第十三章 人生の岐路(013)

 

「佐々木、ちょっと来い」

 営業部が閑散とした午後、田中部長に会議室に呼び出された。
 どことなく険しい表情とその声色に何事かと思った。いつもと違う雰囲気が漂い、何かミスをしたのだろかと不安に思いながら会議室に入る。

 それとも瀬谷課長のことだろうか。今朝から彼とは挨拶もかわしていない。近づきもしなかった。それはもう、まさに泥沼で、こじれにこじれた最悪の関係だった。
 だからもしかすると昨日のことを根に持った瀬谷課長が、私の仕事の無能さを田中部長に指摘したのかもしれない。この部署に不必要だとバッサリと切られたのかも。
 そんなことが頭をよぎり、椅子に座ったのはいいけど緊張して顔を上げられなかった。そんな中、田中部長が口を開く。

「佐々木と瀬谷課長がラブホテルで目撃されたことが社内で噂になっている」
「えっ?」

 反射的に顔を上げた。

「駐車場で揉めている二人をうちの女子社員が目撃したそうだ。誰が噂を流しているかは定かではないが」

 昨日の修羅場を誰かに見られていた……
 うちの部署は今日は朝から忙しくてみんな出たり入ったり。そんな噂をする人はいなかったから気づかなかった。

「午前中、瀬谷課長にも話を聞いたんだが……」

 田中部長は言葉を濁し、そして続けた。

「佐々木から瀬谷課長に迫っていたんだってな。昨日も佐々木にしつこくつきまとわれて、仕方なくラブホテルの駐車場まで行ったと言っていたぞ」
「そんな……」

 そんなの嘘……事実と違うのに。

「どうなんだ?」
「それは……」
「瀬谷課長に家庭があることは知らなかったわけではないだろう?」
「はい」
「ならどうして社会的に批判されるようなことをしたんだ? ホテルに行ったのは今回が初めてだったらしいが、許されることじゃないだろう」
「はい……」
「本当に佐々木から迫ったのか?」

 言い訳する気も起きなかった。私との半年間はなかったものとして、瀬谷課長は私との関係を否定した。それは仕方のないことだけど、ラブホテルに誘ったのは私からだなんて。しかも無理矢理……

「すみません」
「認めるのか?」
「……」
「佐々木、なんとか言いなさい」
「……」

 あんなに好きだった瀬谷課長の本性を知ってしまい、愕然とした。私一人が悪者になって、追い詰められた状況にいた。

「答えなさい!」
「……」

 すると、何も答えない私に田中部長は半分業を煮やしたように言い放った。「分かった。もういい」と。最後に、会議室を出て行く田中部長が「異動も覚悟しとけ」と言っていたことなんて、どうでもよかった。

 自分で捲いた種。そう言ってしまえば簡単だけど失うものが大きすぎる。
 やっと仕事に誇りを持てるようになったのに。やっと遠野が好きだと自覚できたのに。失業と失恋と失望。トリプルパンチを食らってしまった。
 罰があったのかな。

「転職先、考えないと」

 異動という選択肢は私にはなかった。


 ◇◆◇


 次の日、私は退職届を準備して出社した。
 夕べ一睡もせずに決めた答え。
 どうせ辞めるのなら早い方がいい。とにかく自分を消してしまいたかった。自分の存在が恥ずかしくて、今日、会社に来ることだって怖かった。いざ出社すると、みんなが私を蔑むように見ているような気がしてならなかった。

「佐々木」
「はい」

 今日も田中部長に呼ばれた。出社後間もなくのことだった。田中部長の顔を見なくとも声のトーンで用件は容易く想像がつく。
 今度は何の話だろう? クビを言い渡されてしまうのだろうか。
 人の良い田中部長にまで迷惑をかけてしまい、今さらながら自分のしたことの重大さを思い知る。

「あの、どこに行くのでしょうか?」

 今日は会議室ではなかった。エレベータホールに向かっているので、別な階のフロアのようだった。

「俺はまだ納得していないからな」
「え?」
「俺の質問にまともに答えないから、昨日は怒ったんだ」

 どういう意味だろう?

「ほら、行くぞ」

 さっきのセリフに驚かされたまま、エレベーターに乗り込んで、息を呑んだ。押された階は、最上階だった。
 そして連れて行かれた先は『社長室』と書かれた重い扉の前。とうとうあの噂が社長の耳にも入ってしまったのだ。

「田中部長?」
「なんだ?」
「こんなことになってしまって申し訳ありません」

 社長室の前で立ち止まり、田中部長に頭を下げた。私は田中部長の査定にまで影響を与えてしまったのかもしれない。少なくとも私のせいで田中部長の会社での立場を悪くしてしまった。

「社長は曲がったことが嫌いな性格だ。きついことを言われてもちゃんと歯を食いしばれよ」
「はい」
「大丈夫だ。俺がついてる。頼りないかもしれないけどな」
「……そんなことないです。ありがとうございます」

 違う意味で涙が出そうだった。こんな私のためにやさしい言葉をかけてくれて、こんなにも恵まれた環境で働けていたのだと改めて思った。
 なんとか頑張れそう。激しく責め立てられても、ちゃんと受け止めよう。

「失礼します」

 社長秘書に断りを入れて、田中部長のあとについて私も社長室に入った。

 社長室に実際に入るのは初めてだった。会社のパンフレットでしか見たことのなかった社長室。床は大理石。天井は煌びやかなシャンデリア。間接照明もヨーロッパ調の華やかなもので重厚感があった。
 それだけですでに圧倒されているというのに、さらに部屋の中央には存在感のある黒い高級革のソファの応接セット。その高価なソファに社長はすでに座っていた。

「どうぞ。かけて下さい」

 社長らしからぬ丁寧で穏やかな口調。
 社長とは、月一回の全体朝礼や新年会などでしか会う機会はない。いつも遠くの存在。社員の私ですら社長の顔は会社のパンフレットの中の社長のイメージしかなくて、こうして近くで見ると失礼だけど写真よりも白髪も多くかなり老けていた。
 田中部長が先に腰をおろし、私もその隣に座る。
 ゴクリと唾を呑み込む。緊張して体が震えた。もちろん何を言われるのか、分かっている。けれどその相手が社長だと思うとどうしようもなく怖い。
 じっと耳をかたむけていると「さっそくですが」と社長が話し始めた。

「社内の噂のことを他の役員の方から聞きました。佐々木さんもその噂のことは知っていますね」
「はい」
「普通は社員の恋愛の噂くらいで当人を呼びつけないのですが、今回は聞き逃せない内容でしたのであなたをここに呼びました」
「申し訳ありませんでした」
「瀬谷課長の言っていたことも本当ですか?」

 瀬谷課長もここに呼び出されたんだ。そして社長にも私にしつこく迫られて困っていたと言ったのだろう。
 その時の様子を想像すると、一緒に過ごした日々はなんだったのだろうと人間不信に陥りそうになる。
 どれだけ恨まれているのだろう。私への気持ちは全部偽りだったの?

「はい。その通りです。私が瀬谷課長にしつこく迫っていました」

 否定してもどうせ信じてくれないに決まっている。それに悪いのは私だ、そう思ってすべてを諦めていた。
 それにこんな問題なんてさっさと終わらせてしまいたい。瀬谷課長を本気で好きでした──と、そんなセリフを口にすることも嫌だった。
 だけど……

「それはおかしいですね」

 社長が首を傾げる。
 覚悟を決めて言ったのに、今の、おかしかったかな? 意味が分からずに固まってしまった。
 すると社長は静かに話を続けた。

「そのことが事実ならどうしてあなたは瀬谷課長の車から飛び出したのですか?」
「そ、それは……」

 別れ話がこじれたからなんだけど。
 あの時、本当に怖かった。あの瞳に脅されて何もかも諦めようとさえ思った。だけど、ふと脳裏に浮かんだ遠野の言葉が私に勇気をくれた。

 ──何かあったら、電話しろよ。駆けつけてやるから

 実際、遠野に頼るつもりはなかった。けれど、あの時の言葉を思い出して思ったのは、私は一人じゃないということ。そう思えただけで私は幸せだった。

「佐々木さんが無理矢理、瀬谷課長を誘ったのでしょう?」
「……」
「自分でホテルに誘っておいて車から逃げるように飛び出すのは不自然だと私は思ったのですが……」

「考え過ぎだったかな」と社長が意味ありげに笑った。
 そう言われてみればそうだ。そういう見解が普通なのかもしれない。もちろんそうとは限らないのだけれど、社長が不審に思ったのは事実。

「本当のところはどうなのでしょう? 事実が歪められていることはないのですか?」

 社長の柔和な眼差しが心に響く。喉まで出かかっていることをあらいざらい吐き出してしまえば、どんなに楽だろう。
 だけどそうすることで何が解決される? 瀬谷課長には奥さんもお子さんもいる。それなのに私が本当のことを言ってしまうと彼の将来を台無しにしてしまう。
 かつては本気で好きになった人。その人からすべてを奪えない。

「いえ、そんなことは……ありません」

 私だけが会社を辞めれば丸くおさまるのだ。きっとそれが正しいに違いない。言い争うことも本意じゃない。
 だけどそれでも社長は私の心を見抜いてしまう。

「瀬谷課長に裏切られて悔しくないのですか?」
「え?」

 社長の表情がまるで菩薩様みたいに思えた。だから気づいたら涙が出ていた。
 ありがたくて……やさしくされるのは苦手だよ。
 社長の前だというのに、大人気なく泣いてしまった。朝、気合いを入れてメイクした顔がドロドロに崩れていく。社会人なのに、ほんとみっともない。
 みっともないのだけど、分かってくれる人がいたと思えただけでうれしかった。それだけで十分だった。

 だけど現実問題として、私がどんなに言い訳をしても私がしてきたことは許されることではない。だから、どちらにしても非難は甘んじて受けるべきだと思う。

「悪いのは私です。責任は私が取ります」
「責任とは?」
「退職届です」

 私はポケットに忍ばせておいたそれを取り出して目の前のテーブルの上に置いた。

「佐々木、勝手にそんなものを出すな」

 いきなりのことで田中部長も困惑している。

「上司である田中部長にも受理されていないものを私が受理するわけにいきません。田中部長……」

 社長はその様子を見て言った。
 田中部長は「はい」と返事をするとテーブルの上の私の退職届を自分の上着のポケットにしまった。

「佐々木さん。事情はすべて分かりました。今日はもうよろしいですよ」
「……はい。失礼します」

 ソファから立ち上がり、社長室から出る時も来た時と同じように田中部長の後ろについて歩いた。
 このあと営業部に戻らなくてはならない。昨日はみんなと顔を合わせることはなかったけど今はまだ朝の早い時間。顔を合わせないわけにはいかない。
 もうみんなあの噂を知っているよね。どんな目で見られるのかな。遠野はどう思っているだろう。せっかく忠告してくれたのに、こんな最悪の結果になってしまったよ。


 営業部に戻り、私は俯いたまま自分のデスクに腰をおろした。瀬谷課長はデスクにはいない。今日から二日間の出張だった。出張は前から決まっていてこれは偶然のこと。この状況でそれだけが救いだった。

「佐々木……」

 隣のデスクの遠野が私を心配している。聞きたかった声……思わず縋ってしまいそうになる。
 一番知られたくなかった。私が瀬谷課長とラブホテルに行ったことを知ってどう思っただろう。まあどう思うも何も。遠野は聡子さんとつき合っているんだろうし。もともと私なんて眼中になかったのだから考えても無駄なこと。

「とうとうバレちゃった」

 だから、そう言って、おどけるしかなかったんだ。

 遠野はその日、それ以上何も言わなかった。
 やっぱり軽蔑されちゃったかな。時々、溜息みたいな声が聞こえてくる。

「遠野。頼まれていた見積書、できたよ」

 そう声を掛けても
「ああ」
 それだけしか返ってこない。

 みんなからの視線も痛くて、総務部に用事があって出向いた時もみんなが私を嘲笑っているみたいだった。瀬谷課長にストーカーみたいに迫って振られた女、きっとそう思っているのだろう。
 自分なりに仕事を頑張ってきたつもりだったけど、そんな努力、無駄だったみたい。結局、世の中とはこんなものなんだなとようやく現実を知った。


 その日の帰り。
 会社の外で遠野が聡子さんと一緒にいるところを見かけた。今日も可愛い聡子さん。だけど、今の私は彼女を妬む気力さえない。嫉妬心すら感じなかった。
 二人が夜の街に消えて行くのを見送りながら、涙がポロリ。
 ポロリと流れ落ち……
 今もこんなにも遠野を好きなのだ。そのことを胸の痛みが教えてくれた。苦しくて息がつまりそうだった。
 おめでとう、よかったね──あの二人にそう言えるかな?
            



[2013年3月16日]

 
 
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