し合いなら、ホテルじゃなくてもいいでしょ」
「麻衣……頼むから」
「やだ! 早く車を出してよ」
「落ちつけよ。麻衣らしくない」

 私は決めていた。今日こそ瀬谷課長と別れることを。
 この頃の私は毎日考えるのは遠野のことばかり。聡子さんと一緒のところを目撃して以来、遠野を余計意識してしまう。
 あの噂は私にとっては逆効果だった。遠野のことを考えないようにするどころか、ますます自分の心が露わになるばかりだった。

 遠野と一緒にいる時は自然なありのままの自分になれた。瀬谷課長の前では常に物分かりのいい賢ぶったいい女を演じていたから。怒ったり大声で笑ったり、仕事の愚痴を言ったりすることができなかった。
 だんだんと傾いていく自分の気持ちに気づきつつ、どうしても遠野に気持ちを伝えられなくて悲しい恋だった。本当だったら聡子さんの存在は自分の想いに終止符を打ついい機会だったけど、未だにそれができないまま……
 だからと言って私の気持ちは瀬谷課長に戻ることはなかった。
 報われない恋だけど、このまま遠野を好きでいてもいいのかな?

「どうしたんだよ? なんで急に別れ話なんだ!? やっぱり遠野のことを好きなのか?」
「……それは違う。遠野は関係ない!」
「誤魔化すなよ!」
「ほんとに違うから。だって遠野は……」
「派遣の受付嬢とデキてるんだってな。それは知ってる。でも麻衣の気持ちは遠野にあるんだろ?」
「……だから、それは違うの」
「麻衣、どうせアイツには女がいるんだ」

 瀬谷課長に遠野のことを諦めるように諭されていた。たまたま遠野と聡子さんとの噂が広まっていたから、遠野に対する敵意みたいなものは薄らいでいたみたいだったけど。それでも瀬谷課長は遠野の存在をしきりに気にしていた。だから私は、遠野に迷惑をかけたくなかったから、全否定した。

「勘違いしないで。私は、遠野のことは好きじゃない」

 ──別れたいの

 その言葉を告げた私は急だったわけでもなく、平気だったわけでもない。あんなに好きだったから、この言葉を言うことはすごく勇気がいった。好きとかじゃなく、ただ勇気が必要だった。

「もう潮時だよ。瀬谷課長だって私とこの先、ずっとつき合っていくつもりは最初からなかったでしょ?」
「そんなことはないよ」
「嘘ばっかり。奥さんと別れる気なんてさらさらないくせに」
「だけど麻衣と別れたいと思ったことはないよ」
「それって私を一生、愛人として囲うつもり? 冗談でしょ?」
「麻衣の言いたいことは分かってる。この間は子供が病気だったから仕方がなかったんだ」
「そう。それは仕方がなかったこと。だけど私はすごく悲しかった。そしてそう思ってしまう自分も嫌だった。負けるに決まっているのに……瀬谷課長は当然のことをしただけなのに」
「麻衣、ごめんな。この間の埋め合わせをするよ。辛い思いをさせて悪かった」
「だからもうダメなの! これからは奥さんと子供を一番に考えてあげて」

 瀬谷課長が家族を何よりも大切にしていることはよく知っている。私よりも、その存在は尊くて……
 相手が自分の可愛がっていた部下だったのが悪かったんだ。私が好きになった人が遠野ではなかったら、きっと私をあっさり見限っていたはず。
 いい会社に就職して、素敵な家庭を持って、可愛い子供を授かって、順調に出世をしていった瀬谷課長にとって、私みたいな平凡な女をうまく操縦できないことはプライドが許さないのだろう。私が遠野を選ぶことは、二匹の飼い犬に手を噛まれるのと同じなんだ。

「本当に、ごめんなさい」

 そう言うとシートベルトのバックルに手を伸ばした。このままここで車を降りようと思っていた。
 するとそれを察知した瀬谷課長が私の右手を掴み取った。その顔は人が変わったかのように冷酷。手首から伝わる冷たい体温が私の体を刺激して、体中の血流がドクドクと勢いを増していった。

「離して」
「ダメだ。帰さない」

 冷淡な声が耳元で響いた。さっきより近づいた瀬谷課長が私の身体の上に覆いかぶさろうとしている。耳にかかる息が私の身体を震え上がらせた。

「やめて……」

 大きさを増した瞳孔がこちらを鋭く睨みつける。
 その迫力に身体が硬直して力が抜けそうになる。掴まれている手首の圧迫感は相当なもので、怯えている私の目から涙が零れ落ちた。

「やめないよ。例え、麻衣が泣いても」

 頬の上を流れた雫を彼の舌先が舐めとった。生ぬるくて、ざらつく感触がとてつもなく気持ち悪く感じた。
 かつて私の身体を悦ばせた舌が凶器となって襲いかかる。そう、私を知り尽くした舌は私の悦ぶ場所をたくさん知っている。耳元、首筋、鎖骨……どんなふうにすれば感じるのかを知っているからこそ、脅威なのだ。

「私と別れた方が瀬谷課長にとってもメリットがあるの。家庭を壊したくないでしょう?」

 彼を怒らせてはいけない。彼のプライドを傷つけてはいけない。私は慎重に言葉を選んだ。

「俺はこう見えても欲張りなんだよ。妻にバレても困るけど、麻衣を手放すのも惜しいんだ」
「今さらだよ」
「何が“今さら”なんだよ?」
「私のこと、どうせ本気じゃなかったくせに」
「おかしなことを言うな。今まで麻衣のこと、大事にしてきただろ」
「それは自分の都合のいい時にだけ私を呼び出していただけ。ホテルに誘ってやることやって、あとはバイバイ。私はもっと一緒にいたかったの。一度でいいから、一緒に朝を迎えたかったの」

 気づいたら胸に秘めていた思いをぶちまけていた。力でねじ伏せようとしていることに負けたくなかった。自分の身は自分で守る、それが私の生き方だったから。

「それならそうとどうして言わなかった? そうして欲しいなら、なんとかするよ」
「だから、もうそんなことはしてもらわなくていいの。私たち、これ以上一緒にいてはいけない」
「麻衣……これからはもっと大事にするよ。だから機嫌を直して」

 瀬谷課長の右手が私の胸に触れた。そっと撫でられ、全身が粟立つ。

「やめて!」

 動く右手を掴もうとしたら逆にその手が捕まった。両手首を拘束されて、抵抗できない。

「そんなこと言うなよ。好きなんだよ。どうしても麻衣を諦められないんだ」

 今度は切なさを含んだ声と迫る瀬谷課長の唇が私を惑わせようとする。キスを迫られて顔を背けると、首筋に顔を埋められた。

「麻衣、部屋に行こう。不満があるなら言って欲しい。ちゃんと全部聞く覚悟はあるよ」

 髪が触れて露出している部分の肌がむずかゆい。高尚なテクニックを持つ瀬谷課長の唇の動きに惑わされそうになる。そこに嗅ぎなれたフレグランスが漂って脳内が麻痺してきそうになった。
 かつて私は、いつもこうやって堕とされていた。だけど、ダメ……そこに戻ってはいけない。こんな関係を続けていたらお互いに堕落してしまうのは目に見えている。だから、お願い、誰か助けて……
 ひとりぼっちの私の心に仕掛けられる誘惑の罠。私はそこから逃れる方法を必死に探していた。

 ……遠野

 浮かび上がるのは遠野の顔。傲慢で口の悪い男だけど、誰よりもやさしかった。そして誰よりも私を心配してくれた。
 助けてよ、遠野。私、遠野じゃなきゃ、ダメなの……

「いてっ!!」

 私は渾身の力を込めて瀬谷課長の右手に噛みついた。その瞬間、拘束されていた手が解かれた。
 今だ!
 その隙にシートベルトを外しドアに手をかける。

「麻衣!」

 肩を掴まれて車の中に引き込まれそうになるのをなんとか逃れて……

「きゃぁ!」

 転がるように車から落ちた。
 膝を強く打って強烈な痛みが走ったけど、どうにか立ち上がった。

「待つんだ!」

 瀬谷課長が運転席から怒鳴りつけるように叫んだ。
 もちろんそんなの無視! 私はラブホテルから全速力で駆け出していた。無我夢中で、周りなんて見えていなかった。途中で何度も携帯電話が鳴ったけど、それに出ることはしなかった。

 強引な別れ方だと思う。だけど私たちの間には話し合う余地はないような気がした。
 私は彼に求められていない。今は、私の心変りにプライドが傷つけられたから執着しているだけ。私のカラダを求めたのは、好きという意味じゃない。だって今までの瀬谷課長は私のことなんて二の次だった。
 例え私がアパートの部屋で一人泣いていようともそんなことに気づいてはくれない。大きな虫が出て困り果てていても、コンビニ強盗犯が近所をうろうろしているかもと恐怖に駆られていても、きっと何も思わない。自宅で家族といる間は、私のことなんてきれいさっぱり忘れているのだ。

 そんな卑劣な男。
 そして、それよりも最悪なのはこの私。

 だけど、おかしいの。
 もう、好きじゃないのに涙が止まらないのはどうしてだろう。半年間のこの関係は私にとって幸せな時間だったからなのかな。

 きっとそうだったんだ。辛かった。でも幸せだった。

 色気のない仕事漬けの毎日は逆に私から張り合いを奪っていった。一生懸命に仕事をしていても、どこかに感じる喪失感。
 そんな時に瀬谷課長の甘い言葉や視線は潤いを与えてくれて、少なくとも会社に行くことは楽しくなっていった。瀬谷課長の存在がスパイスになって、隠している女の部分を刺激されることで私はどんどん満足していった。
 瀬谷課長は仕事でもプライベートでも私を必要としてくれて……カラダだけだとしても、そこに自分の価値を見出していたのかもしれない。
 二人で会う時も、ただそれだけで満足で……

 だけどいつからだろう。だんだんと不満が募っていった。大好きな人に会える喜びの裏に潜む、どす黒い塊が私を脅かす。瀬谷課長が常に奥さんやお子さんを優先していることが許せなくなっていった。
 辛い思いをさせて悪かったと申し訳なさそうな声で言われても、どうせ彼は同じことを繰り返す──
 それが悔しい。それをまた許してしまう自分が悲しい。

 もちろん瀬谷課長には感謝している。
『麻衣を誰にも渡したくないんだ』
 そう言って初めてカラダを求められた夜。十歳も年上の大人の男の包容力にどれだけのエネルギーを与えてもらっただろう。
 瀬谷課長は私を綺麗だ、可愛いと褒めてくれる。仕事に関しても優秀だと認めてくれた。たったそれだけの言葉が今までの私を励まし続けてくれた。私はここにいていい存在なのだと思わせてくれた。

 だから私も彼のために……
 そして得られる幸せ。不倫でも私たちの中には揺るぎない愛はあった──
 心からそう思っていた。

 だけどそう思っていたのは私だけで、次の日、私は衝撃の事実を知ることとなる。
            



[2013年3月12日]

 
 
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